幕間二 蘇る『兄』の思い★
深夜のセーフハウスは、静謐な超科学の光の海に沈んでいた。
都市の喧騒から完全に隔離されたこのサイバーでジャンクな部屋には、空調が吐き出す微かな風の音と、メインコンソールが量子データを処理する時に生じる超低周波の駆動音だけが、心地よいリズムを刻んでいる。
ベッドの端に腰掛けた私は、ステラから貸し出された未来の柔らかな銀色の部屋着を纏い、自身の細い指先をじっと見つめていた。
先日のサイバーギャングとの戦闘で、私は次元の壁を超えて初めてこの地球で攻撃魔術を解放した。
懸念していた大気中のマナの変質は、この未来世界ではむしろプラスに働いていた。街を埋め尽くす膨大な電磁波や、中央AIの放つ超高周波の通信ノイズ。それらが異世界の『マナ』と不思議な形で融合し、私のエルフの肉体へ驚くほどの速度で再吸収されていくのを感じていた。
「大魔導師としての出力は、むしろユトラントにいた頃より安定しているわね……。でも……」
私が本当に案じているのは、自分の魔力の残量などではなかった。
視線を部屋の中央、ホログラムディスプレイの光に全身を照らされている少女へと向ける。
ステラ。
この見知らぬ三千年後の超未来で、行き場を失い倒れていた私を救い、そして私の突飛な身の上話をすべて信じてくれた、大切な十七歳の少女。
彼女は、手に入れた十万クレジットのチップを無造作にデスクに放り出したまま、かれこれ数時間以上も同じ姿勢でコンソールに向かい続けていた。
空中を埋め尽くす幾百もの半透明の画面には、次なる非合法サルベージの標的である『水没した旧時代の海上研究施設』の、堅牢極まる多層防壁プログラム(セキュリティ)のコードが、凄まじい速度でスクロールしている。
「……だめ、まだ繋がらない。中央AIの末端ノードが、このセクターの量子通信を毎コンマ数秒単位で自動暗号化してるわ。私の特製プロトコルでも、あと三つの階層を突破するのに、演算能力が追いつかない……っ」
ステラが短い栗色の髪をガリガリと掻きむしり、手首の端末を叩く。
その横顔を盗み見て、私は小さく胸を痛めた。彼女の琥珀色の美しい瞳は、ホログラムの青い光を浴びすぎて完全に充血しており、その愛らしい目元には、隠しきれない疲労の影が深く刻まれている。トレードマークの真っ赤なタイツを履いた脚も、いつもの軽快さを失って、どこか痛々しく椅子の脚に絡みついていた。
完璧な効率を誇る未来世界。
ナノマシンによる肉体管理。けれど、彼女の精神そのものは、私と同じ生身の、不完全な十七歳の少女のままなのだ。息詰まり、限界を迎えつつある彼女の背中が、どうしようもなく小さく見えた。
「――ステラ」
私はベッドからふわりと足を下ろし、音もなく彼女の背後へと歩み寄った。
すっかり染み付いた、鈴を転がすような女性の声で、静かに彼女の肩に手を置く。
「たまには休憩しなさい。もう脳の演算能力が限界を迎えているわよ」
「……あ、ルナ。ううん、大丈夫、あと少しで、このプロテクトの脆弱性が見つかるはずだから。これが終わらないと、次の海底遺跡の座標が確定できなくて……」
ステラは振り返りもせず、充血した目で画面を凝視し続ける。その指先は微かに震えていた。
頑固な子。けれど、その頑なさは、私という「生きた神話」を少しでも早く、完璧にアーカイブ化して守りたいという、彼女なりの優しさと焦りの裏返しであることを、私は痛いほど知っていた。
ただの「ルナリア」なら、ここで諦めてベッドに戻ったかもしれない。けれど、私の魂の奥底に眠る「五十鈴飛鳥」としての記憶が、この状況をどうしても放っておけなかった。
(……しょうがないな。お兄ちゃんの出番、ってわけじゃないけれど)
前世の記憶が、鮮やかに脳裏を過る。
二十一世紀の日本。
私は――飛鳥は、二歳下と四歳下の二人の妹を持つ、三兄妹の長男だった。
共働きの両親に代わって、私は幼い頃から妹たちの面倒を見ていた。妹たちが転んで膝をすりむいて泣き叫んだとき。あるいは、夜中に突然高い熱を出して、不安そうに私の服の裾を掴んで震えていたとき。
私がいつも、彼女たちのためにしてあげていた、素朴で、不器用な、けれど確かな温もりを持つ『おまじない』の数々。
「ステラ。端末の操作を止めなさい。これは、大魔導師としての命令よ」
「え、あ……ルナ……?」
私の少し強い口調に驚いたのか、ステラがようやくキーボードから手を離し、不思議そうに私を振り返った。
私は迷うことなく、ステラのスツールのすぐ横に膝をつき、彼女と視線の高さを合わせる。そして、エルフの細い両手で、彼女の驚きに強張る顔を優しく包み込んだ。
――近い。
至近距離で見つめ合う形になり、私の心の中の少年が「うわ、女の子の顔がこんな近くに!」と一瞬パニックを起こしかけたが、兄としての使命感がそれを強引にねじ伏せる。
「ル、ルナ……? 何、急に……。またアーカイブの質問? それなら、このハッキングが――」
「静かに。ステラ、君は今、頭を使いすぎて脳が熱を持っているわ。……ほら、ちょっと失礼するわね」
私はそっと、自分の右手をステラの額へと当てた。
私の肌はエルフの特性として、常にほんのりと冷涼な体温を保っている。一方で、限界までハッキングに没頭していたステラの額は、驚くほど熱く火照っていた。
「こうして、おでことおでこ……ううん、おでこに手を当てて、熱を測るの。私のいた過去の地球ではね、体調の悪い家族に、こうして直接触れて、相手の辛いところを確かめる文化があったのよ」
「……あ……」
ステラの琥珀色の瞳が、信じられないものを見たかのように丸くなった。
今の未来世界では、体調不良や脳の疲労など、体内のナノマシンが数秒で数値を検出し、自動で適切な薬剤パルスを投与して終了する。他人の「生身の手」の冷たさを、これほどの至近距離で、ただの熱測定のために額に受けるという経験など、ステラの十七年の人生には、ただの一度も存在し得なかったはずだ。
「うん、やっぱり凄く熱いわ。これじゃあバグなんて見つかるはずがないわ。……よし、それじゃあ、次のおまじないね」
私はステラの額から手を離すと、今度は彼女の、キーボードを叩きすぎて赤く強張った両手を、自分の手のひらで優しく包み込み、ゆっくりと摩り始めた。
「飛鳥だった頃、妹たちが痛がったり、疲れたりした時に、いつもこうしてあげていたのよ。――痛いの、痛いの、飛んでいけ、って」
「タイの……タイの、トンデイケ……? 何、それ……、新しい魔法の、詠唱、なの……?」
ステラは完全に思考がフリーズしたような声で、たどたどしく私の言葉を繰り返した。その顔が、ネオンの光とは明らかに違う、内側から湧き上がるような純粋な赤みで、じわじわと染まっていく。
「魔法じゃないわよ。ただの言葉。でもね、大切な人が『痛くなくなれ、元気になれ』って心を込めて、直接肌を摩ってあげることで、不思議と本当に痛みが和らぐの。科学的な根拠なんて何もない、三千年前の素朴なおまじない。……どう? 少しは、楽になった?」
私は兄としての無自覚な、包み込むような優しい笑顔を浮かべながら、ステラの手の甲を優しく親指で撫でた。
中身が男だとか女だとか、そんな境界線は今の私には関係なかった。ただ、目の前の愛おしい相棒を、自分の知る方法で癒やしてあげたかったのだ。
しかし――。
次の瞬間、部屋の空気が、これまでにないほど妙な熱を帯びて静止した。
「……ステラ?」
私が首をかしげると、目の前の少女は、文字通り「完全に茹で上がったアンドロイド」のようになって固まっていた。
いつもなら露出の高い服を私に着せてゲラゲラと笑い、距離感ゼロで抱きついてきて、私を童貞男子高校生のようにドギマギさせていた、あの攻め気全開のステラが。
今は、顔どころか、耳の先、そして首元までを真っ赤に染め上げ、瞳を激しく泳がせながら、カタカタと小刻みに震えていたのだ。彼女の短い栗色の髪が、恥ずかしさのあまり本当に逆立っているように見える。
「あ、あう、あ……ううう、うわぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
数十秒のフリーズの後、ステラは突然、この世の終わりかのような大音量で叫ぶと、私の手を振り払って、ベッドの上へとダイブした。そして、枕を両手で抱え込み、そこに顔を思いっきり埋めて、足をバタバタと激しく暴れさせ始めた。
「な、なになになに今の……っ!? ずるい、ずるいよルナ……っ! 何その、破壊力抜群の包容力……っ!? そんなの、私のデータベースのどこにも登録されてないよおぉぉぉ!」
「えっ!? ちょ、ちょっとステラ、どうしたのよ急に!?」
今度は私の方が、彼女の突然の奇行にパニックを起こして立ち上がった。
ステラは枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で猛烈に捲し立てる。
「だって……っ! いつもは私がからかって、ルナが可愛く照れる役割だったのに……っ! 今のルナ、なんか、もの凄く『お兄ちゃん』っぽくて……、っていうか、完全にイケメンのムーブだったじゃない……っ! 不意打ちの生身のスキンシップなんて、私の心臓のバイオポンプが過負荷で爆発しちゃうよ!」
「お、お兄ちゃんって……、まあ、実際兄だったけれど……」
私は自分の頬を指先で触りながら、エルフの耳の先がみるみるうちに熱くなっていくのを感じた。
無自覚だった。
飛鳥としての、妹たちをあやす時の「兄属性」の優しさが、そのままルナリアとしての美少女の姿で出力されてしまったのだ。
絶世の美少女エルフの姿で、中身の長男な優しさを至近距離で注がれたのだから、未来のウブなオタク少女にとって、それがどれほどの「致命傷(ギャップ萌え)」になったか、私はようやく理解して、途端に猛烈な恥ずかしさがブーメランのように自分に返ってきた。
「う、うわぁぁん! ルナのバカ! もう、あんな優しい顔で触るの禁止! 私のハッキング脳が完全に初期化されちゃったじゃない!」
「な、何よそれ! 私はステラが心配で、良かれと思っておまじないをしただけなのに……っ!」
ベッドの上で枕に顔を埋めて悶絶するステラと、作業台の横で顔を真っ赤にしてお腹を隠すように身を縮める私。
攻守が完全に逆転した、あまりにもウブで、甘酸っぱい未来の夜。
しかし、ステラが暴れた拍子に、彼女の手首の端末から放たれたホログラムディスプレイが、誰も操作していないはずの空間で、カチリと澄んだ音を立てた。
「……え?」
ステラが枕から顔を上げた。
画面を見ると、先ほどまで彼女がどれほど演算を仕掛けても突破できなかった、海底遺跡の第三暗号階層の防壁が――何故か、完全に『解除』されていた。
「う、嘘……。プロトコルが、通ってる……? どうして……?」
ステラが呆然とベッドから這い出てくる。私も画面を凝視した。
解析データのログには、驚くべき事実が記されていた。ステラが私の「おまじない」によって完全にフリーズし、端末へのアクセスを完全に停止していたその数十秒間。彼女の脳内ナノマシンが放つ過度なノイズ(焦り)が完全に消失したことで、ハッキングプログラムが「最も効率的な自動演算」を狂いなく実行し、中央AIの死角を完璧に突いたのだ。
三千年前の素朴なおまじないが、未来の超科学のハッキングを、最も完璧な形で成功させてしまった瞬間だった。
「……あはは。本当に、おまじないが効いちゃったみたいだね、ルナ」
ステラは顔の赤みを残したまま、少し照れくさそうに笑い、膝を折って私の顔を見上げた。
私はその彼女の可愛い笑顔を見て、尖った耳をピクリと揺らしながら、今度はルナリアとしての優雅な微笑みを返した。
「ええ。等価交換の契約は、これでまた一歩進んだわね。――さあ、ステラ。私たちの、次の冒険の舞台(座標)を教えて?」
過去と現在、そして異世界。三つの世界が交わるセーフハウスの夜明けの光の中で、私たち二人の十七歳の絆は、誰も引き裂くことのできない確かなものへと、いっそう深く、甘く、駆動し始めていた。
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