二つの名を持つ毒と、静かなる狂気の里
「まだ夜も明けてないし、馬車が通る街道までは、しばらく歩きで行くしかないねー」
「そうだね。まずは人が集まる街の入り口まで行っちゃおう」
後宮の暗い抜け穴を通り抜け、外の世界へと足を踏み出した私と桂花は、ひっそりと静まり返った夜の道を並んで歩いていた。
夜明け前。
街の入り口付近で、ちょうど荷物を積む準備をしていた商人の馬車を見つけた私は、手早く交渉を持ちかけた。
「すみません。港町まで、少しばかり便乗させてもらえませんか? もちろん、路銀はお支払いしますから」
「おっ、いいぜ。荷台の隙間でよけりゃ乗っていきな」
私が迷いのない手際で商人と話をつけて馬車に乗り込むと、桂花が目を丸くして感心したような声を上げた。
「凛花って、後宮の外の世界でもすごく堂々としてるし、慣れてるんだね。なんだか頼もしいよ」
「ふふっ、これでも後宮に入る前は、色々と親友と旅をしてきたからね」
そう笑って見せると、桂花は少し誇らしげだった。
私たちは揺れる荷台の隅で身を寄せ合いながら、夜明けの景色がどんどん変わっていくのを見つめていた。
昼頃に港町で馬車を降り、今度は海を渡るために小さな船に乗り換えた。
船の上は、波の音だけが響く少し落ち着ける空間だった。
水面をじっと見つめていた桂花が、ふと寂しそうな声でぽつりとこぼした。
「……本当はね、香霞の里って、すごく綺麗な場所なんだよ。甘い香りの花があちこちに咲いていて、みんな笑顔で暮らしてて……」
外から来た何者かに支配される前の、平和で美しかった故郷の思い出。
その横顔を見て、私は「絶対に取り戻そう」と改めて心の中で強く誓った。
そして、ずっと気になっていたことを切り出した。
「ねえ、桂花。里で作っているあの甘い香りの香辛料だけど、本来の名前って何て言うの?」
「普段、普通に料理や香り付けに使う香辛料の状態なら『蜜霞草』って呼ぶの。でも、私の一族だけが知っている特殊な製法で作ったものは……『幻夢香』っていうんだ」
「二つの名があるのね……」
私が呟くと、桂花は静かに頷いた。
「うん。まだ到着までしばらく時間があるし、他にも話しておくね。……里の実権を嘘の権利書で奪ったのは、賈鴆っていう男だよ。数年前に急に現れて、私たちを騙したの。なんで里の権利の内容や、幻夢香の秘密まで知っていたのかは、今でも分からないんだけど……」
「そうだったんだね。……桂花のご両親は、無事なの?」
私がさらに問いかけると、桂花は少しだけ顔を伏せた。
「うん、お父様は泰恒、お母様は菊花っていうんだけどね。お父様は無事だよ。でも……お母様は、変わっちゃって」
「……変わった?」
「うん、お父様からそう聞いてる。……一応、私も幻夢香の製法や、それ自体の本当の効果は知ってるの。幻夢香はね、お香として使うことができるんだけど、少量ならぐっすり眠れる安眠薬になる。本来の香辛料としての使い方とは違うけどね」
「……でも、量が多いと、恐ろしい幻覚を起こす毒になるの」
「毒……」
黒蓮の屋敷で取り扱われていた数々の猛毒を思い出し、私は息を呑んだ。
「もともと幻夢香は、里を守るために、攻めてきた外の敵に対して幻覚を見せるための防衛用の毒だったんだ。だから、里を治めていた私たち一族だけが作り方を知っているの」
「……お母様は昔、大規模な盗賊から里を守るために、その幻夢香を大量に使ったんだ。その時の影響で、もう正気には戻れないほどの深い幻覚状態に陥ってしまったの……」
「……」
私はただ黙って彼女の悲痛な告白を聞いていた。
「……それで、『変わった』って言ってたのね」
「そうなんだ。でもね、明霞さんが、お母様の症状を和らげる特別なお薬を作ってくれたの。完全に幻覚症状を治すことはできないけど、それ以上ひどくならないようにはなったんだよ。私が後宮に行く前には、お薬のおかげでずっと穏やかに眠っている状態だったんだけど……」
そこまで話した桂花の声が、微かに震えていた。
私はたまらず手を伸ばし、桂花の細い肩を無言でぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫。きっと何とかする方法はあるよ。私が、絶対に見つけるから」
「……うん。ありがとう、凛花……」
夕暮れ時。
船を降りた私たちは、いよいよ山奥へと続く険しい小道――獣道へと足を踏み入れた。
ここからは人が容易には入らない危険な領域だ。
自生する有毒な薬草や毒草を的確に避けながら進むため、桂花の豊富な知識と案内だけが頼りだった。
私たちは警戒を怠らず、互いに協力しながら険しい山道を無言で進んでいった。
そして、すっかり日が落ちて夜の闇に包まれた頃。
鬱蒼とした木々の視界が急に開け、私たちはついに香霞の里を一望できる入り口の茂みへと到着した。
「……着いた」
桂花が小さく息を呑む。
そこは、里の入り口を見下ろすことができる高台だった。
私は、桂花が昼間に語っていた「悲惨に支配された里」の光景を覚悟して、茂みの隙間からそっと下を覗き込んだ。
「んー……? ここ、私が出ていく前とあんまり変わってないかも?」
桂花が拍子抜けしたような声を出した。
私も「え?」と声を漏らし、じっと目を凝らす。
確かに、そこにはあからさまに荒廃した景色や、見張りがひしめき合っているような緊迫した光景はなかった。
静かな夜の空気が漂い、遠くからは子どもたちの楽しそうな声すら微かに聞こえてくる。
まるで、外の争いなど無縁の、平和で穏やかな普通の里にしか見えない。
だが、私の本能は、この静けさの裏に隠された『得体の知れない不気味さ』を強烈に感じ取っていた。
風に乗って微かに漂ってくるあの甘い匂いが、ひどくねっとりと肌にまとわりついてくるような、嫌な感覚があったのだ。
「幻夢香、ね。……行くわよ」
私は静かに、だが決意を込めた声で告げ、幻影のように静かな里へと足を踏み入れた。




