夜の帳と、不穏な足音
あれほど里を包み込んでいた星霞祭の喧騒が嘘のように引いていき、深夜の香霞の里は深い静寂に支配されていた。
遠くで時折響く虫の声だけが、夜の長さを引き立てている。
二人はあらかじめ用意していた夜道に紛れるための黒い羽織を深く身にまとった。
同じく黒い衣に身を包んだ桂花が、暗闇の中で小さく頷く。
部屋を出る間際、桂花は文机の上に置いてあった、昼間に私が贈った『紅葉の透かし彫り簪』をそっと手に取った。
そして、いとおしむように撫でてから、自分の髪へと丁寧に挿し直した。
私はその様子を見て、少し心配になって声を潜めて囁いた。
「桂花、夜の山道は枝もたくさん生い茂っているし、落としたら大変だよ? 屋敷に置いていった方が安全じゃない?」
「ううん、ダメだよ」
桂花は振り返り、月明かりを浴びて、ひどく優しく、どこか切ない笑みを浮かべた。
「これをお守りにして、今夜は絶対に凛花を目的の場所まで案内するって、私、心の中で決めたから。これがあると、なんだかすごく勇気が湧いてくるんだもん」
「桂花……。うん、分かったわ。ありがとう」
彼女の強い決意が、その簪に込められているような気がして、私はそれ以上止めるのをやめた。
その時、私の視線が、部屋の隅に置かれた昼間の木彫りのお面に留まった。
「そうだ。あの鶯と猫のお面も、持っていきましょう。もし万が一、誰かに見つかった時に顔が隠せるから」
「あ、そうだね! 道中は暗いし足元も危ないから、視界を遮らないように、目的の高台に近づいたらお互いに被ろっか」
「ええ、そうしましょう」
二人で階段を降りると、お母様、華が待っていた。
「いよいよっすね」
「二人とも気を付けてね」
二人はしっかりと頷き合う。
「「それじゃ行ってきます」」
泰恒様から預かった重い幻夢香の道具を背負い、気配を完全に殺して屋敷の裏口から外へと抜け出した。
冷たい夜気が、お祭りで火照った肌を心地よく撫でていく。
月明かりだけが頼りの里の裏道を、桂花の確かな先導のもと、私たちは無言で進んでいった。
後宮で暗殺一族の歩法を叩き込まれた私と、この里の地形を隅々まで知り尽くしている桂花。
二人の足音が夜の闇に溶けていく。
しばらく歩き、人の気配が完全に途絶えた急な傾斜の手前で、桂花がふと歩調を緩め、前を向いたままぽつりと口を開いた。
「私ね……後宮で凛花と出会えて、本当に救われたんだ」
「え……?」
「凛花はいつも、自分のことは二の次で、誰かのために一生懸命で……。危ないことにも飛び込んでいっちゃうから、ハラハラすることばっかりだったけどね」
「でも、そんな真っ直ぐな凛花が近くにいてくれたから、私は自分の辛い過去からも逃げずにいられたの。……だからね、私にとっても、凛花は世界で一番大切な、自慢の親友だよ」
それは、まるでこれまでの感謝のすべてを、今この瞬間に絞り出すかのような、ひどく静かで重みのある告白だった。
私は胸が温かくなるのを感じつつも、桂花の言葉の裏にある、どこか一抹の寂しさと「お別れ」のような響きに、奇妙な胸のざわつきを覚えた。
「桂花、どうしたの? 急にそんな……」
「あはは、なんでもないよ! ちょっとお祭りの後でしんみりしちゃっただけ! ほら、そろそろ目的の場所に近づいてきたよ」
桂花はいつもの明るい調子で笑い飛ばしたが、その瞳の奥にある覚悟のようなものは消えていなかった。
今は余計な邪念を捨て、作戦を成功させなければと私は自分を奮い立たせる。
「……そうね。ここからは敵の警戒区域に近いわ。お面を被りましょう」
私は鶯のお面を、桂花は猫のお面を顔に覆い、私たちはさらに険しさを増す山道を登り詰めていった。
息を切らしながら岩肌を登りきると、ついに視界が大きく開けた。
そこは、賈鴆の豪華な屋敷と、その手下たちがひしめき合う不気味な村を一望できる、切り立った高台の頂だった。
遥か眼下に見える賈鴆の屋敷の窓からは、深夜だというのに不自然なほど多くの灯火が揺れているのが見える。
「よし、始めましょう」
私は背負っていた幻夢香の道具を手際よく地面に広げた。
ここからは私の、黒蓮の屋敷で嫌というほど叩き込まれた毒の知識の出番だ。
星霞祭の最終日の夜に風向きが山背へと変わる瞬間、その刻限を正確に狙って自動的に火がつき、煙が広範囲に広がるよう、特殊な導火線と時限式の仕掛けを精密にセットしていく。
火薬の量、香草の配置、すべてが完璧に計算された私の鮮やかな手際を、桂花はお面の下から感心したように見つめていた。
「やっぱり凛花はすごいね……。頼りになる」
「黒蓮での暮らしも、こんなところで役に立つとは思わなかったわね……。よし、これで仕込みはほぼ完了――」
私が最後の結び目を固定しようとした、まさにその時だった。
高台のすぐ下、賈鴆の村へと続く裏道の斜面から、かすかに複数の、しかし統率された重い足音が風に乗って聞こえてきた。
「っ……! 桂花、伏せて!」
二人は慌てて大きな岩陰へと身を潜め、お互いの体を押し付け合うようにして息を殺した。
恐る恐る岩の隙間から下を覗き込むと、そこには息を呑むような光景が広がっていた。
松明の赤い炎に照らされながら、賈鴆の手下たちが長い列をなし、大きな荷台をいくつも引いて、夜中にもかかわらず慌ただしく山道を移動していたのだ。
そして、その荷台の覆いの隙間から見えたのは――月光を鈍く反射する、大量の槍、剣、そして弓矢。
まぎれもない、大量の「武器」だった。
(なにあれ……。ただの里の制圧に、あんな大規模な武装が必要なの……!?)
見下ろす私の額から、タラリと冷たい汗が流れ落ちる。
鶯のお面の中で、私は荒くなりそうな呼吸を必死に抑え込んでいた。
「……あんな夜中に、一体どこへあの武器を運ぶつもりなの……?」
私の呟きは、不気味に動き続ける松明の列の影へと、冷たく吸い込まれていった。




