第16話:親父の素振りは「冥界の呪縛」ではありません
第16話:親父の素振りは「冥界の呪縛」ではありません
空に走った漆黒の亀裂。
それはまるで、世界の天井という不可視のガラスが、外側から鈍器で叩き割られたかのような、あまりにも異様で暴力的な光景だった。
ピキッ、メキメキッ、と空間が軋む音と共に、亀裂は一気に広がる。
そこから漏れ出してきたのは、異世界の澄んだ魔力などではない。
重く、泥めいていて、それでいて一切の無駄がない、極限まで圧縮された純粋な「武の気配」だった。
『――おい、閃。買い出しが遅ぇぞ』
次元の向こう側から響いた、地響きのような低く太い声。
それを聞いた瞬間、先ほどまで「覇王の一喝」で両軍を平伏させていた有馬 閃は、愛車のママチャリごと地面に崩れ落ち、両手で頭を抱えてガタガタと震え出した。
「お、親父ぃぃぃぃぃっ!?」
閃の悲痛な絶叫が荒野に響き渡る。
だが、フレイア、イザベラ、カイル、シモン、そしてアルウェンたち「異世界の頂点」に立つ者たちの目には、その光景が全く別の意味を持って映っていた。
「(……なんという重圧だ。息が、できない……っ!)」
カイルは、白銀の軽鎧を軋ませながら、必死に顔を上げた。
空に穿たれた穴から溢れ出す瘴気(※ただの有馬家周辺の空気)は、そこにいるだけで屈強な騎士たちの戦意を根こそぎ刈り取っていく。
彼らは理解した。いや、致命的な『誤解』をした。
「(これが、有馬殿を縛る『呪い』の正体……。冥界の王か、あるいは星を食らう邪神の類いか。あの大軍勢を言葉一つで沈めた有馬殿が、赤子のように震え、怯えている……!)」
――ヒュンッ。
その時、次元の亀裂の奥で、ただ「空気を裂く」ような小さな音がした。
現実には、山梨県の太刀岡山の麓にある古びた道場の裏庭で、夕飯の玉ねぎを待ちわびて苛立った父・将が、日課の素振りを一本、少しだけ強めに振り下ろしただけである。
だが、数多の武術を極めた『拳聖』の苛立ちの籠もった素振りは、純粋な物理的衝撃波となって次元の壁を突き抜け、異世界の荒野へと殺到した。
ゴオォォォォォンッ!!
目に見えない巨大な大質量が、戦場のど真ん中を薙ぎ払った。
魔法陣もない。詠唱もない。魔力の光すら一切ない。
ただの『風圧』が、帝国が誇る二千の重装騎兵と、聖教国の聖騎士団の陣形を、まるで枯れ葉を散らすように吹き飛ばしたのだ。
「がはっ……!?」
「陣形が……崩れる……盾を、盾を構えろぉっ!」
重厚な盾が飴細工のようにひしゃげ、兵士たちが悲鳴を上げて宙を舞う。
一切の魔力防御をすり抜ける純物理の衝撃に、異世界の常識は完全に粉砕された。
「有馬殿……ッ! このような呪縛に、貴方はたった一人で耐え続けていたというのか……!」
カイルが、口の端から血を流しながら、膝をついた閃の前に立ちはだかるようにして叫んだ。
その瞳には、かつてない悲壮な決意と、己の命を賭してでもこの孤高の天才を守り抜くという、狂信的な庇護欲が燃え盛っていた。
「えっ!? 皆さん退いてください、親父の機嫌が悪い時の風圧は鎧ごと骨を持っていかれますよ!」
閃は本気で焦っていた。
親父の「遠当て(ただの素振りの余波)」は、直撃すればダンプカーに轢かれるのと同じだ。それを生身で受け止めようとする異世界の人々の優しさが、今はただ恐ろしかった。
「(ダメだ、早く僕がスーパーに行かないと、親父の素振りのペースが上がって、この辺り一帯が更地になってしまう……!)」
だが、閃の必死の叫びは、英雄たちの耳には『これ以上、私に関わって命を落とすな』という自己犠牲の悲鳴にしか聞こえていなかった。
「……させん。私の夫(予定)を、理不尽な死に引き渡すものか……!」
フレイアが、黄金の鎧を風圧で削られながらも、大剣を地面に突き立てて閃の前に陣取った。
バトルマニアの皇女の目から、初めて「他者を慈しむ」ような、悲痛なまでの愛情が溢れ出している。
「教会の法に背こうと……私は、貴方を救うと決めたのです!」
イザベラもまた、聖なる防壁を展開しながら閃の隣へと滑り込む。
普段は相容れないはずの帝国、聖教国、王国のトップたちが、たった一人の「怯える青年」を守るために、背中を預け合い、不可視の邪神(親父の素振り)に立ち向かおうとしているのだ。
「フッ……全く、割に合わない投資だ。ですが、私の『檻』に入る前に壊れられては困りますからね」
シモンすらも、懐から国宝級の魔導具を惜しげもなく取り出し、何重もの結界を閃の周囲に展開し始めた。
全員が満身創痍。
全員が、命を捨てる覚悟を決めている。
彼らより遥かに高みにいるはずの最強のサムライが、どうしようもない運命(理不尽)に膝を屈している。その圧倒的な「ギャップ」が、英雄たちの心に潜む庇護欲と執着を、限界まで暴走させていた。
「(う、うわああああ……! 違うんです、僕はただ、玉ねぎを買うのが遅れて怒られてるだけで!)」
閃は、自分を庇って円陣を組む英雄たちの背中を見上げながら、あまりの申し訳なさと居心地の悪さに、胃が捻切れそうになっていた。
「……おい、閃。あんた、ホントにどういう状況なのよこれ……」
唯一、閃の隣にへたり込んでいたアルウェンだけが、引きつった顔で空の亀裂を見上げていた。
「アルウェンさん! どうしよう、親父の二連撃が来ます! あれは結界とか関係なく、空間ごと圧縮して殴ってくるやつです!」
「はあ!? 空間ごと圧縮!? あんたの親父、何者よ!」
「ただの道場主です! でも、今日のおかずがハンバーグだから、すごく楽しみにしてたはずで……ああ、もう完全に僕のせいです!」
閃が頭を抱えてしゃがみ込む中、次元の亀裂がさらに大きく脈動し始めた。
有馬家の尋常ではない「気」が流れ込みすぎた結果、異世界の空間そのものが変質し始めたのだ。
ズゴゴゴゴゴォォォ……ッ!
荒野の大地が割れ、空気が腐臭を帯びていく。
親父の風圧とは違う。もっと粘着的で、この世界の理に属する悪意。
有馬家の圧倒的なエネルギーに当てられて、異世界の地底深く、数千年にわたって封印されていた『真の邪神』が、まさかの覚醒を果たし、次元の亀裂の前にその禍々しい巨体を現し始めたのである。
『――ギィィィルルルル……我は終焉。万物を喰らう者……』
空を覆うほどの巨大な触手と、無数の赤い眼球を持つ異形の神。
その顕現に、カイルもフレイアも、絶望に顔を蒼白にさせた。
「ば、馬鹿な……。伝説の『災厄の王』まで呼び寄せただと……! 有馬殿の背負う業は、これほどまでに重いのか……!」
「有馬殿! 逃げてください! ここは我らが盾になります!」
死を覚悟し、悲壮な叫びを上げる英雄たち。
だが、彼らが庇おうとしている閃の視線は、顕現した邪神になど、一ミリも向いていなかった。
閃の目は、左腕にはめられた腕時計のデジタル盤面に、完全に釘付けになっていたのだ。
「……あと、7分」
「閃……?」
アルウェンが、隣で呟く。
「……あと7分。ここから隣町の『オギノ』まで全力で走れば、ギリギリ、お肉の特売タイムに間に合う……」
世界が終わろうとしているその瞬間。
有馬閃の頭の中にあるのは、邪神の脅威でも、英雄たちの命でもなく、ただ『買い出しのタイムリミット』という、極めて庶民的で絶望的な事実だけであった。
「(……なんという男だ。邪神の顕現を前にして、刻限(世界を救うための魔力充填)を正確に測っているというのか……!)」
イザベラが、涙ぐみながらその横顔を見つめる。
絶望的なすれ違いを抱えたまま、実家のトラウマと、異世界の神話が、荒野のど真ん中で最悪の激突を果たそうとしていた。




