仮初めの平和と、静かに迫る軍靴の音
夜の香霞の里は、薄気味悪いほどに静かだった。
道すがら、家々の窓から微かに漏れる灯りや、夕餉の匂い、そして遠くで犬が吠える声すら聞こえる。本当に、どこにでもある普通の村の夜だ。
だが、私と桂花が息を潜めて路地裏を進んでいると、不意に暗がりから一つの影が動いた。
「――誰だ。こんな夜更けにうろついているのは」
低く、だが鋭い声。私がとっさに身構えた瞬間、隣にいた桂花がハッとして声を上げた。
「……玄じい!?」
「その声……まさか、桂花様ですか」
暗がりから顔を出したのは、深く刻まれた皺と、知性を感じさせる鋭い眼光を持った初老の男性だった。
彼は桂花の顔を見るなり驚きに目を見張り、すぐさま周囲を警戒して私たちを自分の家の中へと招き入れた。
「お久しぶりですな、桂花様。あれからお変わりないようで、本当に良かった」
「玄じいも無事でよかった!あ、紹介するね。この子は凛花だよ」
桂花に促され、私は頭を下げた。
「挨拶が遅れましたな。私は玄庵と申します、以後お見知りおきを」
玄庵さんが挨拶を済ませると、私の顔をまじまじと見つめて息を呑んだ。
「おお……。もしや、あの明霞殿の娘さんでしたか」
「はい。初めまして、玄庵さん。私はお母様がこの里にいらっしゃることを桂花から聞いて、共に参りました」
「なるほど……。明霞殿に生き写しのようにお美しい。そして何より、実に『強い目』をしておられる」
玄庵さんはどこか懐かしむように目を細め、静かに頷いた。
「お二人がここに来られたということは……やはり、白英から無事に知らせが行きましたかな?」
「うん。白英が、命懸けで教えてくれたの……。ねえ玄じい、お父様はどうしているかしら?無事なの?」
桂花が身を乗り出して尋ねると、玄庵さんは重々しく首を振った。
「白英は亡くなられたのですね……泰恒様は、桂花様が里を出られる前と変わらず、屋敷で幻夢香を作らされ続けておりますな。……あの方の状況は、あまり変わっておりませぬ」
お父様が生きていることに桂花が安堵の息を吐くのを見て、私はさらに踏み込んだ質問を投げかけた。
「玄庵さん。今のこの里で、安全な場所はどのあたりまでなのでしょうか?それと、実権を握ったという賈鴆の手下たちが、どこまで監視の目を光らせているのか分かりますか?」
私の問いに、玄庵さんは顎髭を撫でながら答えた。
「里の入り口やこの辺りの道中、そして泰恒様がいらっしゃる桂花様の屋敷付近ですら、実は手下どもの姿はほとんどありません。一番監視が厳しいのは、『蜜霞草』が群生している栽培地です」
「あそこには昼夜問わず見張りが立ち、決して近づいてはなりませぬ。ですが、それ以外の場所であれば、比較的自由に動くことができる状態ですな」
「なるほど。……思っていたよりも、動きやすい状況ではあるわね」
私が呟いて頭を下げる一方で、桂花は少しほっとしたような顔をした。
「じゃあ、みんなの普段の生活には、そこまで大きな影響は出てないんだね?」
「……いえ、桂花様。残念ながら、状況が大きく変わりそうなのです。白英が自らの命を散らしてまで知らせに走ったのも、そのためです」
玄庵さんの声が一段と低くなり、部屋の空気が張り詰めた。
「どうやら、賈鴆が本格的に動き出しそうな雰囲気がありましてな。少し離れた場所に、賈鴆が住んでいる大きな屋敷があるのは、桂花様も覚えておいでですな?」
「うん、覚えてる。里の実権を握ってから、すぐに建ててたもんね。それで、それがどうしたの?」
「最近、あの屋敷の後ろに小さな村のようなものが出来上がりましてな。そこに手下どもが寝泊まりしているのですが……近頃、日に日にその『人の数』が増えてきているのです」
「え……。私が危険になるからって逃げるように言われた頃よりも、増えてるってこと……?」
「左様です。……この里は今、かつてないほど危険な状態にありましょう」
玄庵さんの報告を聞き、私の頭の中で、これまで集めたすべての断片が手繰り寄せられるように繋がった。
不自然なほどに手薄な里の警備。莫大な利益を生む幻夢香と黒蓮の繋がり。
そして、一箇所に集められ、増え続ける正体不明の男たち。
「……桂花。玄庵さん。私の考えを、言ってもいいですか?」
「凛花、何か分かったのね?」
私は静かに頷き、導き出した最悪の推論を口にした。
かつて「黒蓮」の屋敷で耳にした、不自然な武器の買い占めや、密偵たちの奇妙な動き――その記憶が、今の里の歪な光景と完全に重なったのだ。
「まだ確定ではありませんが……恐らく、賈鴆は『軍』を作っているんだと思います。それも、黒蓮という後ろ盾と、蜜霞草から生み出される莫大な軍資金を使って」
その言葉に、桂花が息を呑んだ。
「彼らにとって、軍資金の源である蜜霞草の栽培地さえ死守できれば、他の場所はどうでもいいんです。だから監視の手を緩めている。……すべては、軍が完成した後に、圧倒的な暴力で里全体を完全に『掌握』するため」
私が言い切ると、玄庵さんは深く嘆息し、静かに頷いた。
「なるほど……。恐ろしいほどの洞察力。まるで明霞殿のようですな。……賈鴆の狙いは、香霞の里全体の完全な掌握、ということですかな」
「はい。だからこそ、今は不要な監視を解き、里人たちに仮初めの平和を与えているのでしょう。……力を蓄えるまでの間、大人しくさせておくために」
「そんな……。じゃあ、里のみんなが危ないの!?」
桂花が青ざめた顔で立ち上がろうとするのを、私はそっと手で制した。
「今すぐではないと思う。軍を組織し、武装させるにはまだ時間がかかるはずよ。でも……私たちに残された『時間がない』のは確かだわ」
重苦しい沈黙が下りた部屋の中で、玄庵さんがふう、と息を吐き出した。
「ひとまず、お二人とも長旅で随分と疲労が溜まっておられるでしょう。これからの戦いに備えるためにも、今日はこちらで休まれるのがよろしい」
「……そうだね。なんだか、急に疲れちゃった」
張り詰めていた糸が少しだけ緩み、桂花が力なく笑った。
私たちは玄庵さんが用意してくれた温かい食事を静かに口にし、迫り来る軍靴の音の気配を感じながら、深い眠りへと落ちていった。




