第10話:戦場のど真ん中は「通学路」ではありません
第10話:戦場のど真ん中は「通学路」ではありません
王都郊外、黎明の霧が立ち込める薄暗い荒野。
そこに、およそこの世の終わりを予感させるほどの、圧倒的な質量が集結していた。
黄金の鎧に身を包んだ、軍事帝国の重装騎兵二千。
その先頭で、皇女フレイアが大剣の柄に手をかけ、冷たい熱を孕んだ瞳で前方を見据えている。
対するは、白銀の法衣を纏った聖教国の異端審問官イザベラと、王国の超エリート騎士カイルが率いる、聖騎士団。
互いの軍勢が放つ殺気だけで、大気がピリピリと鳴動していた。
目的は、ただ一つ。
昨日、王都のど真ん中で古龍の遺物を平然と持ち歩き、シモン商会の特級結界すら無音で踏み越えたという、謎のサムライ――有馬 閃の確保。
「……フレイア皇女。重ねて警告する。あの男は世界の秩序を揺るがす特異点。教会の管理下に置くべき存在だ。これ以上の介入は、聖教国への宣戦布告とみなす」
「ハッ、お固い審問官様が、よく言う。己の権威を守るために、あの至高の器を幽閉するつもりだろう? 私はあの男の『渇き』を知っている。奴が求めているのは、安寧ではない。己の力を引き出す、過酷な戦場だ」
フレイアの言葉に、隣に立つカイルがフッと自嘲気味に笑った。
「……お二人とも、有馬殿を侮りすぎだ。あの男がどちらかの陣営に甘んじて従うと思うか? 昨日のあの『卑屈な笑み』……あれは、我々すべての思惑を上空から見下ろしている者の顔だ。奴は、この戦いすら楽しんでいる」
三者三様の、歪んだ確信。
誰もが閃という存在の底知れなさに囚われ、その背中を追いかけていた。
いつ、誰が刃を抜いてもおかしくない。
一触即発の、その瞬間だった。
――キコキコキコキコキコ。
張り詰めた戦場に、およそ似つかわしくない、気の抜けた金属音が響き渡った。
「……む?」
フレイアが眉をひそめる。
霧の向こうから、凄まじい速度で接近してくる「銀色の二輪の獣」があった。
それに跨がり、必死の形相でペダルを漕いでいるのは、紛れもない、彼らが血眼になって探していた青年だった。
「有馬……閃……!?」
イザベラが息を呑む。
閃は、現世の実家の物置からパニック転移のドサクサで引っ張り出してきた、年季の入ったママチャリ(前カゴ付き)を猛烈な勢いで走らせていた。
「(うわああああん! なんでまた道に迷うんですか僕の足は! しかもなんか、ものすごく物々しい人たちが集まってるし……!)」
閃の視点からすれば、そこは恐ろしい不良の集会のような魔境だった。
だが、同時に閃は内心で、異世界の環境に深く感動してもいた。
「(でも……なんて走りやすいんだ異世界! 実家の山梨の太刀岡山の麓にあるあの地獄みたいな激坂に比べれば、この荒野はただの平坦なサイクリングロードです……! 空気も美味しいし、異世界は本当に自転車乗りに優しい天国だなあ……!)」
キコキコキコキコ! と、前カゴをガタガタ言わせながら、二つの大軍勢の、ちょうど射線上の真ん中を横切っていく閃。
全軍が、唖然としてその光景を見つめていた。
「ば、馬鹿な……。魔導具の気配が一切ない、未知の銀色の鉄馬……!」
「我が帝国の包囲網を、あえて正面から、あの速度で突破しただと……!?」
フレイアの頬が戦慄で強張る。
カイルは、その光景を見て確信に満ちた笑みを浮かべた。
「やはりな……! 両軍の真ん中を堂々と突っ切ることで、『お前たちの軍勢など、私にとってはただの障害物にもならない』と、無言で証明してみせたんだ!」
「キキィーッ!!」
派手なブレーキ音を響かせ、閃はフレイアとイザベラのちょうど中間の位置で自転車を止めた。
そして、泣きそうな顔で、近くにいたカイルに向かって叫んだ。
「あの、すみません! カイルさん! 近くに『アマノパークス』っていうお店はありますか!? シモンさんにもらったお金でタイムセールの卵を買いに行きたいんですが…」
「……アマ・ノ・パークス?」
イザベラがその単語を復唱する。
「(聞いたことがない古代の禁呪か……? あと5分で、世界を塗り替える何かが始まるというのか!?)」
「それを逃すと、母さんに『今日は晩ご飯抜きでチョークスリーパーの刑よ』って言われるんです! 本当に命がかかってるんです!」
「チョーク・スリーパー……!」
フレイアが息を呑んだ。
「(冥界の番人の名か!? 奴ほどの怪物を『晩飯抜き』で従える、実家の支配者……有馬家とは、一体どれほどの魔境なのだ……!)」
両軍が閃の言葉を深読みし、勝手に恐怖のどん底に叩き落とされているその時。
帝国軍の過激派の一陣が、手柄を焦って暴走した。
「ハッ、怯むな! 奴はただの無防備な若造だ! 撃てーーっ!」
放たれたのは、無数の魔導ボウガンの矢と、空間を焼き焦がす火球の弾幕。
それは確実に、ママチャリに跨がったままの閃の身体へと殺到した。
「有馬殿、危ないっ!」
カイルが叫ぶ。
だが、閃の視界は、すでにその攻撃を『停止』させていた。
「(……うわ、光る玉が飛んできた。でも、遅い……。じいちゃんが『間食したな!』って怒り狂いながら、背後から投げつけてくるあの超音速の湯呑みに比べれば、止まって見える……!)」
生存本能が勝手に作動する。
ユニークスキル『刹那の削り(タイム・トリミング)』。
コンマ一秒、世界の時間を削り取る。
閃は、ママチャリのハンドルを、ほんの数ミリだけ右に傾けた。
――シュパパパパパン!
次の瞬間、無数の矢と火球は、閃の髪の毛一筋、衣服の端一枚にすら触れることなく、その すべて が紙一重で背後へと通り過ぎていった。
閃は自転車に乗ったまま、微動だにしていない。
「な……っ!?」
放った兵士たちが、腰を抜かしてへたり込んだ。
「あ、あの速度の弾幕を……乗騎をわずかに傾けただけで、すべて見切って回避した……!?」
「(違う。回避したんじゃない。……奴は、攻撃の軌道をはじめから『知っていた』のだ。未来を予知しているのか……!?)」
フレイアの全身に、鳥肌が立つ。
当の本人は、飛んできた火球の熱で「あ、これ以上ここにいたら、カゴの中のビニール袋が溶けちゃう!」と、完全にパニックになっていた。
実家で、じいちゃんの竹刀の風圧に晒された時の、あの絶対的な恐怖がフラッシュバックする。
焦りと、恐怖が、閃の喉を破った。
「もうっ……うるさいです! 静かにして、一列に並んでください!!」
それは、ただの閃の、パニックによる大声(泣き言)だった。
しかし。
有馬流の呼吸法と、実家の魔境で鍛え上げられた圧倒的な肺活量。それが無自覚に融合した「一喝」は、荒野の霧を一瞬で吹き飛ばし、大気に強烈な衝撃波を生み出した。
ゴオオオオオオン……ッ!!
まるで、巨大な神の鐘が耳元で鳴らされたかのような錯覚。
両軍の馬たちが一斉にその場に跪き、二千人の重装騎兵と聖騎士たちが、本能的な恐怖によって、武器を落としてその場に平伏した。
「ひっ……!?」
「な、なんだ、この、魂を直接すり潰されるような殺気は……!」
イザベラは法衣を震わせ、崩れ落ちる膝を必死に支えていた。
フレイアは、大剣を地面に突き立て、荒い息を吐きながら閃を見上げていた。その瞳は、もはや恐怖を通り越し、狂おしいほどの崇拝の色を帯びている。
「(これが……奴の、本質……。逆らう者すべてを平伏させる、真の覇王の威光……!)」
「(……あ、あれ? 皆さん、急に静かになって、どうしたんだろう。やっぱり、山梨の分別回収の話、真剣に聞いてくれるんだな……優しいな……)」
閃がホッとして胸を撫で下ろした、その時。
「おーい! 閃ーーーーっ!!」
荒野の向こうから、美しい金髪を振り乱し、信じられない速度で走ってくるハイエルフの姿があった。アルウェンである。
「あ、アルウェンさん! よかった、パークスの場所、わかりますか?」
「わかるわけないでしょバカ!! あんた、宿を出たと思ったら、なんでそんな銀色の鉄クズに乗って戦場のど真ん中に突っ込んでんのよぉ!」
アルウェンは閃のママチャリのハンドルを掴み、激しく揺さぶった。
「鉄クズじゃないです、アサヒサイクル製です! これ、じいちゃんが『これで買い物に行ってこい』って、時速60キロで並走しながら渡してきた思い出の品なんです!」
「時速60キロで並走するじいちゃんって何よ!? 怖いからもう実家の話はしないで!」
アルウェンは絶叫しながらも、周囲の異様な光景に気づいた。
大国の軍勢が、たった一人の青年の「一言」で、完全に戦意を喪失し、地面に這いつくばっている。
アルウェンは、閃の横顔を盗み見た。
この男は、自分が世界を震撼させていることすら、気づいていない。
その無自覚な歪みが、周囲の人間をどれほど狂わせ、惹きつけているかも。
「……ねえ、閃」
「はい?」
「あんた、本当に……タチが悪いわね」
「ええっ!? 僕、また何か失礼なことしましたか!?」
アルウェンはフイッと顔を背け、小さく溜息をついた。
その表情には、呆れと、ほんの少しの、誰にも見せない独占欲が混ざり合っていた。
「いいから、行くわよ。その『タイムセール』だかってやつ、私が案内してあげるから」
「本当ですか!? さすがアルウェンさん、頼りになります!」
嬉しそうにペダルを漕ぎ出す閃と、その隣を歩くアルウェン。
二人の、どこまでも噛み合わない、けれど誰も介入できない特別な距離感が、静かに荒野の霧の向こうへと消えていく。
残されたフレイア、イザベラ、カイルは、遠ざかる背中を見つめながら、ただその圧倒的な余韻に浸るしかなかった。
「……有馬 閃。必ず、私の国へ連れて行く。どんな手を使ってでもな……」
「……あの男の呪いは、私が解く。誰にも、渡さない……」
「フッ……待っていてください、有馬殿。私は必ず、あなたの背中に追いついてみせる……!」
名前のつかない執着と、明言されない信頼の糸は、閃を中心に、さらに深く、静かに絡み合っていく。
当の本人は、ただ「現世の卵」の心配をしながら、天国のような平坦な道を、笑顔で進んでいくのだった。




