第9話 光彩の庭
「………………ここは…………?」
やわらかな土に手を突いて、アレクはゆっくりと体を起こす。
そこは花畑だった。踝より少し上の背丈の花が、辺り一面を埋め尽くしている。
瑞々しい葉は細長く、茎は細い。そして花びらは虹色だった。
雌しべを囲む七枚の花弁は、水晶を極限まで薄く削ったような質感をしている。そよぐ風で揺れた花同士がぶつかり合い、楽器のような音を立てていたのだろう。
世にも珍しく美しいこの花の名前を、アレクは知っている。実際に目にしたのは初めてだけれど、図鑑の記述を一言一句覚えてしまうほど読み込んだ。
「…………虹水晶の、花…………」
母の病気を治す唯一の希望である万能薬、その材料の最後の一つ。滅多に見つからない幻の花。
アレクだけでなく親類や友人、アナベルに縁がある者達がずっと探し続けていた素材がいま、目の前にあった。
恐る恐る手を伸ばし、手近な一本を手折ってみる。
ぽきり、と呆気なく折れた茎からは緑の液が滲み、指を汚した。漂う青臭いにおいがあまりにも生々しい。
「…………夢、じゃない……?!」
霞みがかっていた意識が急にはっきりとし、アレクは叫んだ。これは幻ではない、現実なのだ。
どうか覚めないで、と願いながら、アレクは無我夢中で花を摘んだ。
数分で抱え切れないほどの量が集まったので、慎重に教会の魔法鞄に仕舞う。私物のものとは違い、時間停止の機能が付いているので、劣化の心配がないのはありがたい。
場所を変えて更に採取しようとしたアレクは、少し離れた所に落ちている自身の杖を目にし――その瞬間、ようやく自分の置かれている状況を思い出した。
(!!)
とんでもない失態を自覚し、全身の血の気が一瞬で退く。
(花を集めてる場合じゃなかった!! ここはどこだ?! あの子達は?!)
慌てて周りを見回しても、在るのは虹水晶の花だけ。人間の姿は見当たらない。
アレクはユージンらの名前を呼ぶため、大きく息を吸い込む。しかし違和感を覚え、すんでのところで止めた。
――魔力が濃すぎる。
空気に混じる魔力が地上とは比較にならないほど重く、息苦しい。つう、と背中に冷や汗が伝った。
(ここは…………ダンジョンだ…………。しかもこの魔力濃度から考えると、かなり難易度の高いダンジョンの、深層)
アレクからは見えないだけで、周囲には獲物を狙う強力な魔物たちが潜んでいる。大声や大きな物音は、彼らに居場所を知らせる行為に他ならない。
自分も危険だが、知識も力もない子供達には致命的な状況だ。一瞬、最悪の展開を予想してしまい、アレクは頭を振って余計な思考を追い出した。
(落ち着け。魔族は焦っていた。全員を別の場所に転移する余裕はなかったはずだ。きっと近くにいる!)
早鐘を打つ心臓に静まるよう命じ、アレクは隠忍の魔法をかける。次いで五感を一時的に底上げする術を使い、杖を拾って駆け出した。
意識を研ぎ澄ませて学生達を探すが、近辺に人の気配はひとつもない。どうやら離れた場所に飛ばされてしまったらしい。
(いないな……。まずいぞ、『迷宮の狂気』がかなり強い。自棄を起こしてなければいいけど……)
元は魔の領域であったダンジョンには、人間の精神を汚染する瘴気が充満している。
『迷宮の狂気』と呼ばれるそれは、体内に蓄積し、例外なく一月で発狂に至らしめる呪いだった。
即死する訳ではないけれど、感受性の強い者や、心身の弱っている者は、狂気の影響で精神が不安定になりやすい。
ダンジョンでは、冷静さを失った者から死ぬ。子供達が恐慌に陥っていないよう、アレクは神に祈るしかなかった。
虹色の花畑から遠ざかり、生い茂る真っ白な広葉樹の間を進んでいると、前方から微かな悲鳴が聞こえた。
「!」
アレクは音を頼りに森の中を疾走する。
どれくらい走っただろうか、急に目の前が開けたかと思うと、鈍く光る水を湛えた湖にぶつかった。
「……!」
眼前に広がる光景に、アレクは思わず息を呑む。
ダンジョンでは現実離れした景観と多々出会うが、白い木々と銀の湖は珍しい。故に脳に鮮明に焼き付いていた。数年前のダンジョン攻略で、アレクは同じ景色を見た覚えがある。
(ここは、『光彩の庭』か!! しかも最下層!!)
光彩の庭は、王国で最高難度のダンジョンだ。国内で十指に入っていたアレクのパーティーでも苦戦した場所に、今、何の備えもない子供達が放り出されている。
あまりに惨い事実に打ちのめされ、足が止まる。しかし再び聞こえた悲鳴が、アレクを逃避から連れ戻した。
(呆けている場合じゃない! 目の前の成すべきことをやるんだ!)
アレクは走る。とにかく走る。
そして少し離れた湖畔で、やはり見覚えのある巨大な蚯蚓に襲われている学生達を発見した。
(いた!!)
悲鳴は三つ、人影も三つ。ユージン、ローゼマリー、ティナだった。
コンラッドとバージルがいないのが気掛かりだが、今は彼らを助けなければならない。アレクは走りながら防御の魔法の詠唱に入った。
大蚯蚓の攻撃は続く。ティナが光の盾を作ったものの、体当たりで呆気なく粉砕されてしまった。
続いてローゼマリーが放った炎の矢も、尻尾の一振りで叩き落とされる。
「ひっ……!」
蚯蚓は成人男性数人分ほどの長さで、それに見合った太さがあった。巨大な尾が頬のすぐ横を霞め、ローゼマリーが腰を抜かす。
明らかな隙を見逃すはずもなく、化け物は彼女を圧し潰そうとした。
「危ない!!」
ユージンがローゼマリーを突き飛ばし、一緒に転がる。攻撃は空振りに終わったが、つるりとしていた蚯蚓の頭部が裂け、鋭い歯がみっちりと生えた穴が現れた。
恐ろしい様相に気圧されたのか、王子の体が一瞬竦む。しかし彼はすぐに立ち上がり、令嬢を背に庇った。
(まるで騎士だな。王族としては危ういんだろうけど、嫌いじゃない)
場違いな感想を抱きながら、アレクは『守りの天蓋』を発動する。光で編まれた薄い半円状の壁が三人の学生と、滑り込んだアレクを覆った。
目がないせいか、蚯蚓は壁に気付かないままユージン目掛けて頭を振り下ろし、そして弾かれて転倒する。
「申し訳ありません、お待たせしました」
「リード司祭!」
アレクは敵から目を離さずに言った。転送位置が離れていたのは不可抗力だとしても、虹水晶の花に気を取られて合流が遅れたのは、完全に過失である。
後ほどきちんと謝罪し、罰を受けるつもりだが、今はこの場を切り抜けなくてはならない。アレクはそれ以上の言い訳はせず、大蚯蚓の攻撃を防ぐことに集中した。
蚯蚓はその長い体を鞭のようにしならせ、執拗にぶつけてくる。結界に穴が空かないよう注意しつつ、アレクは尋ねた。
「殿下。グレンウィル伯爵令息とバージルは?」
滴る汗を手の甲で乱暴に拭いながら、ユージンは答える。
「分からない。私達三人は近くに倒れていたが、二人は見当たらなかった」
「そうですか……。二人のことは気掛かりですが、私ではこいつの攻撃を防げても、倒すことはできません。いったん退いて、態勢を立て直しましょう」
アレクとて苦渋の決断だ。だが、自分達が生き延びなければ、二人を探すこともできない。
ユージンは何か言いたそうだったが、苦しそうに言葉を飲み込む。元より承諾は求めていないので、アレクは頭の中で撤退の算段を立て始めた。
(こいつは音に弱い。振動玉を使えば、十秒くらいは動きを止められる。後ろの方に上層への階段があったはずだから、そこへ逃げ込もう)
鞄の中を掻き回し、目的の物を取り出し終えた時だった。
「――アレク様!! 七時方向に上り階段!! グレンウィル伯爵令息もいます!!」
振り返ると、数十歩ほど下がった場所にある大きな岩の横に、バージルとコンラッドが立っている。アレクの可愛い弟分は、今にも飛び出して行きそうな伯爵令息の腕を掴んで引き留めていた。
アレクは心の中で喝采を送る。
(退路も伯爵令息も見つけてくれるなんて、流石バージル!)
これで子供達は揃った。後は退却するだけである。
ちょうど蚯蚓が大きく姿勢を崩したので、好機を逃すまいとアレクは叫んだ。
「振動玉を投げます! バージル達は伏せて耳を塞いで、目を瞑って、口は開ける!」
言うが早いか一瞬だけ天蓋を消し、手のひら大の玉を蚯蚓の頭部に向かって投げた。
急いで壁を作り直した次の瞬間、どぉん! と激しく空気が震え、地面が揺れる。大蚯蚓はびくりと痙攣し、よろめいて、やがて湖畔へ横倒しになった。
「バージル、階段まで先導! 皆はバージルに続いて! ノルバート侯爵令嬢、ご容赦を!」
アレクは今度こそ術を解き、漂白した紙のような顔色をしているローゼマリーを横抱きにする。化け物が再び動き出す前に、六人はなんとか岩に囲まれた階段に逃げ込んだ。




