賢い案内役と、甘い香りの抜け道
後宮の闇に紛れ、気配を殺して外廷の医局へとたどり着いた私たち。
そこで待っていたのは、頼もしい協力者……ではなく、足元で「にゃーん」と小さく鳴く、茶色と黒の丸い毛玉だった。
「……おこげ?」
「そうだよ。ここから外へ出るための案内は、この子にお任せするの」
桂花がしゃがみ込み、医務室の主のように居座っていたはずの猫の頭を撫でる。
てっきり、医局の人間か外の協力者が待っているのだとばかり思っていた私は、完全に不意を突かれて目を丸くした。
「今日、仕事の途中で医務室に寄って、瑞祥さんの目を盗んでこっそりこの場所まで連れてきておいたんだ」
「おこげが、ここから外に出るための『道』を知ってるってこと?」
「うん。おこげはね、私がこの後宮に来る前に、外の街で拾った猫なの。後宮に入る前にお別れしたはずだったんだけど……どういうわけか、後宮の中まで入ってきちゃって」
私は、はるか頭上にそびえ立つ後宮の分厚く高い塀を見上げた。
「うーん……。いくら猫で身軽だとはいえ、この高い塀をよじ登ってきたわけじゃないわよね?」
「違うよ。実はね、通り抜けられる場所があるの。ついてきて」
おこげを抱き上げた桂花が、先導して歩き出す。
暗がりの中をついていくと、たどり着いたのは、私にとっても最近ひどく見覚えのある場所だった。
「ここは……」
「そう、凛花のお父様が滞在していた宮の裏手。ふふっ、あの時は大騒ぎで大変だったね」
桂花が声を潜めて笑う。
お父様である梟仙と衝撃の再会を果たし、私が思わず足蹴にしてしまった、あの場所だ。
「衝撃の再会だったからね……。それで、ここに抜け道があるってこと?」
「そうだよ。なんでおこげが、あの日この宮にいたか分かる?」
「あ……」
私は思い出した。
あの日、おこげが迷い込んでいたのは、まさにこの宮の敷地内だったのだ。
「実はね。この宮の裏の、建物の隙間に入って……よいっしょ、っと」
桂花が、壁際に立てかけられていた古い木板をどかす。
するとそこには、人が四つん這いになればギリギリくぐり抜けられそうな大きさの『穴』が、頑丈な塀の根元にぽっかりと開いていた。
「こんなところに……」
「そう。おこげはここから、後宮の中に入ってきたみたいなの。私も、穴の先がどうなっているのかは見たことがないんだけど」
私が驚いていると、桂花は「あとね。おこげがどうしてここまで私を追ってきたのか……ちょっと、その穴の匂いを嗅いでみて」と促した。
言われるがままに穴へ顔を近づけ、鼻を動かす。
「……微かに、甘い匂いがする。これって……あの香辛料と同じ匂い?」
「そう。この塀の外の壁際にね、私たちの里に生えているのと同じ種類の植物が、なぜか自生してるみたいなの。……おこげは、私と別れた後、私の服に染み付いていた『この甘い匂い』をずっと探して、外の世界からここまで私を迎えに来てくれたんだよ」
「……おこげ……」
私は、桂花の足元で尻尾を揺らす小さな案内役を見つめ、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「お願いね、おこげ」
桂花が声をかけると、おこげはスタスタと迷いなく暗い穴の中へと入っていった。
「待って、おこげ」と桂花が後に続き、私も最後尾から穴の中へと這って進む。
「……意外と、中は大人が通れるくらいの広さがあるんだね」
「そうだね。でも、ここまで人が通れるように綺麗にくり抜かれているのは、ちょっと違和感があるね」
桂花の言う通りだ。ただの獣道や、風化して崩れた穴ではない。
これは明らかに『何者か』が、意図的に外と中を繋ぐために掘った道だ。
密偵か、それとも後宮の宝を狙う盗賊か。
「うん、人が作ったようにしか思えないわね。でも……今は考えないでおきましょう」
私は湧き上がる疑問を一旦頭の隅へと追いやり、前を進む桂花の足元だけを見つめた。
穴は途中から斜面になり、私たちは土を掴みながら這い上がった。
「思ったより大変ね」
「そうだね。この塀の外って、深い堀になっているはずだから……おそらく、その堀の下を通って、向こう側へ上がっているところなんじゃないかな?」
「そうだと思う。……甘い匂いも、どんどん強くなってきているわ」
息を切らしながら登り切ったところで、前を歩いていたおこげが「にゃーん」と短く鳴いた。
どうやら、無事に塀の外へと出たようだ。
這い出した先は、背の高い草木に覆われた目立たない場所だった。
周囲には、あの甘い匂いを放つ見慣れない花が、月明かりの下でひっそりと群生している。
「綺麗だね……」
「こんなところに咲いているなんてね」
私たちは服についた土を払いながら、周囲を見渡した。
しかし、まだ完全に外へ出られたわけではない。
目の前には、外の街との境界を隔てるもう一枚の古い壁がそびえている。
だが、おこげは立ち止まることなく歩みを進める。
ついていくと、壁と建物の隙間に、わずかに開いた古い鉄扉があった。
隙間から中へ入ると、そこは今はもう使われていないであろう、埃っぽい古い倉庫だった。
「かなり古い倉庫ね」
私が周囲を警戒しながら見回している時。ふと、自分たちが入ってきた鉄扉の周辺に違和感を覚えた。
「……ん?」
「どうしたの、凛花」
「私たちが入ってきたあの扉……外から見えないように、巧妙に木箱や草で『隠されてた』みたいね」
私の言葉に桂花が駆け寄り、扉の蝶番の辺りを調べる。
「本当だ、新しく物を動かした跡がついてるね。これって……」
「気になるけど……今は時間がないわ。誰かが来る前に、先に進もう」
「怪しいけどそうだね、早く行こう」
私たちは倉庫を足早に抜け、反対側にある扉の閂を外して外へと出た。
夜の冷たい空気が頬を撫でる。
目の前に広がっていたのは、私がかつて後宮へ売られる道中に歩いた、あの見覚えのある帝都の街の通りだった。
「……出られたわ」
「一歩、進んだね!」
桂花がパッと顔を輝かせて喜ぶ。
そして彼女は、足元でお座りをしているおこげに向かってしゃがみ込んだ。
「おこげ、ここまで案内してくれて本当にありがとう!」
すると、おこげは「にゃーん!」と大きな声で鳴き、桂花の胸元へ勢いよく飛びついた。
普段は気まぐれな猫が、ゴロゴロと喉を鳴らし、桂花の頬に自分の顔をすりすりと何度も擦り付けて、ひどく甘えている。
桂花は少しの間、その温もりを抱きしめ、おこげとの最後の別れの時間を噛み締めた。
やがて満足したのか、おこげは桂花の腕からふわりと飛び降りた。
そして、開いたままの倉庫の扉へと歩み寄り、最後にもう一度だけこちらを振り返ってしばらく見つめ「にゃーん」と鳴くと、帰っていった。
「おこげのあんな甘え方、珍しいね」
「ふふっ。さっきの花の場所も通ったから、私の服の匂いが強くなったのかな?あの甘い匂いをすごく好きになってくれたみたいで嬉しいな。でも、ちょっとびっくりしたよ」
桂花が少しだけ寂しそうに、でも嬉しそうに笑う。
そして彼女は、街の暗がりへと続く道を真っ直ぐに見据え、力強く頷いた。
「さて、行きますか」
「ええ」
私は短く答え、並んで歩み始める。
温かい鳥籠を抜け出した私たちの、本当の戦いの旅が、ここから始まった。




