4-3.衝突
ぶれない瞳が、桜介を射貫く。桜介は賢志郎を睨みつけた。
「僕を騙したんですね」
「人聞きの悪いことを言うなよ。俺はただ『気が変わった』って言っただけだ。どう解釈するかはあんた次第だろ」
「まったく……きみの減らず口は出逢った頃から少しも変わりませんね」
「よくよく失礼な人だな、あんたは。俺は事実を口にしてるだけだぜ?」
「その辺にしておくといい」
桜介は右手を腰の後ろに素早く回してなにかを掴み、賢志郎の眼前に腕を伸ばした。
「たとえきみでも、僕の邪魔をすることは許さない」
一丁の拳銃が、賢志郎の額に向けて構えられた。賢志郎は一瞬たじろぐも、すぐに肩の力を抜いて両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「いいのか? それ、警察で支給されるあんた専用の銃だろ? 使ったらあんたの犯行だって一発でバレちまうんじゃねえの」
「構いません。すべてのことが終わったら、僕も命を絶ちますから」
そうだろうなと、賢志郎はほとんど確信を持って思っていた。
桜介のこの十年間は姉の復讐のためだけにあった。それを完遂してしまえば、この先の人生を生きていく理由が彼にはなくなる。自死を選ぼうとすることは容易に想像できた。
だからこそ、と賢志郎は思う。
彼には誰も殺させたくなかった。犯人である粟野はもとより、彼自身のことさえも。
「なぁ、硲さん」
「はい」
「ちょっとだけ、俺の話をしていいか? ものすごく恥ずかしい話なんだけど」
桜介は返事をしなかった。それを肯定と受け取り、賢志郎は語り始めた。
「あんたも知ってるとおり、俺とあゆは幼馴染みだ。誕生日は二日違いで、生まれた病院も同じ。家も隣で、母親同士は歳が近くて友達みたいな感じ。俺には兄貴がひとりいるけど、六つも年上なせいでほとんど一緒に遊んだ記憶がない。俺にとっては兄貴より、あゆと過ごした時間のほうが長かったんだ」
もうずっと見ていない、杏由美の笑顔が脳裏を過る。あの頃のように、もう一度あゆに笑ってほしい――ただその一心で、賢志郎はここまで来た。
「毎日毎日一緒にいて、喧嘩だって何度もしたよ。そんな日々を過ごすうちに、あゆはいつの間にか、俺の考えてることを読めるようになってた。俺がどんな気持ちでいて、体調がどうで、なにをしようとしているのか。言葉にしなくても、あゆは俺のことをほとんど正確に理解してくれた。背中を押してくれることもあるし、間違っていれば止めてくれることもある。兄貴や母さんなんかより、あゆに言われる一言のほうがハッとすることが多くてさ。こいつには一生敵わないなって、本気でそう思ってる」
でも、と賢志郎は眉尻を下げた。
「俺にはわからねえんだ、あゆの考えてることが。いや、わかることもあるよ。そりゃあ毎日一緒にいれば、行動や思考のパターンなんて嫌でも見えてくるさ。けど、俺はいつだって、肝心な時にあゆの気持ちがわからない。男ってきっとバカなんだよな。相手に寄り添っているつもりでいて、実はただ自分が見栄を張りたいだけだったりさ。もっと根本的な問題で、俺ら男よりも、女子のほうが相手の気持ちの変化に敏感だったりするのかもな。とにかく、俺はいつも大事なところで間違える。あゆのことになればなおさらだ。周りが見えなくなって、間違ったほうに走っていても自力では気づけない。あゆに手を引かれるまで、俺はバカ正直に、間違った思考を信じ続けちまう。あゆのためを思って動いていたつもりでも、実はあゆは全然喜んでなんていなかった、とかさ。そんなことばっかりで」
桜介は口を挟むことなく、銃を構えたまま賢志郎の話に耳を傾けていた。賢志郎はがしがしとやや乱暴に頭をかく。
「俺とあゆは、きょうだいでもなんでもない。ただの幼馴染みだ。それでもあゆは、俺の気持ちを察してくれる。誰よりも正しく、俺のことを理解してくれる。硲さん……咲良さんも、生きていた頃はあゆみたいに、あんたのことをよく理解してくれてたんじゃない?」
桜介の眉がわずかに動く。銃を握る手に力が入った。
「俺たちとは違って、あんたと咲良さんは血を分け合った姉弟だ。あゆに俺の気持ちがわかって、あんたたちが気持ちを分かり合えないはずがない。特にあんたは、咲良さんのことを大切に思ってた。咲良さんだってきっと、あんたのことを誰よりも大切に思ってたはずだ。そんな咲良さんが、あんたに復讐をさせたいなんて願うと思うか?」
桜介が眼鏡の奥の瞳を揺らす。少しは響いているようだとわかり、賢志郎は懸命に言葉を紡ぐ。
「瀧沢ゆかりさんのお母さんが言ってたよ。犯人のことを殺したい、けど、ゆかりがそれを許さないだろうって。俺、それ聞いてすげー納得したんだ。確かに、犯人を憎んだり恨んだりする気持ちって、遺された人みんなが持つ感情だけど、それを復讐という形で犯人に向けてしまうことを、被害に遭った人たちは誰ひとり望んでいないのかもしれないなって」
杏由美は言った。犯人なんて捕まえてくれなくていいと。そんなことよりも、もっと大切なことがあるはずだと、杏由美は言外にそう伝えたかったのではないか。
今の賢志郎は、冷静にそう判断することができる。杏由美の想いを、正確に推し量ることができる。
「咲良さんだって同じだよ。あんたが復讐に手を染めることなんてきっと望んでない。犯人が見つかったなら、素直に罪を認めさせて、償いの時間を与えてやる。それが咲良さんの願いなんじゃねえのかな」
「黙れ!」
乾いた銃声が響き渡る。桜介は腕を横に伸ばし、壁に向かって銃を放った。
「わかったような口を利くな」
うつむき、低く出した声で桜介は言う。賢志郎は目を見開く。
「きみは咲良を知らない。咲良がなにを思っているかなんて、きみにわかるはずがない!」
「あぁ、そうさ。本当のところなんて俺にはさっぱりわかんねえよ。けどあんたにはそれがわかるだろって言ってんだ!」
「わかりますよ! 咲良は復讐を望んでる!」
「あんた……それ本気で言ってんのか」
「当たり前じゃないですか! 僕はいつだって本気ですよ!」
「いい加減にしろよ!」
賢志郎が声を張り上げた。
「復讐は咲良さんの望みじゃない! あんたの願望だ!」
「違う!」
「違わねえ!」
銃声。
今度は賢志郎の足もと目がけて、桜介は銃の引き金を引いた。
「きみこそ、いい加減にしてください」
桜介は腕を持ち上げ、賢志郎の顔に銃口を向ける。
「次は頭を撃ち抜きますよ」
賢志郎は揺らがなかった。もとより覚悟は決まっている。
やるべきことはただひとつ。この人の手を引いて、踏みとどまらせることだけだ。
「硲さん」
落ち着いた口調で賢志郎は言った。
「あんたたち、双子なんだろ。生まれた時から……いや、生まれる前からずっと、あんたと咲良さんは同じ時間を過ごしてきたんだ。目の前にその姿がなくても、声が聞こえてこなくても、それでもあんたたちは、互いに互いの思っていることがわかる。手を触れることも叶わない、遠く遠く離れたところにいたとしても、咲良さんはきっと、あんたのことを理解してる。あんたは気遣いのできる人だ。咲良さんもそうだったんだろうと思う。だとすれば、答えはひとつだ。もしもこの場に咲良さんがいたら、迷わずあんたの手を引いて、復讐なんて、って叱るよ。あんたが自分のことを思うばかりに復讐に走ってしまうことを、あんたをよく知る咲良さんには十分想像できることだと思う。姉として、最愛の弟のためにできること……咲良さんにとってのそれは、あんたの凶行を止めることだ」
桜介は歯を食いしばった。本当は彼にも、そんなことはとうに理解できていたんだろうなと、賢志郎は胸に細い針が刺さるような痛みを覚えた。
「なぁ、硲さん。あんたと咲良さんは、血を分けた姉弟だ。俺とあゆなんかよりもずっと深いところでつながってる。咲良さんにあんたのことが理解できて、あんたに咲良さんの気持ちがわからないはずがない。胸に手を当てて訊いてみろよ。きっと答えてくれるはずだぜ? あんたがこの世で一番大切に思っていた人の、心からの声が」
銃を握る桜介の右手がガタガタと震え出した。怒りか、悔しさか。あるいはまったく別の感情か。
「……だったら」
顔を上げることなく、桜介は声を絞り出す。
「だったら僕は、この気持ちをどこにぶつければいいんですか」
「あん? そんなこと俺にはわかんねえよ」
「わからない!?」
怒りに満ち満ちた目で、桜介は賢志郎をキッと睨む。
「じゃあきみは、僕にどうしろと言うんです!? このどす黒い感情をずっと抱えたままでいろってことですか!」
「仕方ないだろ! 怒りに任せて相手を傷つけてたんじゃ、あんたのやってることは結局この人と同じってことになっちまうじゃねえか!」
賢志郎は後ろ手に粟野を指さす。
「自分で自分を制御できなかったらなにをしてもいいのか? 違うだろ! 今あんたがやろうとしてるのはそういうことだよ! やり場のない感情に振り回されて、殺す必要のない人を殺して……あんたのそうした行動が許されるなら、この人の罪だって許されることになっちまうんだぞ!」
桜介は賢志郎の肩越しに粟野を見た。背を向けている賢志郎には粟野の表情が窺えない。今彼は、どんな目をして桜介を見ているのだろう。そんなことをちらりと思ったが、振り返ることなく桜介に言葉を投げかけ続ける。
「あんた、この前言ったよな? 正当な理由があるのなら、人を殺してもいいんだって。なぁ、あんたのいう〝正当な理由〟ってなんだ? 三人の命を奪ったことか? だったらこの人が咲良さんを殺したのだって、お姉さんから受けた暴力の恐怖から逃れるためだったわけだろ? それがこの人にとって〝正当な理由〟でない根拠はどこにある? ないだろ。そういうことだよ。あんたもこの人も、屁理屈で自己を正当化して、それが絶対的な正しさだと信じてる。同じだよ、ふたりとも」
桜介の歯噛みする音が聞こえた。ぐらぐらと瞳が揺れている。
硲さん、と賢志郎は今一度桜介の名を呼んだ。
「もうやめよう。この人を傷つけたら、同時にあんただって傷つくことになるんだ。俺だってこの人のやったことは許せないし、許す必要だってないと思う。だけど……俺たちにできることは、この人に罪を認めさせて、きちんと償わせることだけなんだよ」
な? と賢志郎は幼子を諭すような柔らかな表情で桜介を見た。桜介はまだ納得できないでいるのか、なかなか銃を下ろそうとしない。
ゆっくりと、賢志郎は桜介に歩み寄る。桜介が銃を構え直す。
賢志郎は止まらない。恐怖心は少しもなかった。一歩ずつ、確実に桜介との距離を詰めていく。
やがて賢志郎は、桜介の握る銃に自らの手を伸ばした。そっと銃身に手を重ね、軽く下向きに力を加えて銃口を下げる。ようやく彼の手から引き剥がすと、桜介はうつむいて吐息を揺らした。
はじめて手にした拳銃に、賢志郎は想像以上の重さを覚えて驚いた。ナイフのように放り投げては暴発するかもしれないと思い、優しく地面の上に置く。
その時、遠くから扉の開く音がした。
賢志郎と桜介は、誰だとばかりに扉へと目を向ける。するとそこへ、思いがけない人物が姿を現した。
「あゆ……!」
賢志郎は目を見開いた。
開かれた扉に手をかけていたのは、今にも泣き出しそうな顔をした杏由美だった。
「おまえ……どうして……!」
賢志郎は杏由美に駆け寄ろうとするも、突然の出来事に足がうまく動かない。そうしている間に、杏由美が一歩踏み出した。
その瞳には賢志郎ではなく、粟野の姿が映っていた。自分を襲った男だけをただひたすらに見つめ、杏由美は毅然とした様子で地を踏みしめる。
彼女の足もとで舞い立つ塵を、窓から差し込む陽の光が照らし出す。きらきらと白く輝くそれは、まるで季節外れに降る雪のよう。
やがて杏由美は、賢志郎の隣に立った。その視線はやはり、粟野だけに注がれている。
「許さない」
杏由美の口から、声が漏れた。
「私はあなたを、許さない」
どんな刃よりも鋭く、冷たく、杏由美の紡いだ一言は、粟野の胸を貫いた。その声はひどくかすれ、しかしこの広い空間に響かせるには十分な音を奏でていた。
およそ四ヶ月ぶりに聞く杏由美の声に、賢志郎は一瞬息の仕方を忘れ、吸い込まれるように杏由美を見つめた。瞳からあふれた涙が頬へ、静かに伝い落ちていく。
再び沈黙が降り、ピンと張り詰めた部屋の中で、粟野が唐突に笑い声を上げた。
「キツいな、さすがに」
粟野はうなだれ、大きく息を吐き出した。
「こんなことなら、さっさと桜介に殺されていたほうがマシだったよ」
真っ白な粟野の顔に、涙の川が流れ出す。
「おれが死ねばよかったんだ」
粟野のひとりごとがこぼれ落ちる。
「誰かを殺してしまう前に。おれが、姉貴に殺されていれば」
絶望に瞳を揺らし、粟野は神に縋るかのように桜介を見上げる。
「殺してくれ、桜介」
桜介が目を見開く。かすかに震わせた杏由美の肩を、賢志郎は咄嗟に抱き寄せる。
「桜介じゃなくてもいい……誰でもいいから、早くおれを殺してくれ」
頼むから、と粟野は泣きながら訴えた。
断末魔の叫びのように、粟野の繰り返す「殺してくれ」が、部屋中をいつまでも、いつまでもこだましていた。




