算段と、浮かれた作戦
「狙いは……後宮」
私がそう呟いた瞬間、大部屋の空気が一気に凍りついたように冷え込んだ。
窓から吹き込む夜風さえも止まったかのような静寂の中、桂花が驚愕に目を見開き、ずいっと身を乗り出してくる。
「え……!? なんで後宮なの!? だって、賈鴆たちの狙いはこの里の実権を奪って、香辛料を不正に囲い込むことなんじゃ……」
(兄様――黒蓮の首領であるあの人が、後宮に対して並々ならぬ執着と憎悪を持っていることは、今ここで話すとややこしくなるわね……。それに、桂花たちを余計に怯えさせてしまうかもしれない)
私は思考を瞬時に巡らせ、記憶の引き出しから、嘘偽りのない、かつ今の彼女たちに納得してもらえる言葉を慎重に選び取った。
「えっとね、桂花。私が月光宮に配属される少し前に、毒による騒動が後宮であったのは知っているよね? 王太后様のあの事件」
「うん。あの時は後宮中がひっくり返る大騒ぎだったって、明苺たちからも聞いたよ。……それが何か関係あるの?」
「その一件の調査の過程で、ある不穏な噂を耳にしたの。彼らが『正当な手段で後宮を襲撃する』ための計画を進めている、と」
「賈鴆がこの里で色々と奇妙な動きを出したのは数年前からでしょう? それなら、すべて合致するわ。後宮は巨大な城塞と同じ。普通に武力だけで落とすのは不可能な場所よ」
「だけど、もし『中から崩すための毒』を秘密裏に、かつ大量に準備していたとしたら……。これほどの長い年月と、この香霞の里という完璧な隠れ蓑が必要だった理由にも説明がつくわ」
私の緊迫した説明を聞いていた華が、ひどく呆れたように両手をパタパタと広げて、大袈裟に首を振った。
「いやー、それにしても毒で後宮襲撃とか、どこが正当なん?って話っすよねー。マジ文句しかねーし! あーしならそんなめんどくさい計画の途中で『はいはーい、無理ゲー!やってられっか!』って投げ出しますね、絶対! 地道に毒作り続けるとか執念深すぎてマジ意味不っす!」
「ふふっ、華ちゃんらしいわね」
重苦しい空気を一瞬で笑い飛ばしてしまう華の明るさに、桂花がたまらず「もー、華ちゃんったら!」と吹き出す。
長年この里の行く末を見守ってきた玄庵は、深く深く顎を引いて白い髭を愛おしそうに撫でた。
その瞳には、老練な知恵と、事態の深刻さを見抜く鋭さが宿っている。
「ふむ……凛花殿の推測が真実であれば、これは一刻を争う大事ですな。この香霞の里でいかに事態を抑え込めるかが、後宮のみならず、この国の今後のすべての状況を左右する」
「……凛花殿、先ほど『時間稼ぎ』とおっしゃいましたが、何か具体的な算段がおありですかな? いくら賈鴆の手下が油断しているとはいえ、我らだけでは戦力に差がありすぎる」
玄庵の真っ当な懸念に対し、私は確信に満ちた目で力強く頷いた。
「はい。私のお父様が、必ずここに助けに来てくれます。後宮を出る前、お父様の部屋にすべてを書き記した手紙を残してきました。お父様が戻れば、すぐに異変に気づいて動いてくれます。……それに、お父様ならきっと、後宮の最高権力である執政官の叡明様を動かして、公的な支援を取り付けてくれるはずです」
私の言葉に、桂花も「そうなの!」と勢いよく立ち上がって、玄庵に向かって胸を張った。
「玄じい、凛花のお父さんって本当にすっごく強いんだよ! 後宮の武官をやっててね、周りの人たちからは『武神』って呼ばれてるくらい凄い御方なんだから! だから、お父さんが来てくれれば絶対に大丈夫!」
「ほう……それはなんとも心強い。まさかあの明霞殿の旦那様が、それほどの武名を轟かせる御方になっておられたとは。いやはや、恐れ入りましたな」
玄庵が感心したように声を漏らすと、それまで私の隣で静かに娘の成長を見つめていたお母様が、ふっと悪戯っぽく、実になだらかな笑みを浮かべた。
「ふふ、あの人が『武神』だなんて、私も娘から聞くまで全く信じられなかったのよ。私たちが離れ離れになるときは、まるで一本の枯れた木の棒みたいに、細くて、頼りなくて、融通の利かないカタブツな人だったのにねぇ。そんな大層な名前で呼ばれているなんて、今でもちょっと想像がつかないわ」
「ふふっ、お母様、それはお父様が聞いたら泣いちゃうかも。今のお父様は、私の前だと本当にただの心配性なパパなんだから」
お父様の意外な過去と現在のギャップに、私とお母様の間に温かい笑いが零れる。
その穏やかな親子団欒の様子を見届け、安心したように桂花の父・泰恒が、ゆっくりと腰を上げた。
「皆、本当に頼りになるな。未来の『武神』の到来を信じるのであれば、我々が今すべきことは一つだ。賈鴆たちに対する時間稼ぎの件は、若い君たちに任せよう。私は菊花の様子を見に、一旦部屋へ戻らせてもらうよ」
「向こうに怪しまれぬよう、私は明日からもいつも通り、奴らの命令に従って幻夢香の作業に向かう。だが、奴らの動向や言葉はそれとなく盗み聞きして監視しておくよ。星霞祭の最中、私に協力できることがあればいつでも言ってくれ」
泰恒が静かに、しかし確かな覚悟を背中ににじませて部屋を出ていくと、華が「よしっ!」と小さく拳を握り、何か名案を思いついたように声を弾ませた。
「はい、はーい! それならさ、星霞祭の準備とかを、あーしたち里の人間がこれでもかってくらい楽しんでる雰囲気を出しまくるのはどうすか? そしたら向こうの奴らも『ふっ、里の連中め、危機感もなく浮かれておるわ。家畜めが』って鼻で笑って、絶対に油断するに決まってます! これぞ超絶ハッピー欺敵作戦っす!」
「それだわ! 華ちゃん、すごくいい案じゃない!? 星霞祭でハッピーなフリをして、裏で出し抜くなんて最高!」
「うん。でも、私と桂花、それにお母様は賈鴆の手下に顔を見られるわけにはいかないから、なるべく表舞台には出ず、目立たないように動かないとね。ここは里での人望が厚い華に、丸ごと一任した方が良さそうね」
「あー、そっか……。私たちが目立ちすぎたら元も子もないもんね。あ、華ちゃん。星霞祭っていつからだっけ? 準備はかなり進んでるみたいだけど」
「星霞祭は明後日の夕方から始まるんで、あと少しっす! さっきの『浮かれておる作戦』は、あーしが里の若い衆を巻き込んで丸ごと引き受けるんで、任せておきなってい!」
胸をドンと叩く華の頼もしさに、桂花は「じゃあお願いね!」と満面の笑みを浮かべ、それから私の袖をくいくいと、少し甘えるように引っ張った。
「ねぇ凛花、せっかくの星霞祭だし、何日かあるんだから、ちょっとだけでも一緒に回らない? 夜ならお面とか被っちゃえばバレないし!」
「うん、いいよ。私もここのお祭りは気になっていたし、息抜きも必要だもの。……お母様も、一緒にどうですか?」
「そうね。時間稼ぎの様子を見るためにも、少しだけなら皆で回りましょうか。久しぶりに、娘の手を引いて歩きたいわ」
「やったー!」
桂花の弾けるような歓声と、お母様の優しい微笑みが、これからの反撃の狼煙を告げるかのように、屋敷の中に温かく響き渡った。




