第19話:実家の裏山は「最果ての魔境」ではありません
第19話:実家の裏山は「最果ての魔境」ではありません
神話の邪神が、ただの「通りすがり(自転車)」によって秒殺された荒野。
宙を割っていた禍々しい次元の亀裂は、邪神の消滅と共にゆっくりと収束し……やがて、人の背丈ほどの、青白く安定した「門」の形をとって固定化された。
「……有馬殿の姿がない。あの次元の穴の向こうへ、帰ってしまったのか」
カイルが、放心したようにポツリと呟いた。
周囲には、帝国軍の重装騎兵たちと聖騎士団が、いまだに地面に這いつくばったまま、ピクピクと痙攣している。覇王の一喝(パニック絶叫)の余波から、未だに魂が回復していないのだ。
「……ああっ。自らの力で世界を救っておきながら、見返り一つ求めず、再びあの『呪われた幽閉地』へと戻っていくなんて……!」
イザベラが、両手を固く組んで空を仰いだ。その目からは、とめどなく大粒の涙が溢れ落ちている。
「あの男は、どこまで気高く、そして孤独なのだ……! 私は、教会の教えに背いてでも、彼の後を追う。あの恐るべき『ちょーくすりーぱー』の呪縛から、彼を解き放つために!」
「抜け駆けは許さんぞ、審問官!」
フレイアが、黄金の鎧を鳴らして立ち上がった。
彼女の頬は、かつてないほどの熱情に赤く染まっている。
「あれほどの雄姿を見せつけられて、ただ待つ女だと思われるな! 私は私の全軍をもって、あの門の先へ侵攻する! 彼を縛る『魔境』をこの手で焦土に変え、彼を正当なる王として迎えるのだ!」
「……お二方とも、無茶はおやめなさい。あの御方を縛る『何か』は、我々の常識が通用する相手ではないでしょう。ここはまず、慎重な事前調査(という名の囲い込み)が必要です」
いつの間にか、シモンが真新しい金糸のローブに着替え、計算高い笑みを浮かべて二人の前に立っていた。
「私の商会の全財産を投じ、あの門の向こう側に『拠点』を築きます。有馬様がいつこちらへ逃げてきても良いように……そして、いつでも我々が彼を監視できるように」
英雄たちは、互いの顔を見合わせた。
目的は違えど、想いは一つ。
――『有馬 閃を、彼を縛る過酷な運命から守り抜く』。
かつて命を削り合った彼らは、閃という巨大なブラックホールの前に、奇妙な連帯感(ストーカー同盟)を結んだのだった。
「……行くぞ」
カイルを先頭に、四人の英雄たちが、静かに発光する次元の門へと足を踏み入れた。
門を抜けた瞬間。
彼らの全身を、ねっとりとした、まとわりつくような「重気」が包み込んだ。
「ぐっ……!? な、なんだこの息苦しさは……!」
「大気が、淀んでいる……! 魔力とは違う、未知の瘴気か……!?」
カイルとフレイアが、思わず喉を押さえてむせる。(※ただの山梨県の蒸し暑い夏の気候である)。
周囲は、うっそうと茂る竹林と杉の木に囲まれた、薄暗い山道だった。
「……しっ! 静かにしろ、あんたたち! 殺されるわよ!」
茂みの奥から、ひったくるような小声が飛んできた。
見れば、先ほどまで荒野にいたはずのハイエルフ・アルウェンが、大木の後ろに身を隠し、ガタガタと震えながら彼らを手招きしているではないか。
「アルウェン殿! 貴女も来ていたのですね。……どうしたのです、その尋常ではない怯え方は」
「いいから、あっちを見なさいよ……。閃のやつ、たった今、あの木造の『魔王城』に帰還したところよ……」
アルウェンが指さした先。
そこには、古びた木造の広大な建物――有馬家の道場があった。
縁側には風鈴が下がり、一見するとただの長閑な日本家屋である。
だが、英雄たちの魔導眼は、その建物から立ち上る「異常な殺気のオーラ」を正確に捉えていた。
「(……信じられん。ただの木造建築が、一国の王城以上の防衛結界(威圧感)を放っているだと……!?)」
「(見ろ、庭の石の配置、木々の隙間……すべてが、侵入者を殺すための『死線』として機能している!)」
彼らが息を潜めて見守る中、道場の門をくぐって、ママチャリを押した閃が入ってきた。
前カゴには、オギノのレジ袋(ネギと特売肉が飛び出している)が乗っている。
「ただいま戻りましたー! お肉、買ってきましたよ!」
閃が声を上げた、次の瞬間。
――ドォォォォンッ!!
道場の障子が内側から爆発するように吹き飛び、一人の屈強な中年男性が、音速を超えた飛び蹴り(ドロップキック)で閃の顔面へと襲いかかった。
「遅ぇぞ閃!! 門限からきっかり12秒の遅刻だ! 腹が減って筋肉が分解されちまうだろうが!!」
「うわあああっ、すみません親父!」
閃は、自転車から手を離すことなく、首をわずかに傾けてその致死の飛び蹴りを回避した。
男――父の将の蹴りは空を切り、閃の後ろにあった樹齢数百年はあろうかという巨大な杉の木に直撃。
メキィィッ! と凄まじい音を立てて、大木がへし折れ、轟音と共に倒壊した。
「ヒッ……!?」
茂みから見ていたカイルたちが、一斉に声にならない悲鳴を上げる。
「(……ま、魔力を一切まとわない、純粋な肉体の力だけで……大樹を粉砕した!?)」
「(あれが、先ほどの荒野にカマイタチを飛ばした冥界の王……! 蹴りの風圧だけで、私の鎧にヒビが入ったぞ……!)」
さらに、縁側で茶を啜っていた白髪の老人――祖父の千駕が、鬱陶しそうに空を飛ぶハエを見上げた。
手元にあった耳かきを、スッ、と無造作に振る。
――シュパッ。
「(……なっ!?)」
エリート騎士カイルの動体視力すら、完全に置き去りにされた。
空を飛んでいたハエが、羽根と六本の足だけを正確に切断され、胴体は無傷のまま地面にポトリと落ちたのだ。
「(……き、斬撃の軌道すら見えなかった……! あれは神の業だ! 剣聖などという次元ではない!)」
「(あの老翁、ただ座っているだけで、周囲の空間を完全に『支配』している……!)」
そして。
英雄たちの心に、決定的な絶望を刻み込む存在が、道場の奥から静かに姿を現した。
「……閃」
エプロン姿の、美しい金髪の女性。母・クリスティーナである。
彼女が一歩歩くたびに、周囲の空気が凍りつき、鳥の鳴き声が完全に途絶えた。
ポーランド出身の元プロ総合格闘家。その全盛期のオーラ(アルティマウェポン)が、怒気と共に山全体を覆い尽くす。
「(…………っ!!)」
イザベラが、耐えきれずに膝をついた。
フレイアの大剣を持つ手が、ガタガタと制御不能な震えを起こしている。
「(……息が、できない。なんだこの女は。魔王? 違う、そんな生易しいものではない。この世のすべての『暴力』が、人の皮を被って歩いている……!)」
クリスティーナは、閃が持ってきたレジ袋の中身を冷たい目で確認した。
「お肉はいいわ。……でも、閃。卵は? 特売の卵はどうしたの?」
「あ、ええと、その……途中で、ちょっと火遊び(邪神の熱線)に巻き込まれちゃって、黒焦げに……」
「…………そう」
クリスティーナが、極上の微笑みを浮かべた。
その瞬間、英雄たちは本能で理解した。
――世界が、終わる。
「じゃあ、今日のタンパク質は……お前の肉体から補給させてもらうわね」
「ぎゃああああああああっ!!」
閃の悲鳴がこだまする。
瞬きする暇もなかった。クリスティーナの体は、重力と慣性を完全に無視した軌道で閃の懐に潜り込み、一瞬にして彼の首に腕を巻き付けた。
有馬流・実戦型チョークスリーパー。
大理石の床すら砕く閃の首の骨が、メキメキと悲鳴を上げる。
「痛い痛い痛い! 母さん、タップ! タップしてます!!」
「あら、関節がまだ外れてないから、タップは無効よ」
ゴキッ! という生々しい音と共に、閃の体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「…………」
茂みに隠れていた五人は、互いに身を寄せ合い、ガタガタと震えながら涙を流していた。
「……見たか。あの閃殿が、一切の抵抗すら許されず、一方的に蹂躙されている……」
「邪神を赤子のように捻り潰した彼が……毎日、あんな地獄の拷問を受けているというの……!?」
「私たちの力など、あの女(母)の前では、秋の枯れ葉にも等しい……。正面から挑めば、一秒で全滅するわ……!」
イザベラが、血の滲むほど唇を噛み締め、カイルたちに向かって静かに頷いた。
「……同志たちよ。方針を変更します。我々が彼を武力で助け出すことは、不可能です」
「……ああ。だが、決して見捨てはしない。我々は、この地獄の周辺に『監視網』を築く。彼が少しでも心休まる場所を、密かに提供するのだ」
「私の商会を使って、この山一帯の土地をダミー会社で買い占めましょう。有馬様のための、不可視の要塞を築くのです」
――ここに、異世界最強の英雄たちによる、有馬家周辺の「超・過保護ストーカー同盟」が正式に発足した。
彼らは決して閃の前に姿を現すことはない。
ただ、彼が買い出しに出た時、道端の小石を綺麗に片付けたり、特売の卵をこっそり道端に置いておいたりする、見えない妖精(重度のストーカー)へと成り下がっていくのだった。
「(……もうダメだこの人たち。完全に頭がおかしくなってるわ)」
アルウェンは、目を輝かせて「支部」の設立計画を話し合う英雄たちを見て、深々と溜息をついた。
「……はぁ。やっぱり、まともにあいつの隣を歩けるのは、私しかいないみたいね」
アルウェンは茂みから一人立ち上がると、道場の中で「受け身の練習1000回」を命じられ、半泣きで転がり回っている最強のサムライに向かって、呆れたように、けれど少しだけ柔らかい声で呟いた。
「……明日も、スーパーの案内してあげるから。死なないようにしなさいよ、バカ」
その言葉は、誰の耳にも届かない。
だが、二つの世界を繋ぐ門は、今日も静かに開き続けている。
最強で、最弱で、最高に勘違いされた有馬閃の日常(魔境)は、これからもずっと続いていくのだ。




