第75話 届かなかった一通
75話です。
翌朝、床の紙はそのままだった。
夜中に誰かが片付けるだろうと思っていたし、正直に言えば、朝になってリビングへ下りたときには、いつものように棚の一番下へ全部が戻され、角を揃えられ、昨夜の出来事そのものが「話し合って解決したこと」として家の中から消えているのではないかとも思っていた。
けれど、違った。
診断書はテーブルの脚のそばに落ちたまま。
学校から届いた古い通知はソファの下へ半分入り込み、市役所の封筒は裏返しになって畳の上に転がり、兄が最後に持っていた事故報告書だけが、昨夜と同じ場所に置かれている。
乱れている。
ひどく、乱れている。
なのに、不思議と嫌ではなかった。
母は台所にいた。
目が腫れている。
父は新聞を読んでいなかった。
兄はいない。
帰ったらしい。
誰も昨夜の続きを口にしないまま、母が味噌汁を置き、父が箸を取り、俺も椅子へ座った。
三人になった食卓は、兄が来る前より狭く感じた。
食べ始めてしばらくしてから、母が言った。
「学校、行くの?」
俺は顔を上げた。
「行くよ。」
「そう。」
それだけだった。
以前なら、そこで終わっていた。
だから俺も終わらせかけた。
味噌汁へ視線を戻し、豆腐を箸で崩しかけて――やめた。
「母さん。」
母の手が止まった。
「何?」
「一番最初の書類って、どれ?」
父がこちらを見る。
母は答えない。
「川の事故の、一番最初。」
「昨日、見たでしょう。」
「違う。」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「病院の紙でも、学校の報告書でもない。」
母の顔から、わずかに表情が消える。
「最初に家へ来たもの。」
沈黙が落ちた。
父が椅子にもたれる。
母は味噌汁の椀を見ていた。
そして、ほんの少しだけ唇を動かした。
「……手紙。」
胸の奥で何かが鳴った。
「手紙?」
母は答えない。
代わりに父が言った。
「もういいだろ。」
その言葉を、俺は何度聞いただろう。
もういい。
終わった。
整理した。
事故だった。
大丈夫。
全部、同じ方向を向いている。
俺は父を見る。
「よくない。」
父の眉が動いた。
たぶん、生まれて初めてだった。
この家で俺が「終わり」を拒んだのは。
「その手紙、どこ?」
母が顔を上げた。
「ないわ。」
「捨てた?」
「……違う。」
「じゃあ、どこ?」
母は答えない。
けれど、その沈黙は昔の沈黙とは違った。
隠すためではなく、思い出そうとしている。
長い時間が過ぎた。
時計の秒針だけが聞こえた。
やがて母が、ぽつりと言った。
「届かなかったの。」
意味が分からなかった。
「何が?」
「手紙。」
母は両手を膝の上で握った。
「うちに来るはずだった手紙が、別の家に届いたの。」
息が止まった。
誤配。
ずっと前。
俺がまだ、この町の出来事を集め始めるより前に引っかかった、小さな違和感。
住所は似ていた。
番地が一つ違った。
郵便受けへ入れられた封筒を、近所の人が翌日になって持ってきた。
ただの間違い。
そう説明された。
俺自身も、途中からそう思うようになった。
けれど。
「誰の手紙?」
母の目が揺れた。
「学校の先生。」
今度こそ、箸が手から落ちた。
小さな音だった。
なのに父が目を閉じた。
知っている。
「何が書いてあったの。」
「読んでない。」
母はすぐ答えた。
「嘘。」
自分の口からその言葉が出た瞬間、母の顔が歪んだ。
俺は続ける。
「母さん、読んだよ。」
「……どうして。」
「読んだから残した。」
母の目から涙が落ちる。
それで十分だった。
俺は立ち上がった。
学校へ行かなければならない時間だったが、鞄を持つ気にはならなかった。
代わりに、昨夜散らばった紙を見る。
この中にはない。
棚にもない。
押し入れの段ボールにも、おそらくない。
だったら。
どこへ行った。
その瞬間、昔の風景が一つ戻ってきた。
バス。
雨の日。
俺は母と乗っていた。
まだ小さかった。
後ろの席で、母が白い封筒を握っている。
俺は窓の水滴を指で追っている。
母が途中で降りる。
いつもの停留所ではない。
俺も降りる。
知らない道。
小さな家。
郵便受け。
母が何かを入れる。
――違う。
入れたんじゃない。
返した。
俺は母を見る。
「返したんだ。」
母の肩が震えた。
「手紙。」
何も答えない。
「先生に返した。」
父が低い声で言った。
「やめろ。」
今度は父を見る。
「父さんもいた?」
「やめろと言ってる。」
「いたんだ。」
父が立ち上がる。
椅子が大きな音を立てて後ろへ倒れた。
母がびくりとする。
けれど、俺は動かなかった。
怖くなかった。
いや、怖かった。
それでも、今までのように先に静かにすることのほうが、もっと怖かった。
父は俺を睨んでいた。
「何がしたい。」
その問いだけは、すぐに答えられなかった。
先生を責めたいのか。
父と母を責めたいのか。
兄の嘘を暴きたいのか。
事故ではなかったと証明したいのか。
どれも違う気がした。
だから、そのまま言った。
「分からない。」
父の顔が少し変わった。
俺は続ける。
「分からないから、知りたい。」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
分からない。
今までなら、一番嫌いだった言葉だ。
分からないものは危険だった。
だから事故にした。
だから整理した。
だから棚へ入れた。
けれど今は違う。
分からないなら、分からないまま見ればいい。
破片のまま拾えばいい。
無理に完成させなくていい。
母が泣きながら言った。
「手紙は……返してない。」
俺は母を見る。
「え?」
「返そうとした。」
母は唇を噛んだ。
「バスに乗って、先生の家まで行った。でも……できなかった。」
あの記憶。
知らない停留所。
雨。
小さな家。
そこまでは合っている。
「じゃあ。」
母が立ち上がる。
その足取りは重かった。
リビングの隅に置かれた古い裁縫箱を持ってくる。
見覚えがある。
何度も見た。
母がボタンを付けるときに使っていた、何の変哲もない木箱。
蓋を開ける。
糸。
針。
古いボタン。
母は中皿を外した。
その下に、薄い空間があった。
白い封筒が、一通。
何十年もそこにあった。
俺は息をするのを忘れた。
母が封筒を取り出す。
端は黄色く変色している。
宛名。
父の名前。
差出人。
先生の名前。
そして封筒の右上に、赤い文字。
小さな印。
俺は顔を近づけた。
「……転送?」
母が首を振る。
「違う。」
封筒を裏返す。
そこには鉛筆で、別の住所が書かれていた。
見覚えがある。
昔、誤配された家。
母が言った。
「最初から間違って届いたんじゃないの。」
背中が冷たくなる。
「一度、誰かが受け取ってる。」
父が椅子へ座り直した。
顔を覆う。
「やめろ……。」
母はもう止まらなかった。
「封は、私が受け取ったときには開いてた。」
部屋から音が消えた。
俺は封筒を見る。
誤配。
ずっと、小さな偶然だと思っていた。
違った。
この手紙は、一度この家の外へ出ている。
誰かが読んだ。
そして、こちらへ戻した。
「誰が最初に受け取ったの。」
母は首を振る。
「知らない。」
「家の人は?」
「引っ越した。」
その瞬間、もう一つの記憶が戻った。
バスの中。
俺と母。
雨。
途中から乗ってきた男。
母が顔を伏せた。
俺はその男を知っていた。
いや。
今になって分かった。
学校で何度も見た。
職員室。
廊下。
川の事故のあと。
そして――。
俺は母を見る。
「先生じゃない。」
母の顔が強張る。
「何?」
あの日、バスに乗ってきた男。
先生ではない。
もっと若かった。
俺たちを見て、一度だけ目を逸らした。
その顔が、今の顔と重なる。
ずっと近くにいた。
最近も会っている。
俺の話を聞いた。
俺の説明を「助かる」と言った。
俺に紙を渡した。
俺に整理させた。
口の中が乾く。
「市の人だ。」
母が息を呑んだ。
父が顔を上げた。
俺の頭の中で、数十年分の破片が一斉に動いた。
誤配。
バス。
学校。
川。
報告書。
市役所。
「助かった」という言葉。
そして、何度も同じ書式で繰り返されてきた事故処理。
あの人は途中から来たんじゃない。
最初からいた。
いや。
もっと正確に言えば。
最初の一件を知っていた人間が、今も同じ仕組みの中にいる。
俺は白い封筒を手に取った。
母が止めなかった。
父も止められなかった。
兄が昨夜言った言葉が蘇る。
――自分で決めろ。
封筒から便箋を抜く。
折り目を開く。
そこには、報告書とはまるで違う、急いで書いた文字が並んでいた。
最初の一行を読んだ。
そして俺は、そこで初めて。
この物語が、兄の事故から始まったのではないことを知った。
便箋には、こう書かれていた。
『昨日の件について、事故として報告する前に、どうしてもお伝えしなければならないことがあります。』
その下。
二行目。
俺は読んだ。
読んでしまった。
そして、ゆっくり顔を上げた。
「……父さん。」
父は答えなかった。
俺はもう一度、二行目を見る。
そこには。
あの日、川にいたはずのない人間の名前が書かれていた。
だんだん、一話が長くなって申し訳ありません。




