第14話:世界樹の枝は「ただの薪」ではありません
第14話:世界樹の枝は「ただの薪」ではありません
視界を埋め尽くすのは、淡く青い発光を帯びた幻想的な樹木の群れだった。
空には満天の星が輝いているが、木々の放つ光脈がそれ以上の明るさで周囲を照らし出している。
「……ねえ、閃」
「なんですかアルウェンさん。なんだかこの森、イルミネーションみたいで綺麗ですね」
「綺麗ですね、じゃないわよ! あんた、ここがどこだか分かって言ってるの!?」
銀髪を振り乱し、アルウェンは絶叫した。
二人は今、王都のギルドへ向かっていたはずだった。しかし、先頭を歩く閃が「近道です。僕の内なるコンパスがそう告げています」と自信満々に獣道を曲がってから数時間。
たどり着いたのは、地図はおろか、エルフの伝承にすら「禁域」として記されている未踏の秘境――『星霊の谷』であった。
「おかしいですね……。感覚的には、もう王都の門が見えてもいい頃合いなんですが」
「あんたのそのポンコツコンパス、一回粉々に砕いて捨てなさい! ここはね、数千年間誰も足を踏み入れたことがない神域よ! 魔力濃度が高すぎて、普通の人間なら呼吸しただけで肺が破裂するわ!」
「えっ、そうなんですか? どうりで少し、空気が美味しいというか……山梨の太刀岡山の山頂付近の澄んだ空気に似ていると思いました」
神域の瘴気を「マイナスイオン」程度に処理している閃に、アルウェンは深い溜息をついた。
この男の常識に付き合っていると、自分が長寿のハイエルフであることを忘れてしまいそうになる。
「……もう夜よ。これ以上闇雲に歩いても遭難するだけだわ。今日はここで野宿するわよ」
「そうですね。じゃあ、僕が火を起こすための薪を拾ってきます。冷えると、関節の動きが0.2秒遅れて致命傷になりますからね」
「(……誰に命を狙われてるのよ……)」
アルウェンの冷ややかな視線を背に受けながら、閃は軽快な足取りで森の奥へと消えていった。
数分後。
ガサガサと茂みを揺らし、閃が両手いっぱいに「枯れ枝」を抱えて戻ってきた。
「アルウェンさん、いい枝がいっぱい落ちてました! これで暖が取れますよ」
「そう。じゃあ、そこに組んで……って、ちょっと待ちなさい」
アルウェンの目が、閃の抱えている枝に釘付けになった。
それは、ただの木ではない。樹皮は白金のように輝き、内部には脈打つように金色の魔力が流れている。枝の先端からは、微かに神聖な光の粉が零れ落ちていた。
「……閃。あんた、それ、どこで拾ったの?」
「え? あそこの大きな木の下に落ちてたのを拾って、少し長かったので手で折ってきました。乾燥してて、よく燃えそうです」
バキッ。
閃は、何気ない動作で、手元にあった太い枝を膝で二つに叩き折った。
「ヒッ……!?」
アルウェンの喉から、悲鳴とも呼べない音が漏れる。
――世界樹の枝。
神々の時代から生き続ける星の心臓であり、その枝一本で大国の王城が買えるほどの国宝級聖遺物。ミスリル以上の硬度を持ち、大魔導師の魔法ですら傷一つつけられない絶対の物質。
それを、この男は「薪割り」のノリで、素手でへし折ったのだ。
「(……この男の筋力、どうなってるの!? 物理法則を腕力で無視したわよ今!)」
「あ、アルウェンさんも折りますか? 結構硬いんで、コツがいりますよ。重心を真ん中に集めて、テコの原理で一気に力を――」
「いらない! 触りたくない! というか、それで火をつける気!? 罰が当たるわよ!」
「え? でも、夜は冷えますし。それに、途中で美味しそうなキノコも見つけたんですよ」
閃はそう言うと、手早く世界樹の枝(国宝)を井桁に組み、火打石でカチカチと火を起こし始めた。
神聖なる世界樹を燃やした炎は、煙一つ出さず、清らかで温かい金色の光を放って二人を包み込んだ。
パチ、パチ、と。
静かな森に、贅沢すぎる薪が爆ぜる音が響く。
アルウェンは、あまりの光景にツッコミを放棄し、力なく倒木の上に腰を下ろした。
向かい側では、閃が世界樹の炎で、丁寧に串刺しにしたキノコを炙っている。
「……はぁ。本当に、あんたの非常識には呆れるわ」
「すみません。いつも僕の方向音痴に付き合わせてしまって……」
閃は、手元のキノコから視線を外し、揺らめく金色の炎をじっと見つめた。
その横顔には、昼間の卑屈さや慌ただしさはなく、どこか遠くを懐かしむような、静かな色が浮かんでいた。
「……でも、アルウェンさんが隣にいてくれて、本当に助かっています」
「ふん。私がいないと、あんたは一生スーパーにたどり着けないからね」
「そうですね。……なんだか、少し前のことを思い出します」
閃の口調が、ふっと柔らかくなった。
アルウェンは何も言わず、炎の向こうの青年に耳を傾けた。
「自動車の免許……向こうの『鉄の馬』の操縦資格を取り立ての頃、実家の山奥で、ひどく道に迷ったことがあったんです」
閃の瞳に、懐かしい光が宿る。
「助手席には、じいちゃんが乗っていました。いつもなら、僕の動作がコンマ一秒でも遅れれば、容赦なく竹刀を振るってくる厳しい人です。僕は『絶対に殺される』と思って、冷や汗をかきながら必死に道を探しました」
――また、あの狂った魔境(実家)の話か。
アルウェンは身構えたが、閃から紡がれた言葉は、彼女の予想とは違うものだった。
「でも、その時だけは……じいちゃんは一言も怒らずに、助手席でずっと黙っていてくれたんです。僕が道を間違えても、行き止まりにぶつかっても、何も言わずに……ただ、僕と『道に迷う時間』を共有してくれました」
パチッ、と炎が跳ねる。
閃は、照れくさそうにアルウェンを見て、ふわりと笑った。
「今のアルウェンさんみたいに、文句を言いながらでも、見捨てずに隣にいてくれる人がいると……なんだか、すごく安心するんです。あの時のじいちゃんとの沈黙みたいに、温かいなって」
「…………」
アルウェンは、息を呑んだ。
言葉の裏に隠された、この男の「本質」の一端に触れた気がしたからだ。
――暴力と規律だけで支配された、異常な実家。
その過酷な地獄の中で、彼は「ただ黙って隣にいてくれるだけの時間」を、奇跡のような救いとして心に刻み込んでいる。
「(……あんた、時々、世界に一人きりみたいな顔をするわね。エルフの寿命より長い孤独を、その身に焼き付けられているみたいに)」
強さゆえの孤高ではない。
あまりにも理不尽な環境で生き抜くために、他者に期待することを諦め、すべてを「自分の修行不足」として飲み込んできた男の、深い、深い諦観。
彼にとって、この異世界でのトラブルなど、実家に比べれば本当に「そよ風」なのだろう。
だが、その強靭な肉体と技術の裏側にある魂は、道に迷うたびに、誰かが隣にいてくれる温もりを、無意識に渇望しているのだ。
「……あんたって、本当にバカね」
アルウェンは、ぽつりと呟いた。
それは軽蔑ではなく、ひどく不器用な生き物を見つめるような、名前のつかない感情だった。
「えっ!? 僕、また何か怒られるようなことを……」
「いいから、そのキノコ早く裏返しなさいよ。焦げてるわよ」
「ああっ、本当だ! しまった、修行不足がこんなところに……!」
慌てて串を回す閃を見て、アルウェンは小さく息を吐き、膝を抱えた。
恋愛感情のような、甘いものではない。
ただ、この圧倒的に強くて、絶望的に脆い怪物を、自分以外の誰かに案内させる気には、もうなれなかった。
「……ま、あんたのその絶望的な方向音痴が治るまでは、私が隣にいてあげるわよ。私がいなきゃ、明日には魔王の寝室にでも突撃しかねないからね」
「本当ですか!? ありがとうございます、アルウェンさん! これで明日のタイムセールこそ、絶対に間に合いますね!」
「(……一生、治りそうにないわね、これは)」
アルウェンは、世界樹の炎に照らされながら、誰にも見えないように微かに口角を上げた。
明言されない信頼。
決して深くは踏み込まないまま、ただ隣で歩幅を合わせる距離感。
交わらないはずの二つの運命は、夜の森の余白の中で、確かに一つの形を結んでいた。
「……アルウェンさん、キノコ焼けましたよ。食べますか?」
「食べるわよ。世界樹の炎で焼いたキノコなんて、バチ当たりすぎて歴史書に載るレベルだけどね」
最強の迷子と、それを見守るエルフ。
二人の奇妙な野宿の夜は、静かに、そして穏やかに更けていくのだった。




