第9話:大商人の取引は「フリーマーケット」ではありません
第9話:大商人の取引は「フリーマーケット」ではありません
王都の広場に満ちていた、肌を刺すような緊張感。
聖教国の審問官、帝国の皇女、そして超エリート騎士の視線が交錯する中心で、アルウェンは閃の腕をへし折らんばかりの勢いで掴んだ。
「おい、閃。……逃げるわよ」
「え? でも、この串焼きの代金はイザベラさんが――」
「いいから来いっ!」
アルウェンが閃を引っ張った瞬間、閃の胸裏に「実家での未払い(※母に買い出しを頼まれて一円でも足りないと、翌朝の朝食がプロテインのみになる)」の恐怖がよぎった。
焦りと、混乱。
二つの感情が閃の中で臨界点を迎えたその刹那、空間が、ぐにゃりと歪む。
――ガタン。
一瞬の浮遊感の後、硬い大理石の床に二人の足が着地した。
周囲の喧騒は完全に消え去り、代わりに漂ってきたのは、高級な木香と紙の匂い。
「……あら?」
アルウェンが呆然とあたりを見回す。
そこは、広場ではなく、幾重もの魔導結界で守られているはずの、豪奢な一室だった。
「……おや。我が商館の『特級防壁』を無音で不透過してくるとは。……手荒な挨拶ですね、有馬 閃殿」
部屋の奥。
重厚なマホガニーの机に深く腰掛けた青年が、昏い笑みを浮かべていた。
シモン商会の若き主、シモンである。
その声音は冷徹そのものだったが、机の下の指先は、微かに震えていた。
「(……馬鹿な。国家予算レベルの魔導トラップが、発動すらしていない? 結界の隙間を『歩いて』抜けてきたというのか……!?)」
シモンが内なる戦慄を押し殺しているとも知らず、閃は自分の立ち位置を確認した瞬間に、垂直に折れ曲がった。
有馬流・最速土下座である。
「す、すみませんっ!! 不法侵入です! 決して怪しいものではありません、ただの極度の方向音痴なんです! 弁償なら、現世の労働力で……!」
「…………」
シモンは、深く息を呑んだ。
これが、噂に聞く『狂気の謙虚』。
古龍を屠り、帝国の皇女をあしらった怪物が、あえて地の底まで身を低くすることで、こちらの警戒心を煽り、出方を探っている。
その証拠に、これほど深く頭を下げていながら、閃のうなじには一切の『隙』がない。
親父にいつ背後から蹴られても対応できるよう、生存本能が完璧な防御態勢を維持しているのだ。
「……フッ、本当に底が知れない御人だ。私に頭を下げさせたければ、そう言えばいいものを。……お立ちください、有馬殿。私にあなたと戦う意思はありませんよ」
「本当ですか!? 警察、じゃなくて、衛兵さんを呼ばないでくれますか?」
「ええ。むしろ歓迎したいくらいです」
シモンは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、閃が大事そうに小脇に抱えている『ある物』に視線を走らせた。
それは、現世から紛れ込んだ、ただの家庭用サランラップ(残量わずか)。
「……やはり、それが、あなたがギルドや教会を煙に巻いている『魔力無効化の聖遺物』ですか」
「え? あ、これですか? はい、実家から持ってきちゃいました。じいちゃんの漬物を包むのに、これじゃないと密閉性が足りなくて……」
シモンの背筋に、氷水を浴びせられたような悪寒が走った。
「(魔力を完全に遮断・遮絶する、未知の透明な薄膜……! それを『漬物』に使うだと? 奴は何を漬ける気だ。まさか、クラーケンの心臓か、あるいは世界樹の種子か……!?)」
シモンは机の上に両手を組み、声音を一段と低くした。
その瞳には、狡猾な商人の狂気が宿っている。
「有馬殿。単刀直入に言いましょう。その『透明な秘宝』、我が商会がすべて言い値で買い取りましょう。あなたが望むなら、この国の経済を裏から動かす資金、私がすべて用意します。……私と、独占契約を組みませんか?」
閃は、目を丸くした。
「えっ……? この、使い古しのゴミを、買い取ってくれるんですか?」
「……ゴミ、ですか。ククッ、世界を揺るがす資源をそう呼ぶとは、相変わらず不敵な方だ」
「いや、本当にただのポリエチレンの塊なんですが……。異世界のリサイクルショップって、なんて良心的なんだ。ゴミがお金になるなんて、山梨の分別回収より進んでますよ……!」
閃の瞳は、純粋な感動に満ちていた。
だが、シモンにはそれが「お前程度の商人に、我が技術のすべてを渡すと思うか?」という、冷酷な拒絶の笑みに見えていた。
「(……金にも、権力にも興味がない、か。この男、ただ世界を自分の『庭』に変えようとしている。……面白い。これほどの怪物を飼い慣らすなど、最初から不可能だったというわけだ。ならば、私はその影に寄り添うだけでいい……)」
シモンは深く息を吐き、静かに微笑んだ。
「わかりました。今日のところは、あなたの『底』を覗こうとした私の不調法です。……お近づきの印に、これを」
シモンが差し出したのは、金貨が詰まった小さな袋。
「あ、あの、これは……?」
「ただの迷惑料ですよ。王都で路頭に迷うほど、あなたは安くはないはずだ」
「ええっ!? そんな、何もしてないのに……! シモンさん、あなた、麓の八百屋のおじさんより太っ腹です……!」
閃は、感激のあまり金貨の袋を両手で押し頂いた。
その傍らで、アルウェンは完全に壁に背を預け、冷めた目でその光景を見ていた。
彼女だけは、閃が本気で「ゴミが売れた」と勘違いしていることに気づいていたが、あえて口を挟まなかった。
「……行くわよ、閃」
「あ、はい! シモンさん、本当にありがとうございました! またゴミが出たら持ってきますね!」
「ええ、楽しみにしていますよ。……世界の覇者」
シモンの商館を出て、再び王都の夕暮れの路地を歩く二人。
金貨の袋を嬉しそうに揺らす閃の後ろ姿を、アルウェンは静かに見つめていた。
「ねえ、閃」
「はい? なんか、アルウェンさん。今日はずっと不機嫌ですね。お腹減ってますか?」
「あんたさ。……本当に、何考えてるの?」
歩みを止めず、アルウェンは呟く。
その声には、いつもの絶叫ツッコミのトーンは一切なかった。
「古龍の角をトカゲの骨と言い張り、大商人の結界を鼻歌混じりで踏み越えて、世界の理をゴミと呼ぶ。……あんた、この世界を、私たちのことを、馬鹿にしてるの?」
「えっ!? 滅相もないです! 僕はただ、皆さんが優しすぎて、申し訳ないというか……」
閃は慌てて振り返り、手を振った。
その顔は、やはりどこまでも卑屈で、情けない。
「実家じゃ、僕なんて一番の下っ端ですから。じいちゃんの木刀は風を切る音がしないし、親父の拳は残像すら見えない。それに比べたら、この世界は……みんな、すごくゆっくり動いてくれるし、僕のドジも笑って許してくれる。……だから、僕にとっては、本当に天国なんです」
「…………」
アルウェンは、閃の瞳の奥を見た。
そこにあるのは、嘘偽りのない、底なしの『孤独』と『歪み』だった。
この男にとって、異世界の絶望はただの「そよ風」でしかない。
それは強者の余裕などではなく、もっと根深い、精神の欠落。
「……あんたの実家、やっぱり一度、私が燃やしに行ってあげましょうか?」
「ひいいいっ! 止めてください! アルウェンさんが炭にされちゃいます!!」
閃が本気で怯えて頭を抱える。
アルウェンはそれを見て、小さく、誰にも聞こえない息を吐いた。
「(……まったく。調子が狂うわね)」
言葉にされない信頼。
踏み込まない、けれど、放ってはおけない距離感。
二人のズレた歩調は、静かに王都の影へと溶けていく。
その頃、宿舎に取り残されたイザベラと、広場でフラれたフレイア、そして一人で熱くなっていたカイルは、それぞれ「有馬閃」という存在のあまりの巨大さに、寝付けない夜を迎えようとしていた。




