第74話 兄が守ったもの
74話です。
紙は床一面に散らばったままだった。
誰も拾わない。
誰も「片付けよう」とは言わない。
それだけのことなのに、この家では初めて見る光景だった。
母は散らかった部屋が嫌いだった。
父は物を元の場所へ戻すことを何より大切にしていた。
そして俺は、その二人を見て育った。
だから、散らばった紙を見ているだけで落ち着かなかった。
指先が動く。
無意識に角を揃えようとする。
その瞬間だった。
兄の手が、そっと俺の手首をつかんだ。
力は入っていない。
それでも、その手は不思議なくらい動かなかった。
「まだだ。」
兄は小さく笑った。
「今は片付ける時間じゃない。」
その一言で、俺の中の何かが止まる。
そうか。
俺はまた、終わらせようとしていた。
見なくていいように。
苦しくないように。
元へ戻そうとしていた。
兄は床へ座り込み、一枚の紙を手に取った。
病院の診断書。
事故当日の記録。
そこには時間だけが淡々と並んでいる。
兄はゆっくり読み終えると、その紙を俺へ渡した。
「これ、何が書いてある?」
俺は目を落とす。
転落。
搬送。
意識。
診断。
それだけだった。
「事故だ。」
思わずそう言う。
兄は首を振る。
「違う。」
兄は診断書の端を指さした。
「見ろ。」
小さな文字だった。
『搬送時の状況は同行者からの申告による。』
同行者。
俺は息を止める。
兄は静かに言った。
「医者は見てない。」
「先生も見てない。」
「警察も見てない。」
「みんな、人から聞いた話を書いてる。」
俺はもう一度紙を見る。
本当にそう書いてある。
兄は床に散らばった書類を見回した。
「全部そうなんだ。」
事故報告書。
学校への提出書類。
市への記録。
保険会社の書類。
全部、人が誰かから聞いたことを書いている。
誰一人、あの日を見ていない。
兄は笑った。
その笑顔は悲しかった。
「俺だけだった。」
部屋が静まり返る。
「俺だけが見てた。」
母が顔を上げる。
涙で赤くなった目が兄を見る。
兄は続けた。
「だから怖かった。」
「俺が何を言うかで、お前の人生も、母さんの人生も、全部変わると思った。」
兄は紙を置く。
震える手だった。
「だから、事故だって言った。」
父が唇を噛む。
兄は父を責めない。
母も責めない。
ただ、自分のことだけを話している。
「先生は何度も聞いた。」
『本当にそうだった?』
『他に誰かいなかった?』
『弟は何をしてた?』
兄はゆっくり首を振る。
「あの日、一番最初に嘘をついたのは先生じゃない。」
静かな声だった。
「俺だ。」
母が嗚咽を漏らす。
兄は優しく笑う。
「でもな。」
その笑顔は、俺が小さい頃に見た兄そのものだった。
「二回目からは違う。」
兄の視線が棚へ向く。
「俺の嘘を、大人が正解にした。」
その一文が、家中に響く。
「誰も確認しなかった。」
「誰も止めなかった。」
「みんな、助かったと思った。」
兄は自分の胸を指さす。
「俺も助かった。」
次に母を見る。
「母さんも助かった。」
父を見る。
「父さんも助かった。」
最後に俺を見る。
「でも、お前だけは違った。」
俺は顔を上げる。
兄の目には涙が浮かんでいた。
「お前は、助かったんじゃない。」
「俺の嘘を、生きることになった。」
その瞬間、世界が止まった。
事故を隠した。
そう思っていた。
違う。
俺は兄の嘘を相続した。
その嘘を”正しさ”として育った。
だから誰よりも整理し、
誰よりも波風を嫌い、
誰よりも早く「大丈夫」と言える人間になった。
それは性格じゃなかった。
生き残るために身についた、生き方だった。
兄が立ち上がる。
窓を開ける。
夜風が部屋へ流れ込む。
床の紙が何枚か揺れる。
今までなら押さえていた。
飛ばないように。
乱れないように。
でも誰も動かない。
兄は夜空を見たまま言った。
「もう俺の番は終わりだ。」
振り返る。
穏やかな顔だった。
「次は、お前が選べ。」
「俺の嘘を守るか。」
「俺を裏切るか。」
少し笑う。
「どっちでもいい。」
「でも、自分で決めろ。」
その言葉を聞いた瞬間、俺は初めて兄の背中が大きく見えた。
あの日、川で見た背中とは違う。
何十年も俺の前に立ち続け、全部の視線を受け止めながら、それでも一度も俺を責めなかった兄の背中だった。
そして、その背中は今、静かに俺の前からどこうとしていた。
誤字脱字はお許しください。




