第18話:神話の魔法は「通せんぼ」ではありません
第18話:神話の魔法は「通せんぼ」ではありません
空が、幾重もの禍々しい魔法陣で埋め尽くされていた。
次元の亀裂から這い出た真の邪神が、己に刃を向けようとするちっぽけな人間――有馬 閃をこの世から完全に消し去るため、神話級の絶望を展開したのだ。
『――ギィィィルルルル……消えよ、塵芥。我が理の前に伏せ』
天が割れ、灼熱の隕石が降り注ぐ。
空間そのものがねじ曲がり、触れたものを虚無へと送る断層が発生する。
さらに、吸い込んだだけで魂を腐敗させる即死の呪霧が、荒野を漆黒に染め上げた。
「有馬殿ッ! 退いてください、あれは人間の耐えられる次元の魔力ではありません!」
「防壁を展開しろ! 少しでも彼の盾になるのだ!」
カイルやイザベラたち英雄が、絶望的な状況下にあっても、なお閃を庇おうと前に出る。
彼らの目には、閃が「自らの呪い(力)を解放し、我々を救おうと自己犠牲の道を選んだ悲劇の救世主」に映っていた。
だが、木刀を正眼に構えた閃の視線は、降り注ぐ神の魔法など全く見ていなかった。
彼の瞳に映っているのは、ただ「隣町のスーパー『オギノ』への最短ルート」のみ。
「(……ああもう、道が塞がって通れないじゃないですか! このままだと、お肉のタイムセールが終わって、母さんの『アルティメット・締め落とし』が確定してしまう……!)」
究極の死の恐怖(※実家のルール)が、閃の生存本能のタガを完全に外した。
「……すみません、急いでるんで! 道を、あけてください!!」
閃が、踏み込んだ。
有馬流古武術・歩法『縮地』。
そして、ユニークスキル【刹那の削り(タイム・トリミング)】。
普段は危険を回避するためだけに使っていた「0.1秒の削除」を、閃は自らの移動速度に乗せた。
ズンッ、と足元の石畳が粉々に砕け散る。
次の瞬間、閃の姿はブレて、三体に分裂したかのような残像を生み出した。
――ドゴォォォォンッ!
頭上から降り注ぐ炎の隕石。
閃はそれを見上げることもせず、ただ首を数ミリ傾け、肩をわずかに引くだけで、隕石の群れの「隙間」をすり抜けていく。
「(うわっ、熱い! でも、じいちゃんが『間食したな!』って怒り狂いながら背後から投げつけてくる超音速の湯呑みの乱れ打ちに比べれば、軌道が素直すぎて止まって見えます!)」
続いて、行く手を遮る空間の歪み(断層)。
踏み込めば体が真っ二つになる絶対の死地を前に、閃は軽くステップを踏んだ。
「(あ、ここ足場が悪いですね。実家の裏山の、熊が掘った落とし穴よりは分かりやすいですが)」
空間の断層を、水溜まりを避けるようにヒョイと跨ぎ越える。
最後に襲い来る即死の呪霧。
閃は、スゥッ……と息を深く吸い込み、有馬流の特殊な呼吸法(※親父が風呂場に爆竹を投げ込んでくる水遁の修行で培った無酸素運動)で完全に呼吸を停止し、霧の中を真っ直ぐに駆け抜けた。
魔法陣も、魔力防壁も一切使わない。
ただの『物理的な歩法と体捌き』だけで、神話の絶望を全て無傷で突破したのだ。
『ば、馬鹿な……!? 我が理を覆す絶望の力が、ただの物理的な移動、だと……!?』
邪神の無数の赤い眼球が、信じられないものを見たように見開かれる。
背後で見ていた英雄たちもまた、言葉を失い、完全に魂を抜かれていた。
「(……なんて美しく、無駄のない動きだ。あれこそが、絶対的な強者の『歩み』……!)」
カイルが、折れた剣を握りしめながら歓喜に震える。
「(私の夫に相応しい……いや、私ごときが隣に立つことすらおこがましい神域の舞……!)」
フレイアが、乙女のように頬を染めてひれ伏す。
「ごめんなさい、あと5分で別の店も閉まっちゃうんです! ちょっと急ぎますね!!」
閃の必死の叫び声(※ただのタイムリミット)が響く。
ついに邪神の懐、超至近距離まで到達した閃。
神話の怪物は、もはや魔法ではこの人間を止められないと悟り、天を突くほど巨大な腕(触手)を振り上げ、純粋な質量で閃を叩き潰そうとした。
『ギョェェェェェッ!! 潰れろ、羽虫ィィッ!』
音速を超えて振り下ろされる、ビルをも粉砕する一撃。
だが、閃は木刀を振るうことすらしなかった。
彼は木刀を腰に差したまま、振り下ろされる巨大な腕の『側面』へと滑り込むように身を沈めたのだ。
「(……母さんが言ってました。『自分より力が強い相手には、まともにぶつかるな。支点と作用点をずらして、関節の構造そのものを破壊しろ』って!)」
閃の両手が、邪神の巨大な触手の節(関節にあたる部分)にそっと添えられる。
そこへ、自身の体重と、相手が振り下ろした破壊力のベクトルを完璧に融合させた。
「有馬流・古武術――『柔の型・水月崩し』!」
――メキィィィィィッ!!
信じられない光景だった。
身長数メートルしかない人間の青年が、山のように巨大な邪神の腕を「合気」の要領で掴み、その巨大な質量ごと、荒野の地面へ向かって背負い投げのようにひっくり返したのだ。
『ギャ……アアアアアアアアッ!?』
ズドォォォォォォォンッ!!
大地が激しく隆起し、邪神の巨体が完全に仰向けになって叩きつけられる。
理解不能の痛みに悶絶する邪神。
その巨大な胸部(魔力核がある位置)の上に、閃はふわりと舞い降りていた。
「(これでトドメです! でも、殺生すると後片付けが面倒になるから、痛くしすぎないように……!)」
閃は、右の拳を邪神の胸部にピタリと密着させた。
引いて打つのではない。触れた状態から、内部の「核」だけに衝撃を浸透させる絶技。
「有馬流・寸当て――『響』」
パシッ。
およそ、神話の戦いの結末には似つかわしくない、乾いた小さな音が一つ、鳴った。
だが次の瞬間、邪神の巨体がビクンと大きく跳ね、その無数の赤い眼球から一斉に光が失われた。
外傷は一切ない。しかし、邪神の命の源である『魔力核』だけが、内部で完全に粉砕されていたのだ。
『…………』
白目を剥き(そもそも眼球しかないが)、口から泡を吹いて完全に沈黙する真の邪神。
戦闘開始から、わずか数十秒の出来事だった。
静まり返る荒野。
次元の亀裂から漏れ出していた有馬家の「気」も、邪神が倒れたことで空間が安定し、静かに収束していく。
英雄たちは、誰も声を発することができなかった。
彼らが命を賭して倒そうとした星の災厄を、この青年は「ただ急いでいるから」という理由(に見える圧倒的な威圧感)だけで、瞬きする間に無力化してしまったのだ。
「……奇跡だ。いや、彼こそが神だ」
カイルが、熱狂の涙を流しながら呟く。
「私たちのために、あれほどの呪いを解放して……ああっ、有馬閃……!」
イザベラが胸の前で手を組み、深い憐憫と愛情に身を震わせる。
「……私の檻など、おこがましい。私は彼の足跡に金貨を敷き詰める絨毯になりましょう」
シモンが、眼鏡の奥で狂気的な忠誠を誓う。
全員の心が、有馬閃という存在に完全に平伏し、クソデカい感情の矢印が一本に収束した瞬間だった。
しかし、当の神本人は、邪神の上から飛び降りると、愛車のママチャリを慌てて引き起こしていた。
「よかった、自転車は無事だ! ええと、今何分!? うわっ、あと3分しかない!!」
閃は、狂信の瞳で見つめてくる英雄たちに向かって、申し訳なさそうに頭を下げた。
「あの、皆さん! 色々とお騒がせしてすみませんでした! お肉が売り切れちゃうんで、僕、行きますね!」
キコキコキコキコッ!
閃は立ち漕ぎで、猛烈なスピードで荒野を駆け抜けていく。
その後ろ姿は、どう見ても「ただの買い物に急ぐ主婦(主夫)」にしか見えなかったが、英雄たちの目には「世界を救い、名も名乗らずに去っていく孤高の覇王」として焼き付いていた。
「……ちょっとおおおおお! 閃、私を置いていくなあああっ!」
ただ一人、すべてを理解しているアルウェンだけが、絶叫しながらママチャリの後を全力で追いかけていく。
「(違うわよ、こいつら! あいつ、マジでただ買い物急いでるだけだから! 神でも覇王でもなく、ただの実家の奴隷だからあああっ!)」
アルウェンの悲痛なツッコミは荒野の風に掻き消され、誰の耳にも届くことはなかった。
英雄たちの「解釈の余白」は、もはや後戻りできない次元へと突入してしまったのである。




