66.よくぞ戻ってきた
枕元で私の手を握り、名前を呼び続けてくれていたアデルハイドさんは、夢ではなく、本当にテナリオから戻ってきてくれていた。
それなのに、今度もまた夢かと思い込み、夢なら自分の思い通りの展開になるんじゃないかって、チューまで期待して目を閉じたりしてた自分の馬鹿さ加減に、情けなさ過ぎて眩暈がする。
「リナ様、しっかりなさってください」
悲鳴のようなハンナさんの声で、呆然自失状態から我に返る。
さっきまで自分でも驚くほど動けていた身体からは、すっかり力が抜けてしまっている。ぐったりとベッドに座り込んでいる私を、侍女さん達が元のように寝かせようとしていた。抗う力どころか気力の欠片も失せた私は、大人しくされるがままベッドの住人に戻る。
……馬鹿馬鹿馬鹿。私の馬鹿。なんであれが現実だって気付かなかったんだろう。確かに、目覚めたばかりで頭はまだはっきりしていなかったけれど、声も、触れられる感覚も、あんなにリアルだったのに。
せめて、エドワルド様とか誰かに「アデルハイドさんの夢を見た」とかさり気なく喋っていたら、それは夢じゃないよって教えてもらえたのに。そうしたら、もしかしたらアデルハイドさんがテナリオに帰ってしまう前に、呼び止めてもらえていたかも知れない。
自己嫌悪と後悔に塗れながら、掛布に潜り込むようにして滲み出て来た涙をそっと拭っていると、不意に誰かが掛布の上に手を置くような圧を感じた。
「リナ」
掠れたように力ないその声に、掛布の縁から視線を向けると、リザヴェント様が萎れた顔でこちらを見下ろしていた。……そんな表情でもお美しいなんて反則です、リザヴェント様。
「すまない。私はてっきり、お前達はすでに感動の再会を果たしたとばかり思い込んでいた。……そうだ、今からまたアフラディア城塞へ行って、あの男を連れてくる。待っていてくれ」
えっ、と思う間もなくそう言い残して踵を返したリザヴェント様だったけれど、一歩踏み出すと同時にふらりとよろめいて、さっきまで自分が座っていた椅子の背に縋り付いた。
「リザヴェント!」
「ど、どうされました? お気を確かに!」
ファリス様とハンナさんが駆け寄って倒れそうになっているリザヴェント様を支え、そのまま椅子に腰を下ろさせた。
「大丈夫ですか?」
突然のことに驚いて体を起こしながら問いかけると、リザヴェント様は閉じていた目を薄く開き、青褪めた顔に痛々しい笑顔を浮かべた。
「少しふらついただけだ。この程度のこと、何でもない……」
「何でもない訳がないでしょう」
エドワルド様がリザヴェント様の説得力に欠ける返答を一蹴し、憤慨したように腰に手を当てた。
「その症状、魔力切れですね。聞いていますよ、テナリオで魔王軍相手に規模の大きな魔法を連発したとか。こちらに戻ってきてからも、休む間もなく魔導師達を指揮していただけではなく、自ら移動魔法を使ってあちこち飛び回っていたそうではないですか。いくら天才魔導師と言われるあなたでも、無茶のし過ぎですよ」
冷静な指摘を受けたリザヴェント様のやつれた顔に、反抗期の子供のような表情が浮かんだ。
「これしきのこと、何でもない」
「何でもないようには見えませんよ。どうしてもと言うのなら、他の魔導師にでも命じて……」
「いや。他の者ではあの男を動かせまい。やはり私が行かねば」
支えるように腕を掴んでいたファリス様の手を振りほどくと、リザヴェント様は椅子から立ち上がった。
「無理をするな」
「大丈夫だ。離せ」
慌てて抑えつけようとするファリス様に抵抗しているリザヴェント様だけれど、その動きはやっぱり普段とは違って緩慢に見える。体の具合は相当良くないに違いない。
魔力切れを起こしたらどんな症状が出てどれほど辛いか、私にも経験があるから分かる。
酷い時には命に関わるから決して無理をしてはいけないと最初に教えてくれたのは他でもないリザヴェント様だ。なのに、その限界を超えてまでテナリオへ行こうとしている。それほどアデルハイドさんをテナリオへ戻らせたことに罪悪感を覚えているんだろうか。そんなに私がショックを受けていると思ったのかな。……思ったんだろうなぁ、あんなに取り乱してしまったんだから。
でも、私の我儘の為にリザヴェント様の命を危険に晒す訳にはいかない。
「リザヴェント様。もういいですから」
ベッドから身を乗り出し、聞こえるように出来るだけ大きな声を出してリザヴェント様を引き止める。
すると、私の声が耳に入ったのかリザヴェント様は不意に動きを止めた。ホッとしたのも束の間、振り返ったリザヴェント様の顔に浮かんだぞくりとするような笑みに、思わず自分の顔が引き攣るのが分かった。
「……リナはいつもそうやって、他人の為に自分の願望を抑えつける」
「え……?」
「私はもう、嫌なのだ。やるべきことをやらずに、後で後悔するのは……!」
「リザヴェント。そうだったのか、お前がそこまで言うなら……」
リザヴェント様の熱の籠った主張に心打たれたように、ファリス様が引き留めていた手を解く。
……っていうか、意味わかんないですから! やるべきことって、何も命を掛けてまでやることじゃないでしょう!? 何故そこであなたも納得するんですか、ファリス様! 行かしちゃ駄目ですってば!
「止めてください! 本当にいいですから!」
慌ててベッドから降りようとすると、何故か私がハンナさんに押さえつけられる。
「リナ様、動かれてはいけません!」
「ちょっ、私じゃなくて、リザヴェント様を止めてください! エドワルド様も笑ってないでリザヴェント様を止めて!」
あんな状態でテナリオまで移動魔法を使ったら、本当にリザヴェント様が死んでしまうじゃないか!
「まあいいんじゃない? 行かせてあげれば。どうせ途中で誰かに止められるだろうし……」
エドワルド様があきれ果てたような半笑いを浮かべつつ、よろめきながらドアへ向かって歩いて行くリザヴェント様の背を見送りながらそう言い掛けた時、部屋のドアが開いて煌びやかな方々がやってきた。
「騒がしいな。何事だ、これは」
「まったく、お前というやつは……」
呆れたように呟きながら、さっきから陛下は笑い続けていた。
私の見舞いにわざわざお越しくださったクラウディオ陛下は、室内の騒然とした状態に怒りを爆発させた。室内は一気に緊張感に包まれ、陛下の背後から現れたジュリオス様が冷静に事の成り行きを聞き取った。その結果、リザヴェント様はテナリオ行きの禁止と明日までの休養、その後は魔導室長としての職務に専念するよう言い渡された。
そして、陛下の命令を受けたファリス様がリザヴェント様を自室に連行していった後、椅子に腰を下ろした陛下は、いきなり思い出したように大爆笑し、今もその笑いが収まっていない。
「あれほど心配を掛けたくせに、目を覚ました直後から笑わせてくれる。リザヴェントの尽力でようやく会えた想い人を、夢だと思っていたとはな」
「…………ううぅっ」
これまで陛下にお掛けしてしまったご迷惑を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。けれど、それ以上に改めて傷口に塩を塗り込まれ、おまけにこんなに笑われるなんて頭にくる。けれど、事実なだけに返す言葉が出て来ない。その上、さっきの騒動で忘れかけていたショックが蘇ってきて涙が溢れ出てきた。
すると、ようやく笑いを収めた陛下が呆れたように溜息を吐いた。
「泣くな。魔法回廊はこれから本格運用が始まるのだ。これからは好きな時に好きなだけあの男に会いに行けばいいだろう」
「……ふぇ?」
魔法回廊って?
目を瞬かせながらハンナさんが差し出してくれた布で涙と鼻水を拭う。
「魔法回廊は少ない魔力で人や物資を大量に移送できる、所謂魔導装置だ。リザヴェント曰く、お前の魔力ではテナリオまで行くには足りぬらしい。だから一人で好き勝手にという訳にはいかぬだろうが、物資の搬送時に頼んで共についていけばいい話だろう」
……へぇ。そんな便利なものができたんだ。全然知らなかった。
「そう、だったんですか」
テナリオへ行ける。好きな時にアデルハイドさんへ会いに行ける。
突然聞かされたまるで夢のような話に、じわじわと喜びが湧きあがってくる。夢じゃないか、こっそり掛布の下で自分の手の甲を抓ってみた。……痛いから、夢じゃないよね?
「嬉しいか?」
「はい」
改めて陛下に向き直って頷くと、男の人にしては白くて繊細な手がポンと頭に乗せられた。
「よくぞ戻ってきた」
「……陛下ぁ」
強い光を湛えたサファイアブルーの瞳を正面から見つめると、一瞬止まっていた涙がまた溢れ出てきた。私、本当に誘拐犯から逃れて、あの樹海を抜けてグランライトに戻って来られたんだ。そんな実感が改めて湧いてくる。
「ご、ご心配をおがげじまじだ……」
「全くだ。第一、誰一人味方もおらぬ状況で、敵国内で逃亡を図る奴があるか。私が『神の涙』をお前に与えていなかったらどうなっていたと思っているのだ」
「申し訳ございません……」
「まったく。こうやって助かったからいいものの、一歩間違えれば命を落としていたのだからな。分かっているのか?」
頭に載せた手で頭をグリグリ撫でながら、陛下は説教を続け、私はその間ひたすら泣き続けた。陛下は厳しい口調だったけれど、私の事をとても心配してくれていたんだってことは伝わってくる。
「……あ。陛下。これをお返しいたします」
ようやく落ち着いてくると、着ている寝間着の胸元で輝いているブローチに手を伸ばした。
なんで寝間着に陛下からお預かりしていた御守りのブローチなんかつけているんだろうって、目が覚めてからずっと不思議だったんだよね。寝ている時に装飾品を付けていると、寝返りを打った時にピンが外れて刺さったりしたら大変だし。ちょうどいいから、無くさないうちに早々に陛下へお返ししておこう。
けれど、胸元からブローチを外そうとした私の手を、陛下の手が上から押さえた。
「それはお前が持っていろ」
「え?」
「それはな、我が国に古から伝わる秘宝、『神の涙』だ」
「ひ……」
……ひ、秘宝って、ええええっーー!!
さっきから陛下が『神の涙』を云々とおっしゃってたけど、よく意味が分からないまま聞き流していた私は、驚きのあまり目を剥いた。
何で、何でそんな大事なものを私に渡すんですかっ。っていうか、私、フェルゼナットの村で危うくこれで馬を買うところだったんですよっ!? 馬買っちゃってたらどーすんですかっ!!
「だ、駄目、駄目です、そんな大事なもの私にっ……!」
いらないから、そんな国宝級な代物。もし無くしでもしたら大変なことだから!
「いや。これはリナが持っておくべきものだ」
ワタワタしながらブローチを外そうとする私の両手首を陛下が掴んで引き剥がす。
「……え?」
「リナが樹海から王城へ転移魔法で移った直後、樹海に魔物が溢れるように湧いた。調べたところ、どうやら魔物が増えたというよりは、お前が樹海の中にいる間、極端に魔物の出現数が減っていたようなのだ」
「この、秘宝のお蔭で……?」
二人して、私の胸元で輝くブローチを見つめる。乳白色に虹彩を湛えた石は、改めてみると神秘的な力を秘めているように思える。
「恐らくそうだろう。その『神の涙』の加護があったからこそ、ギリギリのところでお前の命は救われた。私はそう思っている」
……そうなんだ。
しみじみとブローチを見つめ、ふと視線を上げた瞬間、まるで陛下に押し倒されているような体勢になっていることに気付いた。同時に陛下もそう思われたらしく、慌てて私の両手首を話すと、顔を赤くしながら咳払いをした。
「ともかく、それはお前が持っていろ。今後、その『神の涙』が持つ力について調査を行う予定だが、その際にはお前にも協力してもらうことになる」
それはつまり、今後も私のことを必要としてくれているってことだ。
よし、早く動けるようにならなきゃ。その為にも、食べて寝て、エドワルド様の苦ーいお薬もちゃんと飲んで、リハビリも頑張らないとね。
アデルハイドさんのことは確かに物凄くショックだったけれど、魔法回廊っていう便利な物もできていつでも会いに行けるそうだし、いつまでも落ち込んでなんかいられない。