第10話 女神の小庭
六つの荒い呼吸が薄暗い空間に響く。アレクは照明の魔法を唱え、控えめな灯りを天井近くに浮かべた。
今のところ、蚯蚓が追ってくる気配はない。ダンジョンの魔物は縄張り意識が強く、基本的には階層を跨がないので、階段に入れば大抵の場合は振り切れる。
子供達の消耗は明らかで、全員が息を乱して壁に寄り掛かり、あるいはしゃがみ込んでいた。
喜ばしいことに、誰にも大きな怪我は見受けられない。生きて合流できただけでも奇跡だというのに、彼らの中に余程の強運の持ち主がいるか、それとも神の意志が介在しているのか。何にせよ、命が繋がった幸運に感謝し、アレクは天に謝意を伝えた。
(さあ、早く移動しないと)
残念ながら、階段は絶対に安全とは言えない。音やにおいで勘付かれ、待ち伏せされる危険性がある。
幸い、歩いて数分の距離に『女神の小庭』という、休憩に使える場所があるはずだ。回復も説明もそこで行うべきだと判断し、アレクは全員に立つように促した。
「疲れているとは思いますが、留まってはいけません。恐らくですが、ここは国内最難関ダンジョン、『光彩の庭』です。すぐ近くに安全地帯があるはずなので、移動しましょう」
「司祭殿。先に、殿下の、治療を」
まだ整わない呼吸の合間を縫って、コンラッドが訴える。女性陣を庇って負ったのだろう、確かにユージンにはいくつかの傷があるが、早急に手当が必要なものではなかった。
首を横に振るアレクに、コンラッドが猛然と抗議する。
「何故だ!? あなたの腕前なら、これくらいすぐに治せるだろう?!」
「グレンウィル伯爵令息、ダンジョン内で大声はお控えください。魔物を引き付けます。ここでは危ない、移動が先です」
「だが……!!」
声量を下げてくれないどころか掴みかかってきた若者の腕を解き、アレクは少々きつく言った。
「お静かに。全滅したいのですか」
「コン。私は平気だ、早く行こう」
主に窘められ、側近はしぶしぶ引き下がる。これまで垣間見えた思慮深さとはかけ離れた振る舞いに、アレクは違和感を覚えた。
(疲労と混乱に加え、迷宮の狂気も影響してるんだろうな。伯爵令息は特に感受性が強いのかも。この子だけじゃなく全員、気を付けてやらないと)
また騒ぐ者が出ないうちにと、早口で隠忍の魔法をかける。淡い光の膜が全員を覆ったのを確認し、アレクは歩き出した。
虹色に光る石があちこちから覗く岩壁の道を、息を殺して慎重に進む。いくつかの角を曲がり、印の付けてあった罠を飛び越えて、一同は無事に目的地に到着した。
「――ここです」
アレクが声を発すると、バージル以外の学生達は怪訝な表情になった。
王立学院の教室と同じくらいの広さの、岩壁で囲まれた空間は薄暗く、淀んだ空気が満ちている。女神の、と冠が付いているのに、聖なる力は感じられない。
アレクは「ここで待っていてください」と言い残し、奥へと足早に向かった。バージルが無言で着いてくる。
部屋の隅には簡素な祭壇が設えられており、小ぶりの女神像が置かれていた。その足元には、とうに枯れ果てた花束がある。
色の抜けたリボンで纏めてある野の草花は、数年前にアレクが備えたものだ。ダンジョンに入る前、神への供物にと可愛い妹が持たせてくれた。
(やっぱり、光彩の庭で間違いないか……)
現在地が判明したのは僥倖だろう。しかし同時に、状況が絶望的であることも確定してしまった。
何せ最難関ダンジョンの深層から、金級冒険者とはいえ司祭が一人で、五人の素人を生還させなければならないのだ。難しいどころの話ではない。
現実が重く圧し掛かる。何もかもを放り出し、逃げ出したい衝動に駆られたが、理性が無駄だと押し留めた。そもそも逃げ場など存在しない。
ちらり、と横を見れば、不安そうな目をしているバージルが目に入る。守るべき子供達を前にして、アレクは頼れる大人の役を降りられなかった。
(俺が揺らげば、子供達にも伝染する。余裕があるように振舞え。動揺を悟られるな)
アレクは己に命じ、しゃんと背筋を伸ばす。それから隣に立つバージルに微笑んだ。
「大丈夫だよ。なんとかなるし、なんとかする」
「……信じます。アレク様がそう言うなら」
青年の肩を軽く叩き、アレクは役目を果たした花束を引き下げる。代わりにアナベルが入れてくれた焼き菓子をいくつか供えた。味にうるさい母のお気に入りだ、神々もお気に召すに違いない。
それから膝を突き、目を閉じて祈りを捧げる。特に決まった文言はないので、アレクは思うままに言葉を紡いだ。
「主神よ、『旅』よ、お導きに深く感謝いたします。我ら旅人にどうか、束の間の宿をお与えください」
僅かに魔力が抜き取られたかと思うと、みるみるうちに空気が清浄なものへと塗り替わっていく。
アレクはふう、と息を吐き、立ち上がった。周囲の偵察をバージルに任せ、ユージン達の所へ戻ると、彼らは揃って呆気にとられた顔をしている。アレクは思わず笑ってしまった。
「驚きましたか? 冒険者の心得、女神の小庭ではまず、祈りと魔力を捧げるべし。そのままではただの小部屋で、魔物が入ってくることもありますからね。皆さんも落ち着いたら、女神に感謝を伝えてください。……さて、これでこの部屋の中は安全です。殿下、座っていただけますか」
「あ、ああ」
大人しく腰を下ろしたユージンに手を翳し、治癒の魔法を施す。大した傷ではなかったのですぐに塞がった。
王子は翡翠の瞳を細めて述べる。
「ありがとうございます、リード司祭。治療もですが、私達を助けてくれたことも」
王族としては率直すぎるが、彼の誠実な人柄が伝わってきた。つられるようにアレクも正直に罪を告白する。
「礼など、私には不要です。寧ろお詫びを申し上げなくてはなりません。私の到着が遅れたせいで、殿下方に恐怖と苦痛を与えてしまいました。申し訳ありません」
全員に向かって頭を下げた後、アレクはコンラッドに視線を合わせた。
「グレンウィル伯爵令息、先の無礼をお詫び申し上げます」
「…………謝罪を受け入れる。こちらこそ、頭に血が上っていた」
彼の声には己を恥じる色がある。やはり真面目な性格のようだ。
呆気ない和解にいささか拍子抜けしていると、任務を完了したバージルが駆け寄ってくる。
「――アレク様、終わりました」
彼の美しい顔には、ダンジョンに踏み入る者としてはあまりに無知な貴族子女への侮蔑がありありと浮かんでいた。
気持ちは理解できるけれど、これから強制的に運命共同体となる以上、あまり褒められた態度ではない。
「バージル」
「はぁい」
窘めるように名を呼べば、彼は分かっているとばかりに間延びした返事をする。それ以上強く言う気も起きず、アレクは感謝を述べるだけに留めた。
「ありがとう。異常は?」
「特にありません。出入口は二か所、いずれも目視できる範囲に敵影なし。祭壇と反対側の隅に湧き水あり、水量は少ないですが飲めます」
「了解。うん、一人前の斥候だね。あなたがいてくれてよかった」
本心からそう告げると、バージルは花が綻ぶように笑う。つられて微笑んだアレクのすぐ側で、ぐぅ、という低い唸り声のような音が聞こえた。
一拍の間の後、白い頬を真っ赤に染めたユージンが背を丸める。
「す、すまない! その……」
鳴いたのは彼の腹の虫だった。羞恥に悶える貴公子に、アレクはやさしく声をかける。
「夕食の支度の最中でしたものね。まだまだ説明も、話し合いも必要ですが、ひとまず食事にしましょうか」
状況は最悪のままで、正直なところ、先の展望は見えない。
だが、誰も死ななかった。今だけは素直に生き延びたことを喜ぼうと、アレクは思った。




