第一話 まばゆき光の先は、未知の摩天楼★
視界を埋め尽くしていた純白の閃光が、ゆっくりと、しかし確実に引いていく。
全身の血管を駆け巡っていた沸騰するような魔力の奔流は、大気中へと霧散し、代わりにひどい脱力感が私の身体を襲った。エルフの強靭な肉体をもってしても、次元の壁を穿つという大魔術の反動は凄まじい。膝がガクガクと震え、私はその場にどさりと崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ! 成功……した? これ……っ?」
荒い息を吐き出しながら、私は自分の細い両手を見つめた。千年の間、異世界の苛烈な環境で戦い、研究を重ねてきたはずの手。それは今も変わらず、白く、細く、爪の先まで行き届いた美しさを持つエルフのままだ。
成功だ。確かに私は、異世界の座標から「五十鈴飛鳥」の記憶にある地球の座標へと、次元境界線を突破する転移魔法を発動させた。
じわりと、目頭が熱くなる。
千年。
言葉にすれば、たった四文字。けれど、それは気が遠くなるほどの孤独の連続だった。出会った人間たちは瞬く間に老いて死に絶え、国は興り、そして滅びた。どれほど周囲から「大魔術師」と崇め奉られようとも、私の心はいつだって、あの二十一世紀の日本の、ごく普通の高校に通う少年のままだったのだ。
帰ってきた。ついに、懐かしい故郷に。アスファルトの匂い、夕方にどこからか漂ってくる晩ご飯の香り、うるさいほどの自動車の音、ポケットの中で震えるスマートフォンの冷たい感触。あの愛おしい、退屈で平凡な日常へ。
このエルフの女性の姿では父さん、母さん、二人の妹の家族たち、そして学校の友達に会うことは叶わないだろう。それでも――それでもあの人たちが生きて、笑っている姿をもう一度見たい。見られればそれで十分だった。
「みんな……ただいま……っ」
涙を拭い、私は満面の笑みを浮かべて顔を上げた。
――そして、その笑顔のまま、完全に硬直した。
「……え?」
呆けたような声が、私の唇から零れ落ちる。
そこは、薄暗い路地裏だった。それだけなら、東京のどこか裏路地に迷い込んだのだと思えたかもしれない。だが、そこを取り囲む「壁」が異常だった。
コンクリートでも、レンガでもない。滑らかな黒い鏡面のような未知の合金と、複雑に発光する回路のようなスリットが走る、巨大な建物の壁面。
上を見上げれば、そこには空など存在しなかった。幾重にも重なり合う空中回廊、そのさらに上空を、煙を上げることなく静かに飛行する魚のような形状の謎の乗り物が、無数に飛び交っている。
建物の壁面には、ホログラムと思しき巨大な三次元映像が浮かび上がり、奇妙なデザインの衣服をまとった男女が、見たこともない文字列の横で微笑んでいた。ネオンサインの色は、私が知るものよりも遥かに鮮烈で、青や紫、ピンクの光が、濡れた未知の床を毒々しく彩っている。
「な……何よ、これ……。どこよ、ここ……っ!?」
私は、ボロボロになった黒い魔導ローブの裾を引きずりながら、よろよろと路地裏の奥から表通りらしき場所へと這い出た。
押し寄せる音の洪水。
しかし、そのどれもが私の記憶にある「地球の音」とはかけ離れていた。車の走行音はなく、ただ低く不気味な駆動音が大気を震わせている。ガラスの向こうに見える店舗らしき場所には、人間ではない、金属の骨組みに人工の皮膚を貼り付けたようなアンドロイドたちが、無表情に作業をこなしていた。
そして、何よりも私を絶望させたのは、行き交う人々の姿だった。
彼らは一様に、身体の一部に機械を埋め込んでいた。あるいは、肌そのものが発光している者もいる。前世で見たSF映画に登場したサイバーウェアと呼ばれるような人工物が、ごく自然にファッションとして溶け込んでいるのだ。
すれ違う人々が、奇妙な衣服を着た私――銀髪のエルフの少女――を、怪訝そうな、あるいは珍しい物を見るような目で一瞬だけ一瞥し、すぐに手元の空中ディスプレイへと視線を戻して去っていく。
「嘘、でしょ……? 私は、日本に、家に帰る魔法を……っ!」
私は必死に、周囲の看板に躍る文字を凝視した。
漢字を探した。ひらがなを探した。せめてアルファベットでもいい。だが、そこに並んでいるのは、幾何学的で、線と点で構成された、まったく未知の記号だった。
耳を澄ませて、人々の会話を盗み聞きする。
「飛鳥」の記憶にある日本語、英語、あるいは千年の間に異世界で習得した数十の言語体系。そのどれを当てはめようとしても、彼らの言葉は完全に一致しなかった。金属質で、奇妙な抑揚を持つ、脳が理解を拒むような音声。
言語が、完全に変わってしまっている。
言葉が通じない。文字が読めない。風景のすべてが、私の知る地球の面影を粉々に打ち砕いていた。
「……ここは、本当に地球なの?」
それとも、私はまた別の、科学技術が高度に発達した異世界へ飛ばされてしまったのだろうか。
がくがくと膝の震えが止まらない。
千年間、ただ一つの心の拠り所だった「故郷」という概念が、足元から崩れ去っていく。
もしここが地球だとしたら、一体どれほどの時間が経過してしまったというのだろう。五百年? 千年? それとも、数千年? 長い時を経て、人類の文明はとんでもないくらいに進化したの?
私の知っている日本は、東京は、家族は、友達は。
――すべて、遥か太古の塵に還ってしまったというの?
「あ、あはは……っ。何それ、そんなの、あんまりじゃない……っ」
涙が、ボロボロと頬を伝って床に落ちた。
千年間、私は何のために生きてきたのだろう。何のために、あの孤独な日々を耐え抜いてきたのだろう。帰るべき場所は、もうこの宇宙のどこにも存在しない。その事実が、鋭い刃となって私の胸を容赦なく突き刺した。
追い打ちをかけるように、体内の魔力が完全に枯渇しかけていることに気づく。次元転移という神の領域の魔術を使ったのだ。魔力だけでなく、体力も、そして精神力も、とっくに限界を迎えていた。
視界がぐにゃりと歪む。周囲のネオンの光が混ざり合い、万華鏡のように激しく回転し始めた。
「だめ……息が、うまく……っ」
私は力なく、ふたたび薄暗い路地裏の壁に背中を預け、そのまま崩れ落ちた。
冷たい床の感触が、感覚の麻痺していく身体に妙に生々しく伝わる。もう、このままここで消えてしまってもいいかもしれない。そんな暗い思考が、急速に遠のいていく意識の隙間に滑り込んでくる。
目蓋が重い。ゆっくりと、視界が闇に包まれていく――。その時だった。
「――っ!? ――、――っ!?」
騒がしい、金属的な足音が路地裏に飛び込んできた。
歪む視界の向こう側、ピンクと紫のネオンの光を背負って、一人の人影がこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
シルエットからして、小柄な少女のようだ。
彼女は私の前に勢いよくしゃがみ込むと、信じられないほどの至近距離まで顔を近づけてきた。
栗色の短い髪。片方の耳には、怪しく明滅する紫色の通信インプラントのようなガジェットが装着されている。服装は、未来的で機能的なグレーのジャケットにショートパンツ、そしてその下には、夜の街でもひときわ目を引く、鮮やかな真っ赤なタイツを履いていた。
少女は、驚きと、そしてそれ以上に言葉では言い表せないほどの強烈な「興奮」を孕んだ瞳で、私を凝視している。
「――! ――、――!? ――っ!」
彼女が何かを捲し立てている。けれど、やはり私にはその言葉の意味が一つも理解できない。
ただのノイズにしか聞こえない音声。言葉が通じない恐怖に、私は思わず身を縮めようとした。
しかし、少女の行動は私の予想を遥かに超えていた。
「ひゃうっ!?」
突如、少女の両手が私の頭の両側に伸びてきた。そして、迷うことなく私の最大の秘密――尖ったエルフの耳を、細い指先で遠慮なしに、つんつんと触り始めたのだ。
「な、何するのよ……っ!? や、やめて……っ!」
少年としての記憶が残っているとはいえ、千年間を純粋なエルフの女性として生きてきた私にとって、耳は非常に敏感で、かつ他人に安易に触らせていい場所ではない。女性らしい、高い悲鳴が私の口から漏れる。
だが、少女は私の拒絶など耳に入っていない様子で、むしろその耳の感触を確かめるように、何度も何度も指を動かしている。彼女の目は完全に据わっており、まるで見たこともない大発見を目の当たりにした学者のように、爛々と輝いていた。
「――! ――っ! ――、――!」
少女の興奮は最高潮に達しているようだった。
言葉はわからない。けれど、彼女が私に対して敵意や悪意を持っているのではなく、むしろ異常なまでの興味と好意(?)を抱いていることだけは、その熱い視線から痛いほど伝わってきた。
触り心地に満足したのか、今度は私の両肩をがっしりと掴み、ぐいぐいと顔を近づけてくる。
ち、近い。近すぎる。
いくら今はエルフの女性でも、中身の根っこが元男子。こんな未来的な美少女に至近距離で顔を覗き込まれ、しかも妙にボディタッチが多いと、心臓が持ちそうにない。エルフとしての優雅な振る舞いなど、このカルチャーショックの前には何の役にも立たなかった。
「あ、あの……離れて……お願いだから……っ」
情けない声を出す私を、少女はふっと満足そうに微笑むと、今度は私の細い身体を、自分の小さな身体で驚くほどの力強さで抱き起こした。
そのまま、私の片腕を自分の首の裏に回し、しっかりと肩を貸して支えてくれる。
妙に人懐っこい、そして温かい体温が、私の冷え切った身体に伝わってきた。
少女は私の顔を見て、安心させるように何度も頷き、未知の言葉で短く語りかけた。その声のトーンだけは、不思議と「大丈夫、私に任せて」と言っているように聞こえた。
「あ……」
そこで、私の限界は本当に訪れた。
言葉も通じない、時代もわからない、絶望のどん底の超未来。
けれど、この妙にスキンシップの激しい、サイバーファッションな少女の腕の中だけは、皮肉にも今、この世界で唯一の、私が触れられた「確かな現実」だった。
私は少女に体重を預けたまま、今度こそ完全に意識を手放した。
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