第12話 拓かれた道
アレクの体には、迷宮の狂気が微塵も蓄積されていなかった。
周囲には今も狂気が漂っているのに、すぐそこにいる子供達の体内にも黒い澱みが見えるのに、アレクにはない。
数年前に光彩の庭に挑んだ際も、半月ほど前にエンスのダンジョンに入った時も、こんなことはなかった。おかしい。
アレクは動揺しつつ、半月前と今とで異なる点を挙げてみる。
装備も、年齢も、練度も同じ。唯一違うのは、神託の褒美として授かった祝福――アレクははっと息を呑んだ。
(――精神の守護!!)
あらゆる異常から心を守るという加護が、迷宮の狂気からも遠ざけてくれているというのか。
そうだとしたら、アレクだけは発狂しない。何百年も冒険者を苦しめてきた呪いから、アレクは解き放たれたのだ。
高揚と混乱が入り混じり、眩暈すらしてきた。少しでも冷静さを取り戻そうと、アレクは深く息を吸って吐く。
(落ち着け。いま大事なのは、脱出に一月以上かかっても、俺は狂い死なないってことだけだ。ありがたいが、俺だけじゃ意味がない。…………いや、本当にそうか?)
ふ、と神託の解析結果が頭をよぎった。
神託機構によると、アレクは天から何らかの役割を課せられている。
神が無意味な采配をするはずがない。アレクにだけ狂気への耐性が与えられたのは、きっと、それが神の筋書きを実現するために必要だからだろう。
では、自らに課せられた使命とは何か。アレクは少し考え、すぐに思い当たった。
(子供達を守ること……だろうな)
この混迷を極める状況下、自らの身すら守れない彼らが全員、五体満足で生き延びているのは、運がいいどころの話ではない。普通ならとうに儚くなっているか、命があっても体のどこかが欠けている。
理由は不明だけれど、神はとにかく、ユージンらを生かしたいのだ。
(とりあえず、俺の役目は、子供達を生きて帰すことだとする。でもそれは、俺が狂っていてはできない……。逆に言うと、俺が狂いさえしなければ、この子達を助けられるってことじゃないか?!)
ちかり、と、何かが瞬いた。
ようやく見付けたひらめきを逃がすまいと、アレクは必死に手を伸ばす。
(どうして神は、俺をお選びになった? 冒険者も、神聖魔法の使い手も、もっと優れた人間は大勢いる。もっと他の、俺だけができる、あるいは持っている『何か』が必要なんだ。考えろ、もう時間がないぞ)
気が付けば、男性陣の皿から料理がなくなっていた。アレクは慌てて食後の果物を薦める。もう少しだけ猶予が欲しい。
食の進まない女性陣に無理をしないよう声をかけてから、アレクは懸命に思索を続けた。
(俺が他の冒険者と違う点……『旅』の使徒であることか。『旅』だけにある術や技で、この状況で有効なもの……――)
頭の中を隅から隅まで必死に探す。そしてアレクはついに答えを得た。
(――――『聖告』、だ!)
神託を受ける数日前、アレクは教会の引継ぎの中で、いくつかの秘術を伝授された。
どれも扱いを間違えると危険な術ばかりだったが、ひとつだけ群を抜いて恐ろしいものがある。その名を『聖告』。神の名の下、声を聞いた者の精神に干渉し、意のままに操る術であった。
他の神の家では廃れて久しいけれど、『旅』の教会は僻地に多い。有事に村を捨てなければならない際、畑や家畜を気にして逃げるのを拒む人々を連れ出すために、未だ残されているのだという。
必要性は理解できる。しかし、意志を封じ、肉体の自由を奪うのは、支配以外の何ものでもない。
人を奴隷に変える魔法など覚えたくもなかったが、ロドリグに説得され、渋々ながら習得したのは記憶に新しい。その日は嫌悪と恐怖でよく眠れず、唱える日が来ないよう神に懇願したのに、まさかこんなすぐに使う日が来ようとは。
(精神の守護で防げるということは、迷宮の狂気は精神異常の一種。でも聖告は、精神を完全に掌握する。検証は必要だけど、恐らく聖告の方が強い。ということは、聖告を発動している間は、狂気は無効になる……!)
聖告は非常に強力で、他の精神に作用する魔法を跳ね除ける。発動中、術者は他の魔法を使えなくなるのだが、終了を宣言するまで効果が持続し、魔力の消費も驚くほど少ない。
アレクの心情はともかくとして、維持するだけなら何ヶ月でもできる。
「…………見えた……」
急に目の前が拓け、アレクは無意識のうちに呟いていた。
物資は十分。野営の設備、装備、消耗品や薬も揃っている。アレクという指導者もおり、『聖告』のおかげで発狂の心配も消えた。
周囲の魔物は強いが、言い換えればそれだけ多くの経験値を持っているということだ。この環境で戦闘を繰り返せば、子供達は短期間で劇的に強くなるだろう。
そして五人が十分に育てば――アレク達は自らの足で、ダンジョンから脱出できる。
(いける。これなら希望と言っていい!!)
気付いてしまえば、足元にはあまりにも整えられた道が続いていた。楽ではないし、時間がかかるが、そこは飲み込んでもらうしかない。
ひと仕事を終えた達成感と疲労から、どっと眠気が襲ってくる。アレクは頭を振り、休みたがる脳を叱咤した。
(ダンジョンから抜け出す目途は立ったけど、そこで終わりじゃない。近くの町までの安全な移動経路に、生存を知らせる相手と、連絡手段……まだまだ考えないといけないことが沢山ある。地上の動向も気掛かりだし。……いや、まずは脱出に集中するべきだな)
王弟の動きと、サウラの被害状況は気になる。しかしアレクが最も心配なのは、エンスへの罰の内容だった。
転移の目撃者がいない以上、ユージンらの失踪は、引率だったアレクの責任になる。連座でエンスも咎を負うだろう。あの狡猾な王弟に王子誘拐の濡れ衣を着せられ、降爵や取り潰しすらあり得た。
自分が処罰されるのは仕方がないとして、エンスを巻き込むのだけは避けたかったのだが、地の底にいるアレクには謝罪も弁明もできやしない。
そう、どうしようもないのだ。思い悩むだけ無駄なので、あえて考えないようにする。
アレクにできるのは、無事に子供達を連れ帰ることだけ。彼らから不可抗力だったと証言してもらえれば、エンスの名誉回復も叶うと信じる他ない。アレクは大きく息を吐き、荒廃した故郷の光景を頭から追い出した。
「? アレク様、どうかしました?」
ぶどうの皮を剥いていたバージルが、心配そうに声をかけてくる。
アレクは「何でもないよ」と笑顔を作り、急いで食事を終わらせるべく、ろくに噛まずにパンを飲み込んだのだった。




