第0話「刺されない」
羽音が、近い。
右の頬。左の耳元。肩。指先。数えきれない蜂が、私の周りを飛んでいる。
怖くないのか、と聞かれたら正直に答える。怖くない。
だってこの子たちは刺すつもりがない。羽の振動が穏やかで、偵察のリズム。「あんた誰?」って確認しているだけ。
――懐かしい。
私の名前はシャルロッテ・ヴァイゲル。五日前まで伯爵令嬢だった。王太子殿下の婚約者で将来の王妃候補だったのに、「横暴な令嬢」として断罪され、辺境に追放された。
馬車で三日。降ろされたのは野原と森ばかりの場所。護衛は「ここです」とだけ告げて去り、私は着替えとわずかな路銀を握って立ち尽くした。
で、立ち尽くしていたら蜂に囲まれた。
普通の令嬢なら悲鳴を上げる場面だろう。でも私の足は動かなかった。
――動くな。息を整えろ。ゆっくり呼吸しろ。
前世の記憶。今の私はシャルロッテ。けれど前世は、養蜂場を営む家の娘だった。物心つく前から蜂に囲まれて育ち、羽音で機嫌を読み、素手で巣枠を持つことを覚えた。蜂に刺された記憶は前世を含めても片手で足りる。
その体質は転生しても変わらなかったらしい。
一匹の蜂が指先にとまった。小さな脚の感触がくすぐったい。産毛のような体毛。体温のない、でも冷たくもない小さな体。
「……よしよし。怖くないでしょう?」
風が吹いた。甘い花の匂い。クローバーかアカシアか。辺境の野原は花盛りで、蜜源には困らなさそう。
蜂が飛んできた方向に目をやると、丘の中腹に木の箱が並んでいる。巣箱が六つ。どれも傾いていて、放置されて随分経つのが遠目にもわかる。
――誰かが、ここで養蜂をしていた。
蜂を空に返し、丘へ向かう。追放の身で行くあてもなく、路銀は半月持たない。でも前世の技術ならある。
丘を上ると花の香りが濃くなっていく。最初の巣箱の蓋を開けて中を覗く。巣枠は残っていて、蜂たちが整然と歩いている。
「あなたたち、自力でここまで維持してたの」
王宮にいた頃は毎日が戦場だった。言葉を選び表情を作り、断罪の日も泣かなかった。
でも今、ぼろぼろの巣箱の前で蜂を眺めていたら、なんだか泣きそうになる。
――泣くのは後。まずこの巣箱を直さなきゃ。
深呼吸。花の匂いが肺の奥まで染みて、少し元気になる。
ここが、私の新しい暮らしの始まりらしい。
――ところで残り五つも全部こんな状態なんだろうか。




