規格外の侍女と、扉の向こうの面影
香霞の里を治める一族の長、泰恒の屋敷。
立派な木造りの門をくぐり、広々とした前庭を抜けると、重厚な玄関の扉が静かに私たちを待っていた。
「……ただいま。帰ってきたよ」
桂花が、震える手で重い扉を押し開けながら、誰にともなく小さく呟いた。
私も彼女の後に続いて、恐る恐る屋敷の中へと足を踏み入れる。
「お邪魔します……」
暗殺一族である黒蓮の屋敷を抜け出して以来、長年離れ離れになっていたお母様が、今まさにこの建物の中にいる。
そう思うと、どんな修羅場でも冷静さを保ってきた私の心臓が、早鐘のようにうるさく鳴り始めていた。
少しだけ、手足の先が冷たく感じるほど緊張している。
しんと静まり返った屋敷の奥から、ふいにパタパタという少し小走りの足音が近づいてきた。
「桂花様ーっ!!」
現れたのは、ひどく派手な身振り手振りをした若い女性だった。
一応は屋敷の奉公人の衣服を身につけているようだが、襟元は少し緩み、帯の結び方もどこかルーズに『着崩した』格好をしている。
その独特の緩い雰囲気を見て、私は(屋敷の下働きをしている女中さんかな?)と推測した。
「マジでお戻りになったんすね!あーし、めっちゃ心配してたんすよ!」
「うん……。ただいま。白英からの知らせを受けて、急いで戻ってきたの。玄じいにも会って少し話は聞いたよ、後でここに来るって。……お父様とお母様は、元気にしてる?」
桂花が微笑みかけると、その女性はパッと顔を輝かせた。
「マジすか!白英様が無事に知らせてくれたんすね……よかったっす!」
無邪気に喜ぶ彼女の言葉に、桂花はほんの一瞬だけ、泣き出しそうな寂しい顔をした。
白英がすでにこの世にいないことを、彼女はまだ知らないのだ。
桂花はぐっと悲しみを飲み込み、両親の安否の返答を待った。
「泰恒様と菊花様っすね!お二人とも、お変わりない感じっす。菊花様は相変わらず奥のお部屋で眠り続けてますけど……明霞様の作ってくれたお薬のおかげで、顔色とか調子は少しずつよくなってるかなーって感じっすね」
彼女は指折り数えながら明るく答えた。
「泰恒様は、相変わらずあの賈鴆ってやつの命令で、別の場所で幻夢香を作り続けてるんすよ……。でも、夜にはこのお屋敷にご帰宅されるんで、その時に直接お話ししてもらえれば!桂花様を外に送り出してからも、毎日ずーっと心配なさってたんでね」
「そっか……。教えてくれてありがとう」
桂花がほっと安堵の息を吐いてお礼を言うと、彼女はようやく私の存在に気づいたのか、目を丸くして首を傾げた。
「あれ?そちらの方は、もしかして……?」
「あ、そうだよ。明霞さんの娘さん」
桂花の紹介を受け、私は緊張を隠して一歩前に出た。
そして、後宮で身につけた完璧な作法で、深く丁寧にお辞儀をした。
「初めまして、凛花と申します。桂花から話を聞いて、一緒に参りました。母が大変お世話になっています」
「ちょっ、待っ……! そんなガチな挨拶とかマジ勘弁っす!」
私がかしこまって挨拶をすると、彼女は激しく両手をぶんぶんと振り回して慌てふためいた。
「お世話になったのは、むしろあーしの方っすから!……そうだ、ちゃんと挨拶してない!改めて、あーしはこの屋敷で侍女をしてる華っす!敬語とかそういうお堅いのはナシの方向でよろしくっす、凛花様!」
その言葉に、私は完璧な愛想笑いの下で盛大にずっこけそうになった。
(ええっ、女中だと思ったのに……上流階級の身の回りの世話をする『侍女』だったの!?)
あまりにも底抜けに明るい、独特な勢い(後宮のきっちりとした侍女たちとはあまりにも対極にある人種だ)に、私は完全に圧されてしまった。
張り詰めていた緊張が、いい意味で一気に崩れていく。
「おぉ……よ、よろしくね、華」
「よろしく〜っ!」
華は元気よく親指をぐっと立てるようなノリで返事をした。
「それじゃ早速、明霞様のところに案内しますねー!ついてきてくださーい!」
華は鼻歌でも歌い出しそうな軽い足取りで、長い廊下をスタスタと歩き出した。
私と桂花は顔を見合わせ、思わずふふっと笑い合ってから彼女の後を追った。
廊下を進むにつれ、私の心臓の鼓動は再び激しさを増していく。
数年ぶりの再会。どんな顔をして会えばいいのか、何を最初に言えばいいのか、頭の中で言葉がぐるぐると渦を巻く。
「この部屋っす!」
華がピタリと足を止めたのは、日当たりの良さそうな、奥まった一室の前だった。
彼女はためらうことなく、こんこんっ!と軽快に扉を叩いた。
「明霞様ー、あーしっす!桂花様と、あとマジでヤバい人を連れてきましたー!開けますよー!」
華が勢いよく木扉を横に滑らせる。
開け放たれた扉の向こう、午後の柔らかな日差しが差し込む部屋の中に。
記憶の中と全く変わらない、凛とした静かな佇まいの女性が、手仕事の手を止めてこちらを振り返っていた。
視線が、空中でぶつかり合う。
時が止まったような静寂の中、私たちは、まるで糸で引かれたように同時にその名前を口にした。
「凛花……」
「お母様……」
待ち焦がれた再会の瞬間、私の視界はあっという間に温かい涙で滲んでいった。




