武神の怒りと、出陣の号令
木っ端微塵に吹き飛んだ執務室の扉。
舞い上がる木屑と土煙の向こうに――とんでもない形相をした一人の大男が立っていた。
遠征から帰還したばかりの武官、梟仙。凛花の父親である。
彼はゆっくりと、だが地響きのような重い足取りで叡明へと歩み寄ってくる。
全身から立ち上る怒気は、物理的な質量を持っているかのように室内の空気を軋ませていた。
「梟仙殿!どうか落ち着いてください!」
側近の高星が咄嗟に主君を庇うように前に出た。
だが、梟仙は歩みを止めず、地の底から響くような低い声で一言だけ言い放った。
「……退け」
その瞬間、高星は「くっ……!」と短く呻き、その場に膝から崩れ落ちた。
直接手を出されたわけではない。
ただ梟仙から放たれる凄まじい眼光と殺気立った「圧」だけで、高星ほどの武人が立っていることすらできなくなったのだ。
障害を排除し、梟仙は叡明の目の前へと歩み寄る。
(……目の前にいるだけで、生きた心地がしない。これほどとは……っ)
歴戦の修羅場を潜り抜けてきた叡明でさえ、本能的な恐怖で息を呑んだ。
「なぜ……お主が傍にいながら、このようなことになっている?」
梟仙はギリッと牙を剥き、叡明の胸ぐらを掴んで軽々と持ち上げた。
今にも背中の矛を抜き、この場で貫かれそうなほどの殺気だ。
「くっ……梟仙殿、お主の怒りは……分かっている……!」
叡明は首が締まる苦しさに顔を歪めながらも、逃げることなく梟仙の目を真っ直ぐに見返した。
「だが、どうか今は怒りを収めてはくれないか。ここで私を殺し、争ったところで……娘が帰ってくるわけではないのは、お主にも分かるだろう……」
「……ふん。ならば、状況を手短に話せ」
梟仙は忌々しげに舌打ちをし、叡明の胸ぐらから手を離した。
咳き込みながら姿勢を正した叡明は、園遊会での毒物騒動から、桂花の手紙、そして二人が忽然と姿を消したこの数日間の状況を簡潔に伝えた。
「……ならば、ほぼ何も進展はないということか」
「ああ……すまない」
「いや。凛花なら、私に何か残しているはずだ。……自室に戻る」
梟仙はそれだけを言い残し、嵐が去るように背を向けて執務室を出て行った。
圧倒的な圧力が消え、高星が荒い息を吐きながら何とか立ち上がる。
「……叡明様。大丈夫、ですか……」
「私なら大丈夫だ。……大切な娘がいなくなったのだ、彼は怒って当然だろう。しかし、あれほど巨大な『壁』だとはな。……私も、改めて覚悟しないとダメだな」
叡明は首元を押さえながら、どこか自嘲するように笑った。
一方、自室の長屋へと疾風のごとき速さで向かう梟仙の胸中は、怒りよりも焦燥で煮え繰り返っていた。
(凛花よ、一体どこへ行った……。いや、あの子は強い。まだいなくなってから数日。待っていろ凛花、パパが必ず助けるからな!)
息巻いて自室の扉を開けた梟仙は、ふと足を止めた。
殺風景な部屋の机の中央に、見慣れない一つの封筒がぽつんと置かれている。
「これは……凛花の手紙じゃないか!」
梟仙は慌てて手紙を手に取り、封を切って中身を読んだ。
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『お父様へ。
勝手な行動をしてしまい、本当にごめんなさい。でも、時間がありませんでした。
お父様。
お母様は生きています。
香霞の里という場所で、私と同じ侍女の桂花のご家族に匿われて、命を救われていました。
先日の園遊会での事件。
あの犯人は、桂花の幼馴染である白英という青年でした。
彼は、香霞の里を不当に支配し、黒蓮と手を結んだ「賈鴆」という男の危機を伝えるため、自らの命を懸けて後宮で騒ぎを起こし、私たちに警告をしてくれたのです。
賈鴆の真の目的は、里の掌握だけではありません。
この件には、あの強大な敵である『黒蓮』が深く関わっています。
どうか、この手紙を読んだら叡明様にも相談し、協力を仰いでください。
そして、お父様から叡明様に一つお願いしてほしいことがあります。
どうか、白英さんのためのお墓を作ってあげてください。
彼は決して悪人ではなく、大切な人を守り抜いた立派な人です。
私たちは一足先に、お母様のいる香霞の里へ向かいます。
お父様が来てくれると信じています。
凛花より』
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「これは……そうだったのか。明霞は香霞の里で匿われていたのか……!」
手紙を読み終えた梟仙の顔から、先ほどの怒りは消え失せていた。
愛する妻を長年守り続けてくれた桂花の一家。
そして、凛花たちに真実を伝えるため、命を懸けて泥を被った幼馴染の青年。
「……ふむ。これは、恩人に報わなければあるまい」
梟仙は手紙を大切に懐へしまうと、再び叡明の元へと取って返した。
息つく暇もなく戻ってきた梟仙に、叡明と高星は驚きの目を向けた。
「梟仙殿、何か分かったことがあるのか?」
「この手紙を見てくれ」
差し出された手紙に目を通した叡明は、驚愕に目を見開いた。
「犯人である白英と桂花は、やはり繋がっていたか……。しかし、そうか。あの事件には、命を懸けたこのような裏があったのだな」
(……凛花は、なぜ私に直接何も言わなかったんだ。水臭いではないか)
叡明が胸の奥で微かな寂しさを噛み締めていると、梟仙がさらに懐から一枚の古びた紙を取り出した。
「お願い事の件も分かったぞ。後で手配しよう。場所も明確だな。……しかし、黒蓮が裏で糸を引いているとなれば、武官数人でどうにかなる相手ではないぞ」
「それについては、これも見てくれ。今回の遠征先で討伐した賊の懐から手にした『密書』だ」
「何……!?」
叡明が密書を受け取り、中身を読み進めるにつれ、その顔色が一気に険しくなった。
そこには、賈鴆が香霞の里で軍事的な準備を整え、やがて『後宮への大規模な襲撃』を行うという恐るべき計画が記されていたのだ。
「つまり、これは……お主の家族を助けに向かうという『個人的な保護』だけの問題ではない。後宮、ひいてはこの国にとって、正式に『討伐すべき国家の敵』ということか」
「そういうことだ。賈鴆という商人は以前から名を聞いたことがあるが、まさかここまでの悪党だとはな」
梟仙は静かに目を閉じ、そして――大柄な体を深く折り曲げ、叡明の前に恭しく跪いた。
「叡明殿。いや……。先の無礼は、平に詫びよう」
「……」
「私の家族のため。命の恩人のため。そして、この後宮と国を守るため。――どうか、討伐命令を出していただきたい。お主には、その『権利』があるはずだ」
静まり返った執務室で、頭を下げる最強の武官。
叡明は自らの身分を隠すのをやめ、王者の風格を纏って不敵に笑った。
「……私が執政官以上の権限を行使することの『意味』が、分かっているのだな」
「無論だ。私の矛を預けるべき真の主君を、この梟仙が見誤るはずがなかろう」
「ふっ……。ならば、命じよう」
叡明は立ち上がり、腰の剣に手を当てて鋭く声を張り上げた。
「これより、香霞の里へ赴き、後宮へ仇なす賊どもを叩き潰す!高星!今すぐに『禁軍』の出陣準備を整えよ!!」
「はっ!!」
高星が弾かれたように部屋を飛び出していく。
慌ただしく動き始めた執務室の中で、叡明は遠く離れた里の空へと思いを馳せ、心の中で強く願った。
(――どうか、無事でいてくれ。凛花……!)




