第15話:戦場のレディファーストは「求婚」ではありません
第15話:戦場のレディファーストは「求婚」ではありません
星霊の谷での野宿から一夜明け、王都へと続く街道を歩いていた有馬閃とアルウェンの前に、絶望的な光景が広がっていた。
街道を完全に封鎖するように布陣した、重装甲の軍勢。
陽光を反射してギラギラと輝く幾千の槍衾の先頭で、軍事帝国の皇女フレイアが、身の丈ほどもある大剣を肩に担いで不敵に笑っていた。
「――待ちわびたぞ、有馬 閃。やはりお前はここを通ったな」
「えっ? あの、フレイアさん? どうしてこんな所に大軍を……まさか、町内会の清掃活動ですか?」
「清掃活動だと? ハッ、相変わらず人を食った余裕だな! だが、今日こそお前を逃がさん。私を『殺す価値もない』と見逃したお前の傲慢さ、その底にある真の実力を暴き出し、私の国へ連れ帰る! 最強の駒……いや、私の『夫』としてな!」
フレイアの爆弾発言に、アルウェンが「はぁ!?」と素っ頓狂な声を上げる。
だが、閃の顔色は、別の意味で真っ青になっていた。
「お、夫!? いや、それ以前に、僕、女性と戦うなんて絶対に無理です!」
閃の脳裏に、恐るべき母・クリスティーナの教えがフラッシュバックする。
『いいこと、閃。女性を泣かせたり、手を上げたりするような真似をしたら……お前の頸椎から腰椎まで、レディファーストの精神を物理的に叩き直してあげるからね。笑顔で』
有馬家における「叩き直す」は比喩ではない。完全な骨折と再構築を意味する。
閃にとって、目の前の重武装した一国の大軍勢よりも、実家の母の『笑顔の制裁』の方が一万倍恐ろしかった。
「お願いですから、通してください! 僕、女性に手を上げたら母さんに殺されるんです!」
「ふん。私の命を弄ぶなと言っている! 本気を出せ、有馬 閃! 全軍、あの男を包囲しろ! 私の『超魔導剣・紅蓮隕星』で、その余裕を焼き尽くしてやる!」
フレイアの大剣に、太陽すら霞むほどの超高熱の魔力が収束していく。
そして、軍勢が一斉に閃へと襲いかかろうとした、その刹那。
「(……ダメだ。ここで少しでも『反撃の殺気』を見せたら、母さんの教えに背くことになる。……避ける! ひたすらに、避ける!!)」
生存本能が、極限まで研ぎ澄まされる。
ユニークスキル【刹那の削り(タイム・トリミング)】。
放たれたフレイアの必殺の広範囲魔導攻撃と、殺到する数千の兵の槍撃。
閃は、無駄な「0.1秒」を世界から削り落とし、その致死の嵐の中を『歩いた』。
――ヒュンッ! ゴウウウウウッ!
「な……っ!?」
フレイアの目の前で、信じられない光景が展開された。
閃は、大剣の炎を髪の毛一本焦がすことなくすり抜け、兵士たちの槍の隙間を、まるで最初からそこに道があったかのように優雅に、そして卑屈な前傾姿勢のまま通り抜けていく。
そして、閃が「避けるための最小限の歩法(縮地)」で踏み込んだ足の衝撃波が、突撃してきていた帝国軍の陣形を、ドミノ倒しのように崩壊させていった。
誰も傷つけていない。ただ、閃が「避けるついでに地面を踏んだ」余波だけで、精鋭部隊が次々とバランスを崩して気絶していくのだ。
「無理です! 叩かないでください! 僕の負けでいいですからあああっ!」
半泣きで叫びながら、瞬く間に軍勢の背後へと抜けていく閃。
フレイアは、崩れゆく自軍の陣形の中で、呆然と大剣を落とした。
「(……なぜ、私を打たない! これほど圧倒的な実力差があり、私の首などいつでも飛ばせたはずなのに……!)」
彼女の脳内で、とんでもない『解釈のズレ』が化学反応を起こす。
「(あの必死な形相……そうか。彼があれほど焦っていたのは、己の圧倒的な力が『私を傷つけてしまう』ことを恐れたからか……! なんという慈愛。なんという深き情……!)」
フレイアの頬が、カッと熱く染まる。
バトルマニアの皇女の胸に、かつてない強烈な乙女の恋の火種が着火した瞬間だった。
「……良い。その傲岸不遜でありながら、私を傷つけまいとする不器用な優しさ、ますます気に入った! お前を私の国の、唯一の王座に据えてやるぞ、有馬 閃!!」
「だから夫とか王座とか無理ですってば! 山梨に帰れなくなります!」
閃が頭を抱えて叫んだ、その時だった。
「――させませんよ、略奪者。彼は教会の、私の保護下にあります」
「――フレイア皇女。貴女の未熟な剣で、彼の本質に触れられるなどと自惚れないことだ」
「――おやおや。私の『最高の顧客』を、力ずくで囲い込もうとは野蛮な方々だ」
街道の左右から、まるで示し合わせたかのように次々と人影が現れた。
銀の法衣を纏った異端審問官・イザベラ。
静かな熱情を瞳に宿したエリート騎士・カイル。
そして、胡散臭い笑みを浮かべた魔道具商・シモン。
王都を代表する三つの勢力が、フレイアの軍勢を取り囲むように布陣したのだ。
「(う、うわあああっ! また厄介な人たちが集まってきた!)」
アルウェンは、あまりの地獄絵図に天を仰いだ。
五人の強烈な執着が交錯し、閃という「解釈の余白」を巡る、三つ巴ならぬ五つ巴の争奪戦が、今まさに勃発しようとしている。
「彼は、誰にも言えない過酷な呪い(実家のトラウマ)を抱えている。私が癒やさねばならないのです!」(イザベラ)
「いいや、彼の底知れぬ孤独を埋められるのは、同じ高みを目指す私の刃だけだ!」(カイル)
「彼は私の商館の、最も美しく無軌道な檻に相応しい」(シモン)
「黙れ有象無象! 彼の慈愛(ただの回避)を受けたのは私だ!」(フレイア)
「……あんたたち、全員一回頭冷やしなさいよ!!」(アルウェン)
一触即発。
巨大な魔力と殺気がぶつかり合い、街道の空気がビリビリとひび割れそうになった、その時。
当の閃は、腕時計を見て、血の気を引かせていた。
「……あ、あと10分」
「閃? どうしたのよ?」
「昨日……昨日買いそびれた、玉ねぎと特売の肉……。あそこなら、絶対に売ってるはずだ……!」
閃の視界の端が、極度の焦りで歪む。
彼にとって、目の前の英雄たちの睨み合いなど、どうでもよかった。
問題は、今日の夕飯の買い出しに遅れれば、あの地獄の実家ルール「時間厳守」の恐怖が、なぜか時空を超えて自分を襲ってくるような、根源的な焦燥感。
閃は、空間バグ(迷子転移)のドサクサで取り出していた現世の愛車――前カゴ付きのママチャリに跨がると、渾身の力でペダルを立ち漕ぎし始めた。
「えっ!? ちょっと有馬殿!?」
「どこへ行く気だ!?」
驚愕する英雄たちを置き去りに、閃は戦場のど真ん中を猛スピードで突っ切りながら、心の底からのパニックを声に乗せて絶叫した。
「すみません! 業務スーパーのタイムセールに遅れるので、道をあけてくださいぃぃぃっ!!」
その悲痛な叫びは、またしても有馬流の呼吸法によって増幅され、大気を震わせる「覇王の一喝」となって荒野に轟いた。
ズドォォォォンッ!!
声の波動だけで、両軍の兵士はおろか、イザベラやフレイアすらも足をもつれさせ、その場に平伏させられる。
「(な、なんだこの威光は……! 我らのちっぽけな争いなど、彼にとっては『ぎょうむすーぱー』なる神の儀式に比べれば、塵芥に等しいと……!?)」
全員が、その圧倒的な器の違いに戦慄し、完全にひれ伏した。
しかし。
覇王の一喝(ただの泣き言)が響き渡った直後。
閃の極度の「焦り」と「混乱」が限界を突破し、この異世界の空間そのものが、耐えきれずにピキッ、とガラスのような音を立てて亀裂を生じた。
空に、巨大な黒い歪みが発生する。
異世界の澄んだ空気を押し潰すように、現世――山梨県甲斐市の、あの古びた道場の強烈な「気」が、次元を越えて漏れ出してきたのだ。
「な……なんだ、あの次元の亀裂は……!?」
「空が、割れている……!?」
フレイアたち英雄が、未知の恐怖に息を呑む。
キコキコとペダルを漕いでいた閃も、その異常な気配に気づき、自転車のブレーキを握りしめて急停止した。
彼の顔は、今度こそ、比喩抜きで真っ白に染まっていた。
亀裂の向こう側から、地響きのような、低く、重く、鼓膜ではなく魂を直接揺らすような声が響き渡ったのだ。
『――おい、閃。買い出しが遅ぇぞ』
「お、親父ぃぃぃぃぃっ!?」
世界を平伏させる無自覚な覇王が、たった一言の声に腰を抜かし、ママチャリと共にその場に崩れ落ちた。
異世界の絶望が「そよ風」に過ぎない理由。
有馬家という、真の魔境の扉が、今、天国のような異世界に向けて開かれようとしていた。




