星霞祭(せいかさい)と、帰還の門
翌朝。
小鳥のさえずりと、どこかから漂ってくる出汁の優しい香りで、私と桂花は目を覚ました。
昨晩は長旅の疲労と緊迫した話し合いの反動で、泥のように眠ってしまったらしい。
着替えて居間に出ると、玄庵さんがすでに温かい朝食を机に並べて待ってくれていた。
「二人とも、よく眠れましたかな?さあ、冷めないうちに朝ご飯にしましょう」
「玄じい、ありがとう……!すごく美味しそう!」
質素だが心のこもった温かい粥と汁物を口にすると、冷え切っていた胃の腑にじんわりと熱が広がり、張り詰めていた心が少しだけ安らいだ。
食事を進めながら、私は昨晩からずっと頭の片隅で考えていたことを桂花に切り出した。
「ねえ、桂花。昨日、この里に入ってきた時に少し気になったんだけど……里の人たち、何か大きな行事の準備をしていない?」
「あ、気づいた?うん、もうすぐ豊穣のお祭り『星霞祭』がある時期なんだ。今は秋でしょ?空が澄んでいて星空が良く見えるから星霞祭っていうの。それで今はちょうど、その飾り付けや準備をしているところだよ」
「そっか、星霞祭ね……。うん、使えるかもしれないわ」
私が箸を置いてふと口角を上げると、桂花は「え?」と目を丸くした。
「その星霞祭で、時間稼ぎができるかもしれない」
「時間稼ぎ……?」
玄庵さんもお茶をすする手を止め、興味深そうに目を細めた。
「星霞祭で時間稼ぎとは……凛花殿、また何か妙案が浮かびましたかな?」
「はい、まだ大まかな思いつきですが……」
私は二人の顔を見回して頷いた。
「星霞祭という名目があれば、里の人たちが大勢集まって騒いでいても不自然じゃありません。それに、物資や人の移動も普段よりずっと活発になる」
「監視の目を誤魔化すには、これ以上ない絶好の隠れ蓑になります。……賈鴆が軍を本格的に動かす前に、私たちが先手を打つための『時間』を作り出せるかもしれない」
「なるほど……!」
桂花はパッと顔を輝かせた。
「凛花が言うなら絶対上手くいくよ!凛花がやってきたことで、今まで失敗したことなんて一度もないもん!それで、具体的にはどうするの?」
「そこから先は、あなたの家にいるお父様やお母様……それに、私の母も交えて、現状を正確に把握してから話し合った方がよさそうだわ」
「確かに!じゃあ、急いで支度を済ませてお屋敷に行こっか。玄じいも、一緒に来てもらえないかな?」
桂花が誘うと、玄庵さんはゆっくりと首を振った。
「私は少し、この周辺で探りを入れておきたいことがありますゆえ、後程お屋敷の方へ参りますな」
「わかった。気を付けてね、玄じい」
支度を終え、玄庵さんの家を出た私たちは、朝の冷たい空気を吸い込みながら里の小道を歩き始めた。
広場に出ると、そこには星霞祭のために木組みの櫓を組んだり、飾りを作ったりしている村人たちの姿があった。
一見すると活気があるように見えるが、その動きはどこか重く、時折、怯えたように周囲を窺っているのがわかる。
ふと、飾り紐を編んでいた一人の初老の女性が顔を上げ、桂花の姿に気づいてハッと息を呑んだ。
「……桂花、様……?」
彼女が震える声で呟くと、周囲にいた数人の里人たちも次々とこちらを振り返った。
「桂花様!おお、お懐かしい……よくぞご無事で……!」
「ずっと心配しておりましたぞ……っ」
彼らは涙ぐみながら桂花の元へ駆け寄ってきた。
だが、その視線は常にせわしなく泳ぎ、見えない賈鴆の手下たちの影に怯えきっている。
その疲弊しきった顔に、支配の過酷さが痛いほど滲み出ていた。
桂花は胸を痛めたような表情を一瞬だけ浮かべたが、すぐにそれを隠し、太陽のように優しく明るい笑顔を作った。
「みんな、心配かけてごめんね!私はこの通り、すっごく元気だよ!」
彼女は一人一人の手を握り、短くも温かい言葉を交わしていく。
怯えながらも自分を慕ってくれる里人たちの温かさと、彼らの抱える深い恐怖に触れ、桂花の瞳の奥に「絶対にこの里を取り戻す」という強烈な決意の炎が再び燃え上がるのを、私は隣で確かに感じ取っていた。
里人たちに見送られ、私たちはさらに奥へと続く道を歩き始めた。
徐々に星霞祭の準備をする生活音が遠ざかり、周囲の空気が重く、張り詰めたものに変わっていく。
やがて、木立の向こうに、ひときわ立派な門構えの大きな屋敷が見えてきた。
「……着いた。ここが、私の家」
桂花が門の前でピタリと足を止める。
狂気の毒の基を作り続けさせられている父親と、深い幻覚の中で眠り続ける母親がいる場所。
屋敷の周囲からは、あの『甘い匂い』――蜜霞草の香りが漂ってきていた。
桂花の優しさそのもののような温かい香りのはずなのに。
それをあんな恐ろしい毒に変え、彼女の家族を苦しめている者たちへの強い怒りが、私の胸の奥で静かに、けれど激しく燃え上がった。
桂花は自身の過去と過酷な現実に直面し、その顔を強張らせて、ぎゅっと拳を握り締めた。
私は彼女の隣に並び立ち、その震える小さな背中を押すように、力強く前を見据えた。
「……行きましょう」
私の静かな声に、桂花は大きく深呼吸をして、「うん」と頷く。
私たちは、香霞の里を治める一族の屋敷へと、足を踏み入れた。




