第2話 エンス伯爵邸にて
この地を治めるエンス伯爵とその家族は、美しい白壁と青い屋根を持つ、小さな城に住んでいる。
アレクは立派な門を堂々とくぐり、敷地に入った。
そのまま前庭を通り過ぎ、玄関へ。門番も使用人も、誰もアレクを止めはしない。それどころか「お帰りなさいませ」と恭しく頭を下げてくれる。
(ここが実家だなんて、いつもながら恐れ多いよなぁ)
アレクは幼い頃に孤児となったのだが、幸運にも前エンス伯に保護されて養子となり、独り立ちするまで伯爵邸の離れに住まわせてもらっていた。
家を出て随分と経つのに、離れには未だ自室が残されており、自由な出入りが許されている。
家族のみに許された二階へと上がり、そのまま居間へ。
豊かな紅茶の香りが満ちる室内に足を踏み入れれば、当主を除く伯爵家の人々と、師が寛いでいた。
「ただいま戻りました」
到着を告げると、皆が「おかえりなさい」と迎えてくれる。控えていた侍女に土産を預け、アレクは先ず師の下へ向かった。
「お師様、遅くなり申し訳ありません」
遅参を詫びるアレクに、彼は皺だらけの目元をやさしく細める。
「わしが早く着きすぎたんじゃよ。すまんのぉ、先にお茶とお菓子をいただいておった。イルゼ様のクッキーは、相変わらず絶品じゃな」
澄んだ瞳を持つ老人は、敬愛してやまない師のロドリグだ。
矍鑠としているが、寄る年波には勝てないようで、彼は数か月前に引退を宣告している。アレクは彼から教会の引継ぎを受けている最中だった。
「まあ、ロドリグ様ったら、お上手ですこと」
老婦人が朗らかに微笑む。彼女は先々代伯爵夫人のイルゼで、アレクにとっては義理の伯母にあたった。
彼女の横には伯爵夫人のリナリア、正面には長男エリアス、次男フレイル。皆、老司祭が大好きなので、彼の来訪があるとこぞって側に侍りたがる。
(さて、どこに座ろうかな)
悩んでいると、愛らしい声がアレクを呼んだ。
「お兄さま、こちらへいらして!」
アレクを兄と呼ぶ美少女の名はレティシア。夜の月を溶かしたかのような白金の髪を持つ、アレクとは血の繋がらない妹だった。
アレクは今年で二十八。レティシアは十二。親子ほど年が離れていることもあり、アレクは彼女が可愛くて仕方がない。
隣に腰を下ろしただけで、レティシアが満面の笑みを向けてくれる。アレクもつられて破顔した。
「ただいま、レティ。遅くなってごめんね」
「もう、待ちくたびれてしまいましたわ」
拗ねたふりをしていても、妹は大変に愛らしい。思慮深く聡明な性質だけれど、身内には少しだけ強気で、そこがまた愛おしいのである。
「お帰りなさい、アレク。町の様子はどうだった?」
レティシアの隣に品よく腰かけている、初老の女性が尋ねてくる。レティシアの母で、先代伯爵夫人のアナベルだ。
アレクは姿勢を正して養母に返答した。
「物価の上昇や治安の悪化は見られません。いつも通りの平和なサウラです」
「そう。よかったわ。ありがとう」
息子の報告を聞き、アナベルは優美に微笑む。いつもながら美しい姿勢に、丸まりがちなアレクの背も自然と伸びた。
「――そうだ、土産があるんです。レティ、おやつはまだお腹に入りそう?」
アレクが言うと、レティシアは花のかんばせを輝かせる。
「! ええ、もちろん! ありがとうございます、お兄さま!」
「レティ、量は控えめにね。お夕食が入らなくなってしまうわ」
「お母さま、分かっています。でも、町の食べ物って、珍しくて楽しいんですもの」
彼女達の他愛もないやり取りが愛おしい。愛する家族と共に過ごす時間は、肉親に恵まれなかったアレクにとって、何事にも代えがたい宝物であった。
しかしあとひとつだけ、大事なものが足りない。いつまでも埋まらない喪失感に、アレクはそっと信心具を押さえた。
(父上……)
アレクの家族の最後の一人。アナベルの夫、レティシアの父。そしてアレクの養父である、先代エンス伯爵サイラス。
彼は三年前の冬の日の朝、何の前触れもなく神の御許へ旅立ってしまった。
養父はアレクを劣悪な孤児院から連れ出し、十分すぎる衣食住を与え、拾い子には過ぎる教育を施してくれた。何より、沢山の愛を注いでくれた。
彼の死はあまりに辛く、正直なところ、未だ受け入れられずにいる。
養子に過ぎない自分でさえこうなのだから、妻のアナベル、実子のレティシアの悲嘆はいかほどか。
気丈な彼女達は平気なふりをするのが上手いので、アレクはよくよく気を付けて見ていなければいけない。
母と妹の心の平穏を願いつつ、供された茶をアナベル仕込みの所作で口に運ぶ。立ち昇る香気とほのかな苦みを楽しんでいると、外からノックの音が聞こえた。
侍女が扉を開けば、長身痩躯の男性が頼りない足取りで入ってくる。
「私も混ぜてもらっていいかな……?」
黒に近い茶色の髪に青い瞳の彼は、アレクの義理の従兄、現エンス伯クラウス・リードだった。
なかなかの美青年なのだが、目の下の隈がせっかくの美貌を損なっている。今日も仕事に追われているようだ。
「クラウス、仕事は大丈夫なの?」
「大丈夫……じゃない、全然終わらない……。けど、リナリア達は明日からしばらく実家だろう? いいなぁ春祭り。私も一緒に行きたかった……寂しい……」
リナリアに問われたクラウスは、今にも泣きそうな顔で答える。
彼は開いている席に体を滑り込ませ、疲労の滲む声で続けた。
「まったく、『例のあの人』め……。これから実習が続いて忙しい時期なのに、突然うちのダンジョンを視察したいだなんて……しかも全然、話が通じないし……。っと、申し訳ありません。ようこそおいでくださいました、ロドリグ様。おかえり、アレク」
外見こそ頼りないが、従兄は領主として優秀である。
その彼がここまで苦心しているとなると、相手は余程の権力者なのだろう。エンスは新興の伯爵家なので、古参の上位貴族には逆らえない。
(面倒事の予感がするな……何事もなく済めばいいけど)
クラウスは真面目なので、すぐに自分を追い詰める。兄と慕う彼の体が心配で、アレクは顔を覗き込んだ。
「兄上、随分とお疲れですね。回復魔法を使いましょうか?」
「うーん……まだ大丈夫かな。ありがとう。とりあえず今は糖分が欲しい」
アレクの土産も出してもらい、皆で菓子を摘みながら談笑する。
楽しい時間はあっという間で、気が付けば午後の勉強の時間になり、少年少女は退出を促された。クラウスも迎えに来た侍従に引きずられ、泣く泣く執務室へ戻って行く。
「お兄さま、お勉強が終わるまでいてくださる……?」
レティシアが縋るようにアレクを見つめた。
伯爵邸には母だけでなく従兄一家がいるし、アレクも週に一度は顔を出すようにしているけれど、やはり寂しいのだろう。
父の不在はどうやっても埋められないが、兄としてできる限り寄り添ってやりたい。ロドリグが「そうしなさい」と言ってくれたので、アレクは妹と目線を合わせて答えた。
「もちろんだよ、可愛いレティ。夜は教会に帰るけれど、夕食はご一緒させてもらいたいな」
「嬉しい! ありがとう、お兄さま。もちろんロドリグ様もよね?」
ロドリグは女主人のリナリアに視線を向け、彼女が頷いたのを確認してから、笑顔で諾意を示した。
「レティシア様にご招待いただけたとなれば、断る訳にはいきませんな。ぜひご相伴に預からせてくだされ」
「ふふ、喜んで! ではまた後ほど、失礼します」
レティシアは安心したようで、足取りも軽く部屋を出る。
次いでリナリアとイルゼも暇を告げ、居間にはアレクとロドリグ、そしてアナベルと彼女付きの侍女だけが残った。




