かすかな匂いと、吹き飛ぶ扉
月光宮へと駆けつけた叡明は、芙蓉妃と明苺から事の次第を聞き、机の上に残されていた手紙を見つめて重々しい息を吐き出した。
「なるほど……。凛花たちが自らの意思で姿を消した手がかりは、この明苺宛ての手紙くらいで、行先を示すものはほぼ何もないということか」
「ひとまず、武官である梟仙殿に伝令を出しましょうか。凛花殿の父親である彼なら、何か心当たりがあるやもしれません」
側近の高星が提案すると、叡明は眉間を揉みながら「ああ、頼んだ」と頷いた。
「それと、桂花の身元に関する情報も洗い直して、後で私の執務室へ持ってきてくれ」
「承知いたしました」
叡明が深いため息をつき、これ以上の捜索は難航を極めると思われたその時だった。
「……叡明様。私、一つだけ気になることがあるんです」
涙で目を赤く腫らした明苺が、意を決したように口を開いた。
「気になること、だと?」
「はい。……あの園遊会で毒の騒ぎがあった日の夜、桂花の様子が少しおかしかったんです。ひどく塞ぎ込んでいて……『死ぬことなんて、ないのに』って、ポツリと呟いていました」
「桂花が……。あの太陽のように明るい侍女が、か」
叡明が目を細めると、明苺はこくりと頷いた。
「侍女全体が狙われたと聞いて、その時は『自分も標的の一人だったから怖かったのかな』って思っていたんです。でも、次の日には不自然なほど元気に振る舞っていて……。ずっと一緒にいたから、私には分かるんです。あれは無理をして笑っていました。……もしかしたら桂花は、あの事件の犯人を『知っていた』のかもしれません」
明苺の鋭い指摘に、叡明の脳内で散らばっていた情報が微かに繋がり始めた。
「……なるほど。明苺よ、よく教えてくれた。ありがとう」
「明苺、助かったわ。あんなに明るい桂花が抱えていた思いに、気づいてあげられなかった……ごめんなさいね」
芙蓉妃がハンカチで目元を押さえると、明苺は力なく首を振った。
「いえ、お気になさらないでください。私も、あの子と一緒にいた時間が少なければ、あの作り笑いには気づけなかったと思いますし……」
明苺はそう言って、二人が消えた抜けるような青空を、窓越しに寂しそうに見つめていた。
叡明は立ち上がり、「私は少し調べ物をするため、失礼する」と告げて、足早に月光宮を後にした。
向かった先は、外廷の医局だった。
医局の役人に「すまないが、安置場所に入ってよいかな?少し調査が必要でな」と声をかけると、役人は「叡明様、はい、どうぞ」と奥へ案内してくれた。
薄暗い安置所で、叡明は白木の棺に眠るあの若い料理人の遺体と再び対面した。
衣服や指先などを改めて念入りに確認するが、やはり目立って変わったところはない。
「……ん?」
叡明は顔を近づけ、微かに眉を動かした。
「……甘い香りが、少しするくらいか」
それは、意識しなければ気づかないほどの、仄かに優しい匂いだった。
叡明は自らの記憶にその匂いを深く刻み込み、「ありがとう、手間をかけたね」と役人に礼を言って執務室へと戻った。
執務室では、先に戻っていた高星が書類をまとめて待っていた。
「叡明様。梟仙殿への伝令はすでに出しました。知らせを聞けばすぐに飛んでくると思いますが、遠征先からですので、到着まで数日はかかると思われます」
「そうか……。実はこちらは先ほどまで医局へ赴き、あの園遊会の犯人の遺体を改めて調べていてな。目立った手がかりはない状態だ」
高星は頷き、手元の書類を差し出した。
「今のところ、芙蓉妃様の女官たちも後宮内を探し回っておりますが、これといった目撃情報はないようです。……桂花殿の身元に関する資料はこちらに持ってきましたが、何か分かるでしょうか」
叡明は書類を受け取り、素早く目を通した。
だが、そこには『没落貴族の出身』という簡素な経歴が書かれているだけで、怪しい背後関係などは一切記されていない。
「あまり情報がないな……。身元を隠しているのか?」
叡明が書類を机に投げ出そうとした時、ふと、ある記憶が鮮やかに蘇った。
「そういえば……『甘い匂い』だ」
「甘い匂い、ですか?」
「ああ。あの犯人の遺体から、微かに甘い匂いがしたのだ。……待て。確か、明苺が持っていた桂花からの手紙……あれからも、仄かに甘い匂いがしていなかったか?」
叡明の言葉に、高星がハッと息を呑む。
「明苺は、桂花殿が犯人を知っているかもしれないと言っていたんだ。同じ特有の匂い……状況からして、これは偶然ではないかもしれない」
「では……あの犯人と桂花殿には、何かしらの繋がりがあるということですね。そして凛花殿は、その事実に気づき、彼女と共に姿を消した……」
確信に近い推論に辿り着いたものの、それ以上の足取りは完全に途絶えてしまった。
そこから何日もの間、叡明たちは手を尽くして調べを進めた。
静や小蘭たちも寝る間を惜しんで探し回ったが、まるで煙のように消えた二人の手がかりは、ただの一つも見つからなかった。
数日後の執務室。
叡明は机に両手をつき、忌々しげに舌打ちをした。
「くそっ……!あの犯人との繋がりがあるという可能性以外、何も手がかりが見つからん!今この瞬間にも、あいつに危険が迫っているかもしれないというのに!」
普段は冷徹なまでに冷静な叡明が、隠しきれない焦りと苛立ちを露わにしている。
その姿を見て、高星は静かに目を伏せた。
「……後宮を無断で抜け出したとなれば、本来であれば罰せねばならない重罪です。ですが、状況から見て、やはり二人は何らかのっぴきならない事件に巻き込まれていると見て間違いないでしょう……」
執務室に、重く息苦しい沈黙が流れた。
打つ手がない。
強大な権力を持つ自分たちが、一人の少女の行方すら掴めないという無力感。
――だが、その沈黙は、最も暴力的な形で打ち破られることとなる。
轟音。
突如として、頑丈なはずの執務室の分厚い扉が、木っ端微塵に吹き飛んだのである。




