第五話 三千年ラーメン★
ステラのセーフハウスに、それまで存在し得なかった奇妙な「熱気」が満ちていた。
部屋の中央に浮かぶ無数のホログラムディスプレイには、複雑な分子構造式や、有機化合物の配合比率を示すグラフが濁流のようにスクロールしている。
その中心で、ステラはやたらと目を引く真っ赤なタイツを履いた脚をせわしなく動かしながら、コンソールに狂ったように指先を走らせていた。
「違う、これじゃただのグルタミン酸ナトリウムの塊よ! ルナが言っていたのは、もっとこう……脂質が複雑に熱分解されて、動物性タンパク質の奥から滲み出るような、荒々しくて繊細な旨味成分のはず!」
彼女が吠えるたびに、乳白色の合成機が低く唸りを上げ、焦げ付いたような匂いや、妙に甘ったるい蒸気を吹き出す。
すでに試作された「未知のスープ」が床に何個も転がっていたが、そのどれもが私の記憶にあるものとは程遠かった。
私はベッドの端に腰掛け、細い指先で銀糸の髪を弄りながら、その光景をどこか圧倒されつつ見つめていた。
前世の私は、普通の高校生でプロの料理人ではない。ただのラーメン好きな一般人。だから詳しいレシピなんて知らないし、私がステラに提示できるヒントは、「鶏ガラと豚骨のドロッとした感じ」「醤油のツンとした香りと、後味のまろやかさ」「麺は黄色くて、噛むとパツッと切れる」といった、極めて主観的で抽象的な感覚の記憶だけだった。
しかし、ステラはその「記憶」という名の最大のロストテクノロジーを、超科学を用いた力技でコード化しようとしていた。
「ルナ、もう一度教えて! 麺をすすったとき、喉の奥を通り抜ける香りの第一波は、植物性? それとも動物性の油脂の匂い!?」
「え、ええと……、たぶんネギとかニンニクとかの香味野菜を、ラードっていう豚の油で炒めたような香ばしさ……だと思うわ。あ、あと、スープの表面にはうっすらと透明な油の層が浮いていて、それがスープを冷まさない役割をしていて――」
「それよ! 熱力学的遮断効果を持つ脂質層の展開ね! 合成マトリクスの配合を変更、第十七有機セクターからラードの代替分子を抽出、再構成して!」
ステラの指が火を噴くような速度でキーボードを叩く。彼女の額からは大粒の汗が流れ落ち、栗色の短い髪が水分で額に張り付いていた。
言葉も通じない、国すら消え去った三千年後の地球。そんな絶望の底にいた私を救ってくれた彼女が、今、私の「思い出」のためだけに、これほどの熱量を注いでくれている。その事実だけで、胸の奥がキュンと締め付けられるように熱くなった。
それから、さらに数回の失敗を重ねた。部屋の時計が示す未来の単位はよく分からなかったが、体感で数時間が経過した頃。
――カチリ、と。
これまでとは違う、どこか厳かな電子音が室内に響き渡った。
「……できた。分子結合、完全固定。熱量、摂氏八十五度を維持」
ステラがかすれた声で呟く。合成機のハッチがゆっくりと左右に開いた。
中から立ち上ったのは、白く濃密な「湯気」だった。
そしてその瞬間、私の鼻腔を、異世界ユトラントでの千年間ずっと夢にまで見続けた、あの圧倒的な香りが貫いた。
「っ……!」
思わず息を呑む。
トレイの上に載せられてせり出してきたのは、未来の味気ない器だった。しかし、その中に満たされているのは、美しく澄んだ、琥珀色のスープ。
スープの表面には、ステラが完璧に再現した透明な油の玉がキラキラとネオンの光を反射して輝いている。その中心には、やや縮れた黄色い麺が美しく折り畳まれ、上には即席でデータ合成されたチャーシュー風の肉片と、青々としたネギが添えられていた。
「ルナ……。これが、あなたの時代の『醤油ラーメン』、で合ってる?」
ステラが緊張した面持ちで、未来の金属製箸を模したスティックを私に手渡してきた。
私は震える手でそれを受け取り、ベッドの上に器を引き寄せた。湯気とともに立ち上る、醤油と、出汁と、油の混ざり合った、暴力的で、けれど涙が出るほど優しい匂い。
スティックで麺をひと掴みし、ふーふーと息を吹きかけてから、一気に口の中へとすすり込んだ。
「――、――あ」
じゅわりと、口いっぱいに広がったのは、圧倒的な「故郷」の味だった。
噛み締めるたびに弾ける麺の食感。それを追いかけるように、鶏と豚の深い旨味と、醤油の芳醇な塩気が、味覚神経を介して脳ではなく、私の「魂」に直接染み渡っていく。スープを一口含むと、温かい塊が食道を通って胃へと落ちていき、冷え切っていたエルフの身体を芯からポカポカと温めていく。
それは、まがいものの合成食なんかじゃない。
二十一世紀の日本で、五十鈴飛鳥として生きていたあの頃、学校帰りに町中華で友達とバカ話をしながら食べた、あの、どこにでもある普通の、けれど最高に特別だったラーメンの味そのものだった。
「ルナ……? 美味しく、なかった……?」
ステラが不安そうに顔を覗き込んできた。
その時になって初めて、私は自分の視界が完全に涙で遮られていることに気づいた。
ポタポタと、大粒の涙が器の中に落ちていく。一度溢れ出した感情は、もう止まらなかった。
千年間、どれほど過酷な戦いでも、どれほど深い孤独に襲われても、大魔導師としてのプライドで決して流さなかった涙が、たった一杯のラーメンの温もりの前で、堰を切ったように溢れ出してしまった。
「あ、ううん……違うの。違うのよ、ステラ……っ。美味しい、美味しいの……っ。これ、俺の知ってる、地球の味だよ……っ!」
言葉遣いが一瞬、前世の少年に戻ってしまうほど取り乱しながら、私は声を上げて泣いた。
もう戻れない。私の知っていたあの優しい世界は、三千年前の塵になってしまった。けれど、その世界は今、この未来の少女の手によって、確かにこの場所に再現されたのだ。私は一人ぼっちじゃなかった。私の歩んできた時間は、無駄じゃなかった。
「……よかった。本当に、よかった……」
気がつくと、温かい感触が私を包み込んでいた。
ステラが、ベッドの上に上がって、私の身体をその細い両腕でぎゅっと抱きしめてくれていたのだ。彼女の温もりが、私の身体に伝わる。
ステラは、私の銀髪を優しい手付きで何度も撫でながら、自分のことのように声を震わせて囁いた。
「寂しかったんだよね、ルナ。千年っていう途方もない時間を、ずっと一人で頑張ってきたんだもんね。誰も知らないあなたの世界を、私に教えてくれてありがとう。私がこれから、あなたの新しい世界になってあげる。だから、もう泣かないで……」
「ステラ……、ステラ……っ」
私はラーメンの器を置き、彼女のグレーのジャケットに顔を埋めて、子供のように泣きじゃくった。中身が男だとか女だとか、そんなことはもうどうでもよかった。
三千年の時を超えて、私は今、この未来の地球で、生涯をかけて愛すべき相棒と、確かに巡り会ったのだ。
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