第20話:見えない妖精は「暗殺部隊」ではありません
第20話:見えない妖精は「暗殺部隊」ではありません
有馬家の裏庭(太刀岡山)と異世界を繋ぐ、青白く光る次元の門。
そこから、エコバッグを片手に提げた有馬 閃が、ひょっこりと顔を出した。
「よし、親父の気配なし。母さんは……キッチンで出汁を取ってるから、あと三十分は動かないはず。今のうちに!」
閃は安堵の息を吐きながら、異世界の柔らかな草を踏みしめた。
彼が門を抜けた先は、王都郊外の静かな森。そして、いつものように呆れ顔で木に寄りかかっているハイエルフの姿があった。
「……来たわね。本当に毎日毎日、よく飽きずに通ってくるわね」
「あ、アルウェンさん! おはようございます。いやあ、こっちのスーパー(市場)は野菜が安いし、何より道中で『命を狙われない』のが最高ですからね」
閃は本気で嬉しそうに笑った。
実家から近所のコンビニに行く道のりすら、有馬家では「歩法と索敵の訓練」と称して、茂みから無数の手裏剣(※じいちゃんのお手製)が飛んでくるのだ。
それに比べれば、この異世界の空気は、まさに肺の底まで洗われるような天国であった。
「……命を狙われない、ね。あんた、自分の足元、よく見てみなさいよ」
アルウェンが、顎で地面をしゃくった。
閃が歩く獣道。そこには、不自然なほど綺麗に小石が掃き清められ、ぬかるみには真新しい高級な絨毯(どう見ても王族用)が敷き詰められていた。
さらに、木々の枝葉は、閃の身長に合わせてミリ単位で剪定されている。
「あ、本当だ。町の清掃ボランティアの方々でしょうか? 毎日歩きやすくて助かってます。見えない妖精さんみたいですね」
「(……血走った目で徹夜で山を整地してる聖騎士と帝国兵の群れを、妖精って呼ぶのはあんたぐらいよ……!)」
アルウェンは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
あの日、有馬家の圧倒的な「魔境ぶり」を目の当たりにした英雄たち。
彼らは完全に方針を転換した。
閃を力で囲うのではなく、彼がこの異世界で過ごす『束の間の休息』を、死守する。
彼に一切の不快感を与えず、ただひたすらに影から道を作り、脅威を事前に排除する「超・過保護ストーカー同盟」が、今この瞬間も王都の裏側で暗躍しているのだ。
「さ、行きましょうアルウェンさん。今日は特売のキャベツを狙ってるんです」
「……ええ。せいぜい、平和な買い物を楽しむことね」
同時刻、王都の城壁外、約二キロの地点。
そこでは、凄惨な地獄絵図が展開されていた。
『グガァァァァァッ!!』
森を切り裂くような咆哮。
現れたのは、災害級の魔物『狂暴地竜』の群れだった。
本来なら、王都の警鐘が鳴り響き、全軍を挙げて迎撃にあたるべき国家規模の危機。
だが、警鐘は鳴らない。一音たりとも、鳴らさせない。
「――静かにしろ。有馬殿の耳に、貴様らの汚らわしい咆哮を届かせるわけにはいかないのだ」
音を置き去りにした白銀の閃光。
カイルの剣が、地竜の分厚い装甲を音もなく両断した。
血飛沫が上がるよりも早く、イザベラが展開した『防音と隔離の聖絶結界』が、戦闘の余波を完全に閉じ込める。
「急ぎなさい、同志たち! 彼が市場の八百屋に到着するまで、あと三十秒! それまでにこの肉塊どもを処理し、風向きを聖魔術で変えるのです! 血の匂い一つ、彼に嗅がせてはならない!」
イザベラが血走った目で指示を飛ばす。
普段は対立しているはずの帝国重装兵たちも、フレイアの指揮の下、一糸乱れぬ動きで地竜の死体を解体し、即座に異空間収納へと放り込んでいく。
「見事な解体だ、帝国兵! この鱗は有馬様が歩く道の舗装材として、我がシモン商会が買い取ろう」
「黙れ商人! これは我らが王(閃)への供物だ! 貴様の金など不要!」
彼らの瞳にあるのは、ただ一つの狂信。
あの絶対的な強者が、怯えることなく『キャベツ』を買える世界を守る。
そのためだけに、異世界の最高戦力たちが、裏で血反吐を吐きながら魔物の群れを無音で殲滅し続けていた。
「うーん、今日も平和ですねぇ」
王都の市場。
閃は、のんきな声で伸びをした。
活気ある人混み。だが、閃が歩く半径二メートルだけは、なぜか人々が(裏で買収されたり脅されたりして)綺麗に道を譲り、モーゼの十戒のように道が開けていく。
「おや、あそこの八百屋さん、すごく立派なキャベツが並んでますよ」
閃が向かった先。
そこには、粗末な前掛けをした、どう見ても不自然なほど体格が良く、眼光の鋭い男(※帝国の暗殺部隊の隊長)が立っていた。
「い、いらっしゃいませ。……そこのキャベツ、特別に銅貨一枚でどうだ」
「えっ、こんなに瑞々しいのに銅貨一枚!? ありがとうございます、お兄さん! 助かります!」
閃はニコニコと笑いながら、キャベツを手に取った。
その時。
コロン。
閃のポケットから、銅貨が一枚こぼれ落ち、薄暗い路地裏の方へと転がっていった。
「あ、いけない。親父に『金は命の次に重いと思え』って言われてるのに」
閃が小走りで路地裏の影に入り、しゃがみ込もうとした瞬間。
「…………」
暗がりの中から、血と泥に塗れた銀色のガントレットが、スッと差し出された。
その手のひらには、泥一つ付いていない、磨き上げられた銅貨が乗っている。
「……あ」
閃は目を丸くした。
暗がりの中に片膝をつき、頭を深く垂れているのは、先ほどまで死闘を繰り広げていたエリート騎士、カイルだった。
彼の息は上がり、頬には魔物の返り血が微かにこびりついている。
「有馬殿。……貴方の落とし物です。どうか、その御手を煩わせることなく」
カイルの声は、極限まで抑えられ、そして微かに震えていた。
自分は今、彼の歩く道を阻む『塵』を払ってきた。だが、それを誇る気はない。ただ、彼の視界の端に一瞬でも映ることができたなら、それで……。
「……カイルさん?」
閃の目が、スッと細められた。
血の匂い。乱れた呼吸。そして、片膝をつく姿勢。
閃の脳内で、実家ルールが瞬時に状況を『解釈』する。
「(……なるほど。昼間からこんな路地裏で、泥だらけになって……。町内会の『ドブ掃除』ですね。きっと重労働で、腰を痛めて休んでるんだ。……偉いなぁ、カイルさんは)」
閃は、カイルの手から銅貨を受け取ると、代わりにエコバッグから取り出した『ある物』を、ポン、とカイルの手に乗せた。
「……いつも、見えないところで町を綺麗にしてくれて、ありがとうございます。お疲れ様です」
閃はそれだけ言うと、深く頭を下げ、足音もなく路地から去っていった。
「…………っ」
カイルは、己の手に乗せられたものを見た。
それは、現世のスーパーのレジ横で売っている、個包装の『塩飴』だった。
――『見えないところで(魔物を)綺麗にしてくれて(屠ってくれて)、ありがとう』。
「(……ああ。ああ……っ! 有馬殿は、すべてを見透かしておられたのだ! 我々が裏でどれほどの血を流そうとも、その『忠義』を、彼は受け取ってくださった……!)」
塩飴を握りしめるカイルの目から、ボロボロと熱い涙が溢れ出した。
ただの塩飴が、彼にとっては神から授かった聖遺物、あるいは至高の勲章へと昇華した瞬間だった。
暗がりの奥で息を潜めていたイザベラやフレイアたちも、その光景を見て、嫉妬と羨望でハンカチ(法衣)を噛み千切っていた。
「……閃。あんた、路地裏で何やってたのよ」
日向に戻ってきた閃に、アルウェンがジト目で尋ねる。
彼女には、路地裏で展開された『クソデカ感情の爆発』が、手に取るように分かっていた。
「いえ、清掃ボランティアのカイルさんに、塩分補給の飴をあげただけです。この町の人たち、本当に働き者で優しいですね」
「……あのね。あんたのその無自覚な『飴』で、何人の人間が狂っていくか、少しは考えなさいよ」
「え? 塩分控えめの方がよかったですか?」
「そういう話じゃないわよ、バカ!」
アルウェンは、呆れ果てて天を仰いだ。
だが、その口元には、諦めと……ほんの少しの優越感が混じった笑みが浮かんでいた。
どれほどの英雄たちが裏で血を流し、彼を神と崇めようとも。
こうして、日向で彼の『くだらない日常』の隣を歩けるのは、今のところ自分だけなのだから。
「ほら、帰るわよ。キャベツ、ちゃんと落とさないように持ちなさい」
「はい! ありがとうございます、アルウェンさん。やっぱり、あなたと歩くのが一番安心します」
言葉にされない執着と、明言されない信頼。
交わらないはずの狂気は、今日も閃という圧倒的な『余白』に吸い込まれ、平和な異世界の空に溶けていく。
「(……さあ、急いで帰らないと。門限に遅れたら、今夜こそ親父のジャーマンスープレックスが待ってますからね……!)」
最強で、最弱のサムライは、今日も世界の理を無視して、ただひたすらに実家の恐怖から逃げ続けるのだった。




