第17話:アマノパークスは「邪神の的」ではありません
第17話:アマノパークスは「邪神の的」ではありません
次元の亀裂から這い出た、星を喰らう真の邪神。
その巨体は天を覆い隠し、無数に蠢く赤い眼球が、地上に這いつくばるちっぽけな生命体たちを見下ろしていた。
『――ギィィィルルルル……脆き者どもよ。我が目覚めの産声を聞くがよい』
邪神は、準備運動とでも言うように、その巨大な口腔に極大の魔力を収束させた。
それは、伝説の大賢者が束になっても防げない『終焉の熱線』。
邪神は眼下にいる閃たちをあえて狙わず、遠く離れた王都の方向へと、その首を無造作に振った。
――カッ!!
閃光。
音すらも置き去りにする極太の熱線が、空を焼き切りながら王都の郊外へと着弾した。
狙われたのは、魔力濃度が最も高かった一帯。
奇しくもそこは、昨日シモンが閃を囲うために一晩で急造し、莫大な魔導防壁を張り巡らせていた巨大スーパー『あまのぱーくす』の所在地であった。
爆発音すらなく、ただ光が膨張し――『あまのぱーくす』は、防壁ごと分子レベルで完全に蒸発した。
「…………」
王都から離れた荒野で、その惨状を魔導眼で確認していたシモンは、力なく膝を突いた。
カラン、と手から金の算盤が滑り落ちる。
「……私の、築き上げた富が。彼を囲うはずだった、私の最高の檻が……たった一撃で、灰に……」
シモンの顔が、底知れぬ絶望に染まる。
国家予算レベルの結界すら紙切れのように消し飛ばす、理外の暴力。これが神話の邪神。人間の商人がどれほど策を弄しようとも、抗えるはずのない理不尽だった。
しかし。
シモン以上の、いや、この場にいる誰よりも深い「絶望」に叩き落とされている者が、約一名存在した。
「…………あ」
有馬 閃である。
彼は、熱線が放たれた瞬間、己の身よりも優先して前カゴの「エコバッグ」を胸の奥に抱え込んでいた。
だが、邪神の熱線がもたらした異常な高熱の波は、物質の表面を透過して『中身』を急激に加熱してしまっていた。
閃が、震える手でエコバッグの中を覗き込む。
そこに残っていたのは、パックごと黒焦げになった特売の卵(コカトリスの極上初生卵)の残骸と、完全に炭化した玉ねぎの炭だった。
パラ……と、風に吹かれて灰が飛んでいく。
エコバッグが、力なく手から滑り落ちた。
「……卵が」
閃の口から、魂の抜けたような声が漏れた。
「母さんに頼まれた、特売の卵と玉ねぎが……全部、灰に……」
閃の脳裏に、かつてないほど鮮明な死のビジョンがフラッシュバックした。
『あら、閃。頼んだおつかい、買ってこれなかったの? ……そう。じゃあ、罰として今日は徹夜でシャイニングウィザードの受け身練習ね。歯を食いしばりなさい』
笑顔の母。砕ける頸椎。鳴り響くゴング。
ザッ、と。
閃の周囲から、気配という気配が完全に消失した。
それは恐怖による硬直ではない。有馬流の奥義に至る直前の、極限の『無』。
いつも浮かべていた卑屈な愛想笑いは消え失せ、底なしの暗い淵のような、静かで純粋な『怒り』と『焦り』が、彼の肉体を支配していた。
その異様な変化に、いち早く気づいたのはシモンだった。
シモンは、閃が消滅した『あまのぱーくす』の方角を見つめたまま、静かに怒りを滾らせているのだと錯覚した。
「有馬様……?」
シモンは、震える声で呟いた。
この圧倒的な怪物が。次元の亀裂から漏れる圧にすら平然としていた彼が、たかが自分の店が一つ吹き飛ばされただけで、これほどの殺気を放っている?
「(まさか……私の浅ましい店のために、貴方が悲しんで……怒ってくれているのですか……!?)」
シモンの胸に、商人の計算など吹き飛ぶほどの、強烈な歓喜と熱情が突き刺さった。
これほど強大な存在が、自分の喪失を分かち合ってくれている。その歪んだ事実に、シモンは完全に心を掌握されてしまった。
勘違いを加速させたのは、シモンだけではない。
「有馬殿……。貴方のその悲痛な顔は、見たくない。ここは我らが……!」
カイルが、折れた剣を杖にして立ち上がろうとする。
「(なんという慈愛。邪神の攻撃で犠牲になったであろう民草のために、彼は涙しているのだ……!)」
イザベラが、閃の背中に聖女の如き祈りを捧げる。
「あの男に、あれほど悲しい顔をさせるとは……許さんぞ、邪神!」
フレイアが、自身の命も顧みず、再び大剣に紅蓮の炎を宿す。
英雄たちは、閃の「心(という名の買い出しパニック)」を守るため、捨て身の連携で邪神に立ち向かおうと陣形を組み直した。
「(ち、違うんです! 僕はただ、母さんの関節技から逃げる算段を高速でシミュレーションしてるだけなんです……!)」
閃は内心で絶叫していた。
腕時計の文字盤をチラリと見る。
現在時刻。隣町のスーパー『オギノ』の特売終了まで、残り7分。
「(……今すぐこいつを片付けて、全力で山を越えなければ、マジで殺される……!)」
極限状態に追い詰められた閃は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、これまで決して自分からは攻撃の意思を見せなかった彼が、初めて、腰に差した古びた木刀の柄に手をかけた。
スッ、と。
木刀が抜かれる。構えは、有馬流剣術・正眼。
その一挙手一投足に無駄は一切なく、ただそこにある空間ごと切り取られたかのような、異様な静寂が戦場を包み込んだ。
「……どいてください」
閃の声は、低く、冷たく、そして少しだけ震えていた(※急がないとスーパーが閉まるから)。
だが、その言葉を聞いた英雄たちは、彼がとうとう「自らを犠牲にして世界を救う覚悟」を決めたのだと受け取った。
「有馬殿……ッ!」
「(……私たちのために、自らの呪い(力)を解放するというのですか……!)」
邪神の無数の赤い目が、一斉に閃に向けられる。
神話の怪物が放つ、星を砕くほどの重圧。
だが、閃の瞳には、ただ「邪魔な通行人」しか映っていなかった。
「これ以上時間を無駄にすると、僕の命がないんです。……少し、急ぎますね」
有馬 閃が、異世界で初めて『本気(買い出しダッシュモード)』のスイッチを入れた瞬間だった。
その横で、ただ一人、すべての真実(おつかいの失敗)を理解しているアルウェンだけが、頭を抱えてしゃがみ込んでいた。
「(……もうやだこの男。邪神よりも、実家のお母さんの方が怖いってどういう神経してんのよ……!)」
最強のサムライによる、世界を救うための――否、夕飯の献立を死守するための戦いが、今、幕を開ける。




