第21話:いつもの食卓は「最後の晩餐」ではありません
第21話:いつもの食卓は「最後の晩餐」ではありません
星霊の谷の奥深く。青白く発光し、脈動を続ける次元の門の前に、異世界の最高権力者たちが集結していた。
「……基礎工事の音を立てるな。有馬様がこちら側で休息される際、耳障りな騒音など万死に値する。完全なる静寂魔術を展開した上で、最高級のふかふかな絨毯を敷き詰めた『観測所』を建てるのだ」
魔道具商シモンが、配下の者たちに冷徹な指示を飛ばす。彼の目には、閃が持ち込む「神の薄膜」などの現世の恩恵を独占し、この門周辺を世界の経済の中心地に変えるという狂気的な野望が燃え盛っていた。
「シモン、貴様の商会だけに独占はさせんぞ。我が帝国軍の工兵部隊にも手伝わせろ。有馬 閃がいつこちらへ来ても良いように、門から市場までの道を『白亜の大理石』で舗装するのだ。私の夫(予定)の歩む道に、泥の跳ね返りなど断じて許されない!」
皇女フレイアが、黄金の鎧を輝かせながら熱っぽく叫ぶ。
「お二方とも、俗が過ぎます。ここは彼が『呪縛』から解き放たれる神聖なる領域。私は教会の全財産を投じて、この門の周囲に彼を癒やすための大聖堂を建立します。彼がいつでも懺悔(愚痴)をこぼせるように……」
審問官イザベラが、両手を組み、陶酔しきった瞳で門を拝んでいる。
「……フッ。貴様ら、形あるものに囚われすぎだ。私はただ、彼の落とした足跡をこの特殊な保存魔法で石板に写し取り、己の剣の教本とするだけだ。有馬殿……貴方のその孤高の背中、必ず私が守ってみせる」
エリート騎士カイルが、地面に這いつくばって閃の足跡をミリ単位で計測している。
彼らは完全に、有馬 閃という存在を神格化していた。
自分たちを救ってくれた覇王。そして、あの門の向こう側に潜む「恐るべき魔境の邪神(※閃の実家の家族)」から、たった一人で世界を守り続けている悲劇の英雄。
彼らは絶対に門を越えない。あの凄まじい「親父の遠当て(風圧)」を浴びたことで、彼らの生存本能が「あちら側に踏み込めば一秒で塵になる」と正確に警告していたからだ。
だからこそ、彼らはこの異世界(こちら側)を、彼にとっての完璧な「楽園」にするための超・過保護ストーカー同盟として、永遠の忠誠を誓い合っていた。
一方、そんなクソデカ感情の渦巻く次元の門をくぐり抜け、現世(山梨県甲斐市の太刀岡山の中腹)へと足を踏み入れた有馬閃は、深い安堵の息を吐いていた。
「ふぅ……。今日も無事に買い出しが終わりました。お肉も特売キャベツも完璧です。腕時計によれば、門限まであと七分。これなら、親父のジャーマンスープレックスも、母さんの三角絞めも回避できますね!」
閃は、手にしたエコバッグを大事そうに抱え直した。
ヒグラシの鳴き声が響く、蒸し暑い日本の夏の夕暮れ。彼にとっては、何よりも緊張を強られる「戦場(日常)」への帰還である。
「……で。なんで元・特級冒険者の私が、異世界の長ネギまで持たされてるわけ?」
閃の後ろから、呆れ果てたような声が続いた。
門を抜けて現世の土を踏んだのは、美しい銀髪を揺らすハイエルフ、アルウェンだった。
ただし、その装いは神々しい冒険者の装備ではなく、閃の実家のタンスから引っ張り出してきた「エンジ色の学校指定ジャージ(※胸元に『有馬』の刺繍入り)」である。
「あはは、すみません。でも、長ネギってカゴに入れると絶妙にバランスが崩れて、歩法(縮地)の際に重心がコンマ一秒ズレるんですよ。アルウェンさんが持ってくれて助かりました」
「そういう問題じゃないわよ。……だいたい、あんた自分の家の裏山なのに、さっき思いっきり獣道から外れようとしてたじゃない」
「いやぁ、親父が毎日のように新しいトラップ(落とし穴や丸太の振り子)を仕掛けるので、道が頻繁に変わるんです。アルウェンさんが一緒だと、罠の気配を読んでくれるから迷わなくて安心します」
閃は屈託のない笑顔を向けた。
その無防備な顔を見て、アルウェンは小さく息を吐いた。
(……本当に、この男は)
アルウェンは、背後にある青白い門を振り返った。
あちら側で、英雄たちがどれほど狂気的な執着を抱き、彼を神として祀り上げようとしているか、彼女は知っている。
だが、彼らは閃の「弱さ」を直視しようとはしなかった。彼が本気で買い出しの時間を気にし、本気で家族に怯え、本気で道に迷うポンコツであることを、「高度な心理戦」や「悲劇の呪縛」として片付けてしまった。
だからこそ、アルウェンは門を越えた。
閃が求めているのは、自分を崇め奉る従者でも、遠くから祈りを捧げる信徒でもない。
一緒にスーパーに行き、一緒に道に迷い、一緒に長ネギを持って「あんたバカじゃないの」と笑ってくれる「隣を歩く人間」なのだと気づいてしまったからだ。
シュッ!
「おっと」
閃が軽く首を傾げた瞬間、彼が先ほどまでいた空間を、鋭く削られた竹槍が音もなく突き抜けていった。
「ひぃっ!?」
「あぶないあぶない。じいちゃんの仕掛けた『鳴子連動型・竹槍トラップ』ですね。アルウェンさんが立ち止まってくれたおかげで、タイミングがズレて助かりました」
「(……どんな日常よ! 魔王のダンジョンより殺意が高いじゃないの!)」
アルウェンは涙目で長ネギを握りしめた。
有馬家という本物の魔境(地獄)に足を踏み入れるのは、エルフにとっても文字通り命がけだった。
それでも、彼女は逃げ出さずに閃の隣を歩き続ける。
「……アルウェンさん? どうかしましたか? 顔色が悪いですよ」
「なんでもないわよ。ほら、早く歩きなさい。門限に遅れて、またあんたが関節外されてるところなんて見たくないからね」
アルウェンは、閃の背中をポンと押した。
「はい! 急ぎましょう。今日の夕飯はハンバーグですからね!」
夕日に照らされた長い影が、二つ並んで山道を下っていく。
やがて木々の間から、巨大な木造の道場が見えてきた。
縁側では、白髪の老人――祖父の千駕が、目隠しをしたまま空中の蚊を箸で正確に真っ二つにしている。
庭先では、父の将が軽トラックサイズの岩を背負って、指一本で腕立て伏せを繰り返している。
そして、玄関の引き戸が開き、エプロン姿の美しい金髪の女性――母・クリスティーナが現れた。
「…………っ!」
ポーランドの元プロ総合格闘家が放つ、世界を滅ぼす邪神すら凌駕する圧倒的なオーラ(アルティマウェポン)に、アルウェンは息を止め、カチコチに直立不動になった。
「ただいま戻りました! キャベツとネギとお肉、完璧です!」
閃が、這いつくばるような低姿勢でエコバッグを差し出す。
クリスティーナは、中身をスッと確認し、極上の微笑みを浮かべた。
「……ええ、完璧ね。時間も門限の三十秒前。よくできたわ、閃。……あら?」
母の冷たくも鋭い視線が、閃の後ろで長ネギを抱えて硬直しているアルウェンに向いた。
「エルフのお嬢さん、今日も夕飯を食べていくの?」
「は、はいっ! いただきます、お母様っ!」
元・特級冒険者のプライドなど微塵もなく、アルウェンは軍人のように最敬礼した。
「そう。いらっしゃい。……でも閃。買い出しは完璧だったけど、玄関に入るときの左足の重心、一ミリ浮いていたわよ」
「えっ!?」
「隙だらけよ。腕立て伏せ一万回、庭でやってから夕飯にしなさい」
「うわあああっ、すみません母さん!」
閃はエコバッグを置くや否や、庭に飛び出し、凄まじい速度で腕立て伏せを開始した。
その背中を見つめながら、アルウェンは小さく、誰にも聞こえない息を吐いた。
「ねえ、閃」
「はい! 102、103……なんですか、アルウェンさん!」
「……あんたが一人で、迷わずにスーパーに行けるようになるまでは。私が、ずっと案内してあげるわよ」
アルウェンは、顔を少し背けながら、ぶっきらぼうにそう言った。
閃は一瞬だけ腕立て伏せの手を止め、今までで一番嬉しそうな、柔らかな笑みを浮かべた。
「はい。よろしくお願いします、アルウェンさん。……あ、104、105!」
明言されない信頼。
言葉にしない理解。
狂気的な執着を抱える英雄たちが門の向こうで見守る中、最強で最弱のサムライは、ただ一人の案内人と共に、今日も過酷で愛おしい日常(魔境)の扉を開ける。
実家の地獄に比べれば、異世界の絶望はそよ風でしかない。
有馬閃の、天国(異世界)と魔境(実家)を行き来する日々は、これからもずっと続いていく。




