第6話:異端審問官は「厳しい先生」ではありません
第6話:異端審問官は「厳しい先生」ではありません
月明かりが石畳を白く照らす王都の裏路地。
有馬 閃は、全速力で走っていた。
「……はぁ、はぁ……。あ、危なかった。反射的に『門限』を気にしてしまいましたが、ここは山梨じゃないんでした」
足を止め、膝に手をつく。
脳裏にこびりついていた、タイムオーバーと同時にリビングの照明を消し、暗闇から無音で「マウントポジション」を取りに来る母・クリスティーナの影が、ようやく薄れていく。
この世界には、門限はない。
親父の正拳突きも、じいちゃんの神速の竹刀も届かない。
「……天国だ。やっぱり、ここは天国ですよ。……さて、寝床を探さないと」
閃が安堵の息を漏らした、その時。
「――動くな、異端者」
冷徹な声が、夜の静寂を切り裂いた。
背後に立ち塞がっていたのは、白銀の法衣を纏った一団。
中心に立つのは、燃えるような紅い瞳を持つ女性だった。聖教国の審問官、イザベラである。
「魔法の痕跡もなく古龍を屠り、ワイバーンの群れを無力化し、オークの集落を壊滅させたという報告を受けている。お前は何者だ。どこの組織の刺客か、あるいは……人ならざる魔物の化身か」
イザベラが抜き放った細剣の先が、閃の喉元を正確に捉える。
その剣筋には一切の迷いがない。異世界の「法」を司る者の、峻烈な殺気。
だが、閃はただ困惑していた。
「……えっと。僕はただの、山梨から来た薬草摘み見習いで……。壊滅だなんて、そんな物騒な。皆さん、とても親切にしてくださいましたよ?」
「黙れ! 嘘を吐くな。オークが自発的に地獄猪の心臓を差し出すなど、歴史上あり得ん。恐怖、あるいは呪い……何らかの冒涜的な手段を用いたはずだ」
イザベラがさらに一歩踏み込む。
閃の視界が、極限まで鮮明になる。
(……この人、いい構えだ。親指の角度、重心の置き方。じいちゃんの道場にいた弟子の人に、どこか似ている……)
閃にとって、突きつけられた剣先は「死の恐怖」ではなく、「熱心な指導者」の象徴だった。
「……あの、左の肩、少し力が入っています。そのまま突くと、軌道が右に0.5ミリほどズレますよ」
「……何?」
「実家で教わりました。『殺気は自分の動きを濁らせる不純物だ』って。……あ、生意気言ってすみません! 」
閃は反射的に頭を抱えて縮こまった。
その瞬間、イザベラは戦慄した。
(……今、私の剣先が届く範囲(間合い)に、自ら無防備に踏み込んだ? ……いや、違う。この男、今の動作で私の『必殺の圏内』を無意識に無効化したのか!?)
イザベラの目には、閃の態度が「あまりにも高度な心理戦」に見えていた。
「……貴様。私を……聖教国の審問官を侮辱するか」
「いえ、滅相もありません! ただ、その……皆さんに迷惑をかけたのなら謝ります。弁償は……あ、さっきのお金、ギルドに置いてきちゃいました……」
閃の顔が、絶望に染まる。
家賃も払えない。飯も食えない。
せっかくの「天国」での生活が、自分のドジで初っ端から破綻しようとしている。
その様子を、イザベラはじっと見つめていた。
激しく震える肩。伏せられた視線。
そこにあるのは、強者の余裕ではない。
魂の底から滲み出るような、根源的な「恐怖」だ。
(……待て。この男の怯え方は異常だ。私に向けられたものではない。もっと、こう……この世の理を超えた『何か』に、常に怯えているような……)
イザベラの脳裏に、一つの推論が浮かぶ。
(……もしや、この男。あまりの強大すぎる力ゆえに、邪神にでも呪われているのか? 逆らえぬ運命に抗うために、これほどまでに卑屈な精神を盾にしているというのか……?)
「……おい。異端者……有馬、と言ったか」
「は、はい! すみません、すぐに消えますから!」
「……もうよい。剣を引け」
イザベラは細剣を鞘に収めた。
背後の騎士たちがざわめくが、彼女はそれを手で制する。
「お前の『呪い』……その不遇な境遇。調査する必要がありそうだ。……今夜は我が教会の宿舎を貸してやる。逃げようなどと思うな」
「えっ? 泊めてくれるんですか!? ……審問官さん、あなた、なんて慈悲深い人なんだ……。学校の先生より優しいです……!」
閃の瞳に、感激の涙が浮かぶ。
「……勘違いするな。監視のためだ」
イザベラは冷たく言い放ち、背を向けた。
だが、その頬は微かに紅潮している。
(……あんな目で、感謝されるとは。……ふん、よほど過酷な道を歩んできたのだろうな、この男は。私が、その『呪い』を解く一助になれば……いえ、あくまで正義のためよ)
一方、閃はニコニコしながら彼女の後に付いていった。
(よかった……。異世界の人、本当にみんな優しいなぁ。親父なら、まず問答無用で正拳突きから入りますもんね)
聖教国のトップ審問官を「優しい寮母さん」のように解釈したサムライと。
最強の技術を「邪神の呪い」と解釈した聖女。
二人のズレた関係は、月明かりの下、名前のつかない信頼を孕んで動き始めた。
その頃、ギルドではアルウェンが、閃が置いていった龍血草の山を前に、天を仰いでいた。




