1.ひとりじゃない
賢志郎の腕の中で、杏由美はもう一言だけ言葉を紡いだ。
「ありがとう、ケンちゃん」
暗闇を照らす絶対的なまぶしさを湛え、杏由美は大きく笑っていた。
一点の曇りもない彼女の笑顔に、賢志郎は涙した。
普段の声とはほど遠く、吐息ばかりの苦しそうな響き。けれど賢志郎にとって、これ以上ない幸福が確かに感じられる声だった。
「よかった」
賢志郎は杏由美のからだを抱きしめた。ずっとこらえてきた涙を惜しみなく流し、「本当によかった」と、何度も何度もつぶやきながら。
桜介の手によって、粟野誠は硲咲良・瀧沢ゆかり・小橋真奈に対する殺人容疑、および三船杏由美への傷害容疑で逮捕された。のちに粟野の自宅への家宅捜索が行われ、第四の被害者・小橋真奈の遺体から盗まれたと思われる聖ベルナール女子高校の制服のリボンが、鋏で細かく切り刻まれた状態でゴミ箱から発見された。汐馬署の取調室で改めて罪を認めた粟野の供述によると、過去に自分の首を絞めたリボンを跡形もなく消し去ることで、心の平穏を保っていたそうだ。
粟野逮捕の翌日、賢志郎と杏由美は警察での調書作成に協力すべく、放課後、ふたりで左座名署を訪れた。桜介と面識があるという年配で優しそうなベテラン風の刑事が対応してくれたので、「硲さんはどうしていますか」と尋ねたが、「さぁ、粟野の聴取にかかりきりなんじゃないかな」と明確な回答は得られなかった。
杏由美は声を出せるようになったものの、これまでのようななめらかな発声をおこなえるようになるには専門医による治療とリハビリが必要で、一週間から十日ほどの時間が必要だろうということだった。そのため刑事からの質問には賢志郎が主に答え、杏由美は必要に応じて筆談で対応した。
精神的にも肉体的にもすっかり疲れ果ててしまった賢志郎は、土日をほとんどベッドの上で過ごした。
仰向けに寝転がり、ぼんやりと天井を眺める。抜け殻のようになりながら、いろいろなことを考えた。
事件のこと。杏由美のこと。粟野のこと。桜介のこと。
それから、自分自身のこと。
事件は無事に解決した。桜介の双子の姉・咲良が命がけで残した証拠が、粟野の送検・起訴の決め手になるだろう。
もうなにひとつ、不安に思うことなどないはずだ。あとは粟野がきちんと罪と向き合って、償いの時を過ごしてくれればそれでいい。
なのに。
顔の前に持ち上げた右手を、細くした目でじっと見つめる。
どうしてこの手は、今でもまだ震えているのだろう。
俺は一体、なにに怯えているのだろう。
時は日曜の午後。あと半日もすれば、いつものように高校へ向かうことになる。
事件が解決してしまった以上、もう言い訳は通用しない。
ずっと目を背け続けてきた問題と、今度こそ向き合わなければならない。
額の上に腕を乗せる。大きなため息がこぼれ出た。
どうか明日が来ませんようにと、賢志郎は生まれてはじめて、いるかどうかもわからない天の神様に希った。
沈んだ気持ちのまま月曜の朝を迎え、賢志郎は鉛のように重いからだを引きずって学校へ行く準備をした。この四ヶ月間使っていた黒いリュックではなく、『SAZANA WEST BASKETBALL CLUB』と金糸で大きく刺繍された白いエナメルバッグに荷物を詰める。
体育館の使用は各部活によるローテーション制で、今日は男子バスケ部・女子バレー部ともに朝練がない。賢志郎が三船家のインターホンを押すと、すぐに杏由美が姿を現した。
「おはよ」
片手を上げて挨拶する。杏由美も嬉しそうに笑って手を振った。
「おはよ!」
休日のうちにだいぶ声が出せるようになったらしく、杏由美は迷いなく賢志郎に挨拶した。その姿が嬉しくて、賢志郎の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
すると杏由美が、ひょいと賢志郎の背中を覗き見た。
「部活、行くの?」
短く問われた。目がきらきらと輝いている。
「うん、行くよ」
一瞬だけためらって、賢志郎はそう答えた。
「休む理由がないし」
精一杯なんでもない風で肩をすくめてみせたけれど、杏由美はやや表情を曇らせて「そっか」と言った。
「賢志郎」
午後三時十五分。帰りのホームルームの終わりを告げるチャイムとほとんど同時に、貴義がE組の教室まで賢志郎のことを迎えにきた。「おう」と答え、賢志郎は荷物を提げて教室を出る。エナメルってこんなに重かったっけ、と賢志郎は思った。
体育館へ向かうまで、貴義も賢志郎も言葉を発することはなかった。階段を下り、一階の渡り廊下を南へ二つ渡ると、正面に体育館の入り口が見えてくる。しかしまっすぐ体育館へ行くのではなく、左へ折れ、着替えのために一旦体育館脇に設置されている男子クラブハウスへ立ち寄るのが、放課後、賢志郎たちがたどるいつものルートだ。
ふたつめの渡り廊下を渡り終えた。目の前には、体育館の扉が見えている。
ぴたり、と賢志郎の足が止まった。あと五歩も進めば左に抜けられ、クラブハウス内の部室までは三十秒とかからない。
――行かなきゃ。
頭ではわかっているのに、足がまるで動かなかった。打ちつけられた杭のように、地面から生えている大木のように、賢志郎はその場から、一歩たりとも動けない。
「賢志郎」
先を歩いていた貴義が振り返る。その顔を、賢志郎は見上げることができなかった。
全身から汗が噴き出す。次第に呼吸が浅くなる。
眩暈がした。反射的に目を瞑ると、四ヶ月前の光景が蘇った。
「おい」
貴義の右手が肩に触れる。
「大丈夫か」
はっと我に返った賢志郎。顎から汗が滴り落ちる。
「ダメだ、貴義」
必死に絞り出した声が、弱々しく震えていた。
「足が動かねえ」
あまりにも情けなくて、乾いた笑いさえ込み上げてくる。
声を立てて笑い出した賢志郎を、貴義は黙って見つめた。運動部員たちが忙しなく行き交う中、ふたりの間に異様な空気が流れる。
やがて貴義は、賢志郎の肩に置いていた手をそっと離した。
「三船から聞いてる」
唐突に飛び出した杏由美の名に、賢志郎は顔を上げた。
「おまえが部活に戻らないのは、行かないんじゃなくて、行けないんだろうって」
賢志郎は目を瞠った。
――マジかよ。
あゆのヤツ、そこまで見抜いてたってのか。
賢志郎は右手で顔の半分を覆った。貴義が話を続ける。
「『今朝も様子がおかしかったから、気を遣ってあげてほしい。笹岡くんの言うことなら、ケンちゃんはきっと聞くはずだから』だってさ。あの三船に頼まれたんじゃあ、悪いがオレには断れねえ」
右の手を腰に当て、貴義はまっすぐ賢志郎を見つめて言った。
「全部話せ、賢志郎。おまえがオレに話したかったこと、全部」
決して広くない渡り廊下。向かい合うふたりの横を、体育館へ向かう生徒たちが次々と通り過ぎていく。
動悸が治まらなかった。息苦しくて、立っていることさえつらくなってきた。
貴義はじっと黙って、賢志郎の言葉を待った。賢志郎が口を開くまで、その場を動くつもりはないようだった。
放課後の喧噪。立ち上る運動部員たちの熱気。
少し前まで、体育館こそ賢志郎の居場所だった。ここに来ることをなによりも楽しみにして、毎日学校へかよっていた。
大好きなバスケに明け暮れた日々を、遠く懐かしくなんて思いたくない。
――戻りたい。
拳を握り、賢志郎は重い口をゆっくりと開いた。
「怖いんだ」
貴義の眉がかすかに動く。
「あの日からずっと、公園で見たあゆの姿が頭から離れない。血まみれで、真っ青な顔してて。部活が終わって、家に帰ろうと思ったら、またどこかであゆが誰かに襲われてるんじゃないかって……そう思ったら、どうしようもなく怖くなるんだ。部活に行ったら、あゆがひどい目に遭わされる。また俺は、血に染まるあゆを抱きかかえることになるんだって……そんなことばっかり、考えちまって」
息苦しさに、賢志郎は胸もとをきつく握りしめる。込み上げてくる吐き気を抑えるのに必死だった。
「ただの妄想だって、悪い夢を見てるだけだって、そんなことはわかってる。けど、部活に行こうとすると足が動かなくなるんだ。自分の力じゃ、どうしたって動かせない。あの日からずっとそうだった。そのうち部活のことを考えるだけで頭痛がするようになって……。だから退部届を書いた。こんな状態じゃ、みんなに迷惑をかけるだけだから。辞めたくなんてなかったけど、戻れないなら辞めるしかない……そう思った」
苦しかった。杏由美に自分の状態が伝わることが怖くて、これまで誰にも話せなかった。つらいのは杏由美なのだから、自分がこんな風ではいけないと、そんなことも考えた。
だが、こうして苦しい気持ちを吐露したことで、ほんの少しだけ楽になれたような気がした。ほっとしたら、途端に涙があふれてくる。
「辞めたくねえ」
大粒の涙が、コンクリートの床を濡らす。
「辞めたくなんてねえんだよ、本当は、全然。なのに……なのに、足がまるっきり言うことを聞かねえ。なんでだよ……もう事件は解決してるってのに。あゆだって、ちゃんと笑えるようになったってのに。なんで俺だけ? どうして俺だけが、あの日に囚われたままなんだよ……!」
なんで、と繰り返しながら、賢志郎は涙を拭う。小さくなったその姿を、貴義は黙って見つめている。
「助けてくれ」
涙声で、賢志郎は親友に縋る。
「助けてくれ、貴義……俺、バスケ部に戻りたいよ」
顔を上げると、貴義と視線が重なった。憐れむでもなく、蔑むでもなく、貴義は毅然とした態度で賢志郎と向き合っている。
降りる沈黙。見つめ合うふたりの空間だけ、時が止まっているようだった。
「バカだな、おまえ」
やがて、貴義は静かに言った。
「なんでもっと早く打ち明けてくれなかったんだよ。それこそ退部届を出した時にとか、言えるチャンスなんていくらでもあっただろうが」
賢志郎は首を振る。
「言えなかったんだ、あゆに知られたくなくて」
「ったく……どこまでバカなんだおまえは。おまえが話そうが黙ってようが、どっちにしたって三船にはバレることだろ、いつもどおり。そう、いつもどおりだ」
貴義が頭をかきながら息をつく。
「くそ、女子ってなんでそういうとこに敏感なんだろうな。夕梨もそうだ。あいつも余計なことばっかり気がつきやがる」
賢志郎は思わず苦笑した。
「だよな。マジで意味わかんねえ」
ごしごしとやや乱暴に涙を拭う。
貴義の言うとおりだ。こっちはまるで気づかないのに、向こうはこっちのことを骨の髄まで理解している。まったくもって、女子というのは摩訶不思議な生き物だと、賢志郎は改めて思った。
「賢志郎」
貴義に呼ばれ、賢志郎は顔を上げる。
「オレだって、おまえには辞めてほしくねえよ。だから退部届も受理してもらわなかった。まぁそれはおまえにもわかってることだろうからいいとして、おまえにはもうひとつ、大事なことを理解してもらわねえと困る」
すると。
貴義の声に合わせるかのように、男子バスケ部のメンバーが次々と姿を現した。
二年生十一名、一年生十名。女子マネージャー二名。貴義を先頭に、計二十三名の部員たちが、ずらりと賢志郎の前に集まった。
「おまえに辞めてほしくないと思ってるのはオレだけじゃない。ここにいるバスケ部全員、おまえが戻ってくるのをずっと待ってる。六月のあの日から、ずっと」
賢志郎は目を見開いた。この粋な計らいが貴義の手によるものであると理解するまで、二秒とかからなかった。
「大丈夫だ」
貴義は高らかに言った。
「怖いのは当たり前。おまえはオレらには到底理解できない、とんでもねえ経験をしてんだ。とはいえ、いつまでもビビったままってわけにもいかねえ。染みついた恐怖を取り除くには、怖くない、部活に出たってもうなんの事件も起こらないってことを、頭に叩きこんでやればいい。上書きするんだ、大丈夫なんだってことを。いいか、賢志郎……三船はもう、誰にも襲われたりしない」
だろ? と貴義は問う。賢志郎はうつむき、うまく答えられずにいる。
「大丈夫だ」
もう一度、貴義は同じ言葉を繰り返した。
「オレがいる。みんなだっているんだ。つらくなったら、いつでも頼ってくれていい。怖いなら怖いって正直に言え。誰も笑ったりしねえし、そんなヤツは即退部だ」
顔を上げた賢志郎に、貴義は凜々しく言った。
「戻ってこい、賢志郎」
胸を張って、貴義は大きく笑う。
「ひとりじゃろくに歩けねえってんなら、オレらが背中を支えてやるよ!」
貴義が言い終えるのを待たず、二年生がわっと駆け出し、賢志郎を囲むように集まった。一年生も輪の外でわいわい元気に騒いでいる。
「ほら、行くよ賢志郎っ!」
「おまえがいないとイマイチ練習が締まらねえんだ」
「川畑先輩ー、いつになったらおれのシュート練習に付き合ってくれるんすかー」
「あ、オレもうまい相手の抜き方教えてほしいっす!」
仲間たちからのあたたかい歓迎の声に包まれ、いつの間にか賢志郎は、一歩足を踏み出していた。驚く暇さえ与えられず、クラブハウスに向かってずんずん前に進んでいる。
「ばーか、いつまでも泣いてんじゃねえよ」
ぽん、と貴義の大きな右手が賢志郎の頭に乗せられる。
「休んでた四ヶ月分、オレがきっちりしごいてやるから覚悟しとけ」
知らないうちに涙でいっぱいになっていた顔を、賢志郎は恥ずかしげもなく上げて笑った。
「臨むところだ」
迷いのない、力強い返事をもらい、貴義も歯を見せて嬉しそうに笑った。たくさんの笑顔の花が、クラブハウスに吸い込まれていく。
ひとりでは叶わなかった願いが、多くの愛と勇気に支えられ、今、ひとつの形になった。
深まる秋の空の下。今日という日が、四ヶ月前の悪夢を乗り越えるにふさわしい一日になったことを、頭上に輝く太陽が祝福してくれているようだった。




