第13話:背中の傷は「邪神の聖痕」ではありません
第13話:背中の傷は「邪神の聖痕」ではありません
聖教国の迎賓館が誇る、白大理石の大浴場。
有馬 閃は、湯船の縁に頭を乗せ、極上の安らぎの中にいた。
「……はぁ。なんて素晴らしいお湯なんでしょう。薪を割らなくてもいいし、お湯の温度も一定だなんて」
閃にとって、実家での入浴は、常に命がけのサバイバルだった。
親父が「水遁の術の抜き打ちテストだ!」と湯船の底から突如として奇襲をかけてきたり、じいちゃんが「精神の弛みは死を招く」と脱衣所の外から木刀の素振りによるカマイタチを飛ばしてきたりするのだ。
それに比べれば、この異世界の浴場は、まさに楽園そのものだった。
「……さて、あまり長湯すると、また『時間を無駄にするな』って母さんに絞め落とされちゃいそうですから、そろそろ上がりますか」
ここは異世界だと頭では分かっていても、体に染み付いたトラウマは簡単には抜けない。
閃は手早く体を拭き、備え付けのふかふかなタオルを腰に巻いて、脱衣所へと足を踏み出した。
その時だった。
「――有馬。新しい衣服を持ってきた。ギルドから預かったものだが……」
脱衣所の豪奢な扉が開き、銀髪の異端審問官・イザベラが姿を見せた。
彼女は、王宮庭園でのカイルとの「夜の補習(決闘)」を終えて戻ってきた閃を案じ、自ら替えの衣服を届けに来たのだ。
「あ、イザベラさん。すみません、わざわざ……」
閃が振り返ろうとした、その瞬間。
イザベラの手から、抱えていた衣服がバサリと床に落ちた。
「…………ッ」
彼女の紅い瞳が、極限まで見開かれる。
声にならない絶句。喉の奥で、ヒュッと空気が引き攣る音がした。
彼女の視線の先――閃の背中には、およそ人間が正気で正視できるものではない、凄惨な「歴史」が刻み込まれていたのだ。
斜めに走る無数のミミズ腫れ。
皮膚の下で複雑に絡み合う、赤黒い鬱血の痕。
関節の周囲に意図的に刻まれたかのような、幾何学的な痣の集合体。
それはまるで、魔界の拷問器具で数万回にわたり肉体を破壊され、その度に無理やり再生させられたかのような、地獄の曼荼羅だった。
「(……なんという、ことだ……!)」
イザベラは、全身の血が凍るのを感じた。
審問官として、数々の異端の儀式や魔物の呪いを見てきた彼女の目にも、閃の背中に刻まれた傷は「異常」の二文字では済まなかった。
「(これが……彼の強さの代償。これほどまでの深い『聖痕(呪い)』を肉体に刻み込まれなければ、あの神域の力は得られなかったというのか。……どれほどの激痛と、絶望の夜を越えてきたのだ、この男は……!)」
イザベラの目には、閃の背中の傷が、彼を支配する『邪神(実家の家族)』が無理やり刻み込んだ、呪縛の刻印にしか見えなかった。
「あ、見えちゃいました?」
閃は、恥ずかしそうに頭を掻きながら振り返った。
「お見苦しいものをお見せしてすみません。これ、本当に痛いんですよ。毎日毎日、やれって言われて……。逃げ出そうとしたこともあったんですけど、すぐに見つかって関節を外されるので、もう諦めて受け入れるしかなくて」
――逃げ出そうとしたが、関節を外されて連れ戻された。
その言葉が、イザベラの胸を鋭利な刃で抉った。
カイルとの決闘で見せたあの絶対的な強者が、何者かに自由を奪われ、文字通り手足を砕かれて飼いならされていたという事実。
「……なぜだ」
イザベラは、震える声で絞り出した。
「なぜ、貴方がそれほどまでに……理不尽な苦痛を、たった一人で背負わなければならない。貴方ほどの力があれば、その『教団(実家)』を滅ぼすことすら……」
「滅ぼすなんて無理ですよ!」
閃は本気で怯えた顔をした。
「母さん一人にすら、僕は指一本触れられません。いつも僕ばっかり的標にされて……。だから、少しでも隙をなくすしかなかったんです。生き残るために」
――彼だけが『生贄』として選ばれ、死の淵で生き残るためだけに、あの悲しい技(刹那の削り)を身につけた。
イザベラの中で、閃の過去が完全に「悲劇の神話」として完成してしまった。
彼女は、ゆっくりと閃に近づいた。
その顔には、普段の冷徹な審問官の面影はない。ただ、一人の傷ついた青年を前にした、深い憐憫と、そして禁忌に触れるような背徳の熱が浮かんでいた。
「……イザベラさん?」
「動かないでください」
背後から、ひんやりとした彼女の指先が、閃の肩甲骨にある大きな痣(※数日前に親父から受けた裏拳の痕)にそっと触れた。
ビクッ、と閃の体が大きく跳ねる。
「あ、すみません。そこ、まだ痛みが引いてなくて……」
怯えるように身を縮める閃。
その様子が、イザベラの心にある「何か」を完全に破壊した。
「(……ああ。私は、神の法を司る身でありながら……この呪われた異端者を、誰よりも愛おしいと思ってしまっている)」
彼女は、閃の背中に顔を寄せるようにして、静かに、しかし絶対の決意を込めて囁いた。
「……もう、いいのです」
「え?」
「もう、語らなくていい。貴方がこれまでどれほどの地獄を歩んできたか……この傷が、全てを物語っています。……神が貴方を救わないというのなら、私が救う。教会の教義に背き、異端に堕ちようとも、私が貴方の『枷』を断ち切ってみせる……」
それは、聖教国のトップ審問官が、自らの信仰を捨て、一人の青年に絶対の忠誠と執着を誓った瞬間だった。
「……枷? いや、ただの打撲と擦り傷なんですが……。でも、イザベラさんは本当に優しいですね。実家じゃ、怪我をしても『気合で治せ』の一言で終わりでしたから。心配してくれる人がいるって、すごく心が温かくなります」
閃が純粋な笑顔で振り返る。
その屈託のない無防備な表情に、イザベラは胸を締め付けられ、目を伏せた。
「(……この笑顔を、二度とあの邪神には渡さない。たとえ、彼が私の手を払いのけようとも……!)」
明言されない信頼。
言葉にされない、痛切なまでのすれ違い。
有馬閃という巨大な「解釈の余白」に、また一人、取り返しのつかないほどの重い執着を抱える者が生まれてしまった。
「あ、それより着替えていいですか? さすがに下着一枚で長話は、ちょっと冷えますし」
「……っ! 失礼しました……! 私は外で待っていますから!」
真っ赤になって逃げるように脱衣所を飛び出していくイザベラを見送りながら、閃はのんきに首を傾げていた。
「……異世界の人って、本当に親身になって話を聞いてくれますね。やっぱり、ここは天国です」
支給されたシルクの最高級下着の肌触りに感動しながら、閃の夜は、今日も平和に(周囲の解釈だけを絶望的に狂わせながら)更けていくのだった。




