第二話 三千年のロスト・ランゲージ
深い闇の底から意識がゆっくりと浮上していくのを感じていた。
全身を苛んでいた、あの焼き付くような魔力の枯渇感は、驚くほど綺麗に消え去っている。それどころか、まるで最高級の宿のベッドに横たわっているかのように、身体が驚くほど軽かった。
私はゆっくりと目蓋を持ち上げる。視界に飛び込んできたのは、見たこともない滑らかな純白の天井だった。
「……ここは?」
自分の声が、静かな部屋に響く。
私は上半身を起こし、周囲を見回した。そこは、十畳ほどの広さの立方体の部屋だった。壁も床も、継ぎ目が一切ない乳白色の未知の素材でできており、どこからともなく淡く柔らかな光が空間全体を照らしている。照明器具らしきものはどこにも見当たらない。
私が寝かされていたベッドも異常だった。マットレスのような固形物はなく、まるで半重力の磁場か何かに身体を優しく支えられているかのような、不思議な浮遊感があった。衣服は、あのボロボロだった魔導ローブが綺麗に脱がされており、代わりに肌触りの良い、伸縮性に優れた部屋着のようなものを着せられている。
「何よこれ……。どうなってるの?」
エルフの本能が、この異常な空間に対して激しい警戒信号を発していた。
二十一世紀の地球の建築技術でも、こんな部屋は存在しなかった。ましてや、私が千年間を過ごした中世ヨーロッパ程度の文明を持つ異世界『ユトラント』の技術レベルから見れば、これは完全に「神の領域」の類だった。魔法の気配は一切感じられない。すべてが高度な、理解の及ばない超科学の産物だった。
ふと壁際に目を向けると、そこには無数の奇妙なガジェットが乱雑に積み上げられていた。金属製の基盤、明滅する青い液体が流れるパイプ、ホログラムで構成された立方体がいくつも空中に浮かび、複雑な数式や幾何学模様を高速でスクロールさせている。
「ひゃっ!?」
突然、私のすぐ横の空間がぐにゃりと歪み、半透明の光の球体が現れた。それは空中を滑らかに浮遊すると、私の顔の前にぴたりと止まり、赤い光の線を上から下へと走らせた。全身をスキャンされているのだと気づき、私は思わず身をすくめる。
その時、部屋の壁の一部が滑るように開き、足音が聞こえてきた。
「――っ! ――、――!?」
飛び込んできたのは、あの路地裏で私を救ってくれた少女だった。
栗色の短い髪を揺らし、未来的なデザインの服を着た彼女は、私が目覚めているのを見るや否や、弾かれたようにベッドの側へと駆け寄ってきた。
その表情には、これ以上ないほどの喜びと、そして相変わらずのギラギラとした「興奮」が満ち満ちている。
少女は私の両手をがっしりと握り締めると、またしても顔を限界まで近づけて、未知の言語をマシンガンのように捲し立ててきた。
「ちょ、ちょっと待って! 近い、近いから!」
私は慌てて手を引き抜こうとしたが、彼女の力は意外なほど強かった。言葉はまったくわからない。だが、彼女が私を害するつもりがないことだけは、その純粋な笑顔から理解できた。
私は一度深く呼吸をし、大魔術師としての冷静さを取り戻すべく思考を巡らせた。まずは意思疎通だ。言葉が通じなければ、ここがどこなのかも分からない。
私はエルフとして生きた千年間、最も広く使われていた世界の共通言語を口にすることにした。
「私はルナリア。ここはどこ? あなたは誰なの?」
ユトラントで使われていた、マナの響きを持つ格調高き共通語。しかし、少女は小首をかしげるだけだった。彼女の手首に巻かれた端末のような機械がピコピコと電子音を鳴らしたが、画面には「解析不能」を示すような赤いバツ印が表示される。異世界の言語など、この世界の機械にはデータすら存在するはずがなかった。
少女は残念そうに眉を下げたが、すぐにまた目を輝かせて、自身の端末の空中ディスプレイを操作し始めた。
通じない。異世界の言葉は、この地球(あるいは未知の世界)ではただのノイズだ。
ならば、残された手段は一つしかなかった。
私は千年の間、ただの一度も他者に対して使わなかった、私の魂の奥底に眠る「ロスト・ランゲージ」を呼び覚ます。異世界での千年間、寂しさを紛らわせるための独り言や、日記を記す時にしか使わなかった、あの愛おしい故郷の言葉。
「……私の、声が、聞こえますか?」
たどたどしく、けれど確かな日本語が、私の唇から零れ落ちた。
その瞬間、少女の動きが完全に止まった。彼女の手首の端末が、これまでにないほど激しい警告音を鳴らし、空中ディスプレイに未知の幾何学文字が濁流のように流れ始める。
少女の目が見開かれた。それは、信じられない奇跡を目撃したかのような、圧倒的な衝撃に満ちた表情だった。
「――っ!? ――、――!?」
少女は発狂したかのように端末を叩き、狂ったようにホログラムの画面を操作し始めた。彼女の背後にある壁から、さらに数枚の大型ディスプレイが飛び出し、複雑なデータ解析のグラフが上下に激しく運動を始める。
私はその様子を唖然と見つめるしかなかった。
数十秒の沈黙の後、少女の端末から、カチリと澄んだ電子音が鳴り響いた。
そして――。
「……あ、あー。テスト、テスト。接続、完了。……これで、私の言葉が、あなたに、届いていますか?」
少女の口から発せられたのは、紛れもない、流暢な「日本語」だった。正確には、彼女自身が喋っている言葉ではなく、彼女の首元にある小さな音声バッジが、彼女の発音をリアルタイムで日本語に翻訳して出力しているようだった。
「しゃ、喋れるの!? 日本語が!?」
私は嬉しさのあまり、ベッドから身を乗り出した。千年間、ずっと一人で抱え込んできた「飛鳥」としての言葉。それが、目の前の少女に通じたのだ。
「信じられない……! 本当に、本当にこの言語が存在したなんて!」
少女は顔を真っ赤にして、興奮のあまりその場でぴょんぴょんと跳ね回った。
「私はステラ! 歴史学と超古代文明の非合法サルベージを趣味にしてるの!ねえ、あなた今、なんて言ったの!?それ、国立中央アーカイブの最深部、暗号化された『超古代神話セクター』にしか残っていない、失われた伝説の地球言語でしょう!?今、慌ててアーカイブのセキュリティをハッキングして翻訳言語野をダウンロードしたの!鳥肌が止まらないわ!」
ステラと名乗った少女は、尋常ではない早口で捲し立てた。ハッキングという単語に、私は飛鳥としての記憶を刺激されて苦笑いした。どうやら彼女は、なかなかに型破りな「オタク」のようだ。
しかし、彼女の放った言葉の中に、聞き捨てならないフレーズがあった。
「失われた言語……? 国立アーカイブの神話セクターって、どういうこと? ここは地球じゃないの? 今は、西暦何年なの?」
私はステラの目を真っ直ぐに見つめ、最も恐れていた質問を投げかけた。
ステラは私の真剣な眼差しに一瞬気圧されたように瞬きをしたが、すぐに空中ディスプレイに大きな数字を表示させた。
「ここは地球よ。私たちの母星。でも、西暦なんて数え方、もう誰も使っていないわ。歴史の研究書でしか見ない古い紀年法ね。あなたの言う西暦で換算するなら……今の時代は、だいたい西暦五千年、にあたるわね」
「せ、西暦、五千……年……?」
頭を、巨大なハンマーで殴られたような衝撃だった。
言葉を失い、私の思考は完全に停止した。
西暦五千年。つまり、私が男子高校生の五十鈴飛鳥として生きていた「二十一世紀前半」から、実に三千年もの歳月が流れてしまっているということだ。
私は異世界ユトラントで、必死に帰還魔法を研究しながら千年の時を過ごした。その千年の間に、地球ではさらに二千年の、計三千年という途方もない時間が経過していたのだ。
「三千、年……。千年間頑張って、やっと帰ってきたのに、さらに二千年も先に行っちゃってたなんて……」
絶望というよりは、あまりのスケールの大きさに、眩暈がして乾いた笑いしか出てこなかった。
私の知っていた日本も、東京も、家族も、友達も。千年どころか、三千年の時の彼方に消え去っていた。歴史という名の荒波に飲み込まれ、国名も地名も完全に忘却され、今や「神話の史料」としてしか残っていないのも当然だった。
「ねえ、あなた、一体何者なの?」
呆然と自嘲する私に、ステラがそっと近づいてきた。彼女は私の銀色の長い髪に触れ、そして再び、あの尖った耳を優しく撫でた。今度は驚きよりも、慈しむような、そして強烈な好奇心に満ちた手付きだった。
「その耳、遺伝子改造の形跡が一切ない、完全に自然な生物組織なの。それに、あなたの身体から検出される未知のエネルギー粒子……。あなた、本当に三千年前の地球から来たの? それとも、私たちがまだ知らない、星の彼方の文明から来たの?」
距離感の近いステラの温もりに、元少年の心臓が不規則な鼓動を刻む。けれど、三千年の孤独と断絶を知った今の私にとって、彼女の笑顔、過剰なまでのスキンシップと熱意だけが、私の心が完全に壊れてしまうのを防ぎ止めてくれているようだった。
「私は……」
私はゆっくりと、けれど覚悟を決めて口を開いた。三千年の時を超えた、元少年のエルフの物語を、この未来の少女に伝えるために。
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