温かい鳥籠との別れ、そして夜明け前の旅立ち
自室に戻り、寝台に横たわった私の胸中は、激しく波打っていた。
お母様が生きている。
その事実がもたらした圧倒的な安心感と喜び。
しかしそれと同時に、お母様と桂花の父に致命的な危機が迫っているという事実に、どうしようもない焦燥感が込み上げてくる。
本当なら、今すぐにでもお父様――梟仙にすべてを打ち明け、助けを求めたい。
だが、お父様は今、地方の反乱分子を鎮圧するための遠征に出てしまっている。
(いつ遠征から戻ってくるか分からない。……そんなに、待っていられないわ)
天井を見つめながら、私は小さく呟く。
「今すぐにでも行きたいもの。……手紙を書いて、置いてくるしかないわね」
一日中、極限の緊張状態の中で思考を巡らせていた反動だろう。
限界を迎えていた私の意識は、そこでプツリと糸が切れるように、深い眠りへと落ちていった。
翌朝。
コンコン、と控えめに扉を叩く音で、私は目を覚ました。
「おはよう、凛花!」
目を擦りながら扉を開けると、そこには昨夜の涙が嘘のように元気よく挨拶をする桂花の姿があった。
「早いわね、桂花。おはよう」
「ふふっ、今日はやることがいっぱいあるからね!」
少し眠そうに返事をした私を押し除け、桂花は足早に部屋へ入ってくる。
扉を閉めると、彼女はすぐに声を潜めて本題に入った。
「まずは荷造りだね」
「そうだね。そういえば、香霞の里まではどれくらいで着くの?」
「うーん……。馬車と船を乗り継ぐ必要があるし、最後は険しい山道を歩くことになると思うから、順調に行っても丸一日はかかるかな」
「丸一日か。それなら、動きやすいようにあまり荷物は持たず、軽装の方がいいかもしれないね」
「うん!だから、必要最低限のものだけあれば大丈夫だよ。……そういえば、凛花のお父様はどうするの?」
「実は、遠征に行っていていつ戻るか分からないの。だから、手紙を残して行こうと思って」
私がそう言うと、桂花は「確かに、直接伝言を頼むわけにもいかないしね」と腕を組んで唸った。
そして、ポンと手を叩く。
「私も、手紙を書こうかな!」
「誰に書くの?」
「明苺に!後宮でできた、一番大事なお友達だからね」
満面の笑みで答える桂花を見て、私は「そっか」と優しく微笑み返した。
二人の準備を大まかに終えた頃、月光宮の他の女官たちも動き始めた。
私たちも普段通りに合流し、日常の業務を始める。
桂花がすっかり元の明るさを取り戻しているのを見て、心配していた芙蓉様や静たちも、ほっと胸を撫で下ろしていた。
仕事は何事もなく順調に進み、昼過ぎには芙蓉様と私たち侍女だけで、中庭で楽しいお茶会が開かれた。
「あーっ!その桃の砂糖菓子、私が先に狙ってたのに!」
「早い者勝ちだよーだ!」
少し離れた場所で、明苺と小蘭が賑やかにお菓子を取り合って騒いでいる。
その光景を眺めながら、隣に座っていた桂花が、くすくすと笑いながらぽつりと呟いた。
「……こんな日が、いつまでも続けばいいのにね」
「……しばらくは、お預けだね」
私が小声で返すと、私たちは顔を見合わせ、二人きりで静かに笑い合った。
すると、こちらを見つけた明苺が「ちょっと!そこで笑ってないで、凛花も桂花もお菓子の確保を手伝ってよ!」と駆け寄り、私たちの手を強引に引いて騒ぎの輪の中へと引き込んだ。
楽しい時間は、残酷なほどにあっという間に過ぎ去っていく。
気づけば、空は燃えるような茜色に染まっていた。
夕暮れ時の回廊を歩きながら、私と桂花は、黄金色に照らされた後宮の美しい景色を静かに見つめた。
「綺麗だね……」
「……ええ」
桂花の呟きに静かに頷きながら、私は心の中で、この温かくて優しい『鳥籠』での日々に別れを告げた。
そして、夜。
各々が自室へ戻る時間となり、私と桂花は私の部屋で落ち合い、最終準備と手紙の執筆に取り掛かった。
私は机に向かい、お父様――梟仙へ宛てた手紙をしたためる。
お母様が生きていること。今回の毒物騒動の犯人と、その真の目的。
そして、強大な敵である『黒蓮』が裏で関わっているため、叡明様にも相談して協力してほしいこと。
あと一つ、叡明様へのお願いごとも書いた。
最後に、「私たちは一足先に、香霞の里へ向かいます」と書き記し、手紙を大切に懐へしまった。
私が手紙を書き終えて振り返ると、隣の机で桂花も何枚かの紙を丁寧に折りたたみ、封を閉じているところだった。
「明苺に、書けた?」
「うん!思いの丈を書いたら、ちょっと分厚くなっちゃった。……あの子、私たちがいなくなったら、絶対に泣いて怒るだろうなぁ」
桂花は分厚い手紙を見つめ、少し寂しそうに笑った。
だが、すぐにいつものおどけた調子で続ける。
「でもね、この手紙の最後に、ちゃんと『私たちが帰ってきたら、この手紙は返すこと!』って書いておくんだ。そうしたら、明苺も私たちが絶対に帰ってくるって信じて、待っててくれるでしょ?」
「……桂花らしいわね」
笑いながら手紙を机の上に置く桂花を見て、私は思わず頬を緩ませた。
すべての準備を終えた私たちは、普段の華やかな侍女服を脱ぎ捨て、目立たない暗い色の衣に着替えた。
あとは、後宮が完全に寝静まるのを待つだけだ。
部屋の灯りを消し、窓から差し込む青白い月明かりだけが、二人の姿を照らしている。
外からは、夜回りをする武官の規則正しい足音や、時間を知らせる拍子木の音が遠くで響いていた。
やがて、その音が完全に遠ざかり、後宮が深い、深い静寂に包まれた時。
「……そろそろね」
「うん」
私はゆっくりと立ち上がり、桂花と力強く頷き合った。
私たちは、数え切れないほどの思い出が詰まった住み慣れた部屋を一度も振り返ることなく、音もなく扉を開け、夜の闇へと溶け込んでいった。
後宮を抜け出す道中。
私は桂花に少し待ってもらい、極限まで気配を消して、外廷にあるお父様の自室へと忍び込んだ。
誰もいない殺風景な部屋。
私は、お父様が遠征から戻った時にすぐに気づくよう、先ほど書いた手紙を机の中央にそっと置いた。
(お父様、ごめんなさい。……行ってきます)
心の中で静かに別れを告げ、私は踵を返した。
外の木陰で待っていた桂花と合流する。
彼女が小さく頷き、先陣を切って走り出した。
私も後を追いかける。
「桂花。ここからどうやって抜け出すの?何か策があるとは聞いていたけれど」
「実はね、医局に味方がいるんだよ」
「え?味方?誰か手引きしてるの?」
「ふふ、それは着いてからのお楽しみかな」
そんなことを話しながら医局へ向かうのだった。




