第73話 崩れた先にあるもの
73話です。
床へ落ちた紙は、一枚だけだった。
それなのに、その乾いた音は何十年も閉じられていた扉を内側から蹴破るように家中へ響き渡り、誰も身じろぎひとつできないまま、その小さな紙切れだけが畳の上をゆっくり滑って止まるのを見つめていた。
母は泣いていた。
静かではない。
声を殺そうとしても殺しきれず、長い年月を押し込め続けた人間だけが漏らすことのできる苦しい息とともに、肩を震わせながら涙を流していた。
「違うの……違うのよ……。」
その言葉は俺たちへ向けられたものではなかった。
あの日の自分へ向けた言葉だった。
兄はゆっくりと母の前へ歩いていく。
怒っている顔ではない。
責める顔でもない。
疲れ切った人間が、ようやく長い坂を登りきったような表情だった。
「母さん。」
兄がそう呼ぶと、母は小さく首を振った。
「ごめんなさい。」
兄は首を横に振る。
「違う。」
その一言だけで、部屋の空気が変わった。
「俺は謝ってほしいんじゃない。」
兄は母の目を真っ直ぐ見つめる。
「俺は知りたかっただけなんだ。」
「どうして誰も、本当のことを言ってくれなかったのか。」
母は顔を覆った。
父は壁にもたれたまま目を閉じている。
兄は続けた。
「俺はずっと、自分が全部壊したと思って生きてきた。」
「だから、学校でも。」
「友達にも。」
「会社でも。」
「誰かと揉めそうになるたびに、先に謝る癖がついた。」
兄は笑う。
苦しいほど静かな笑顔だった。
「俺が悪いんだと思えば、終わるから。」
その言葉が胸を貫く。
俺も同じだった。
揉め事が起きれば、先に整える。
誰かが困れば、先に説明する。
波風が立ちそうになれば、先に自分を納得させる。
違う人生を歩いてきたはずなのに、俺たちは同じ場所へ辿り着いていた。
父がようやく口を開く。
「守りたかった。」
その声は震えていた。
「お前たちを守りたかった。」
兄は静かに問い返す。
「誰から。」
父は答えられない。
代わりに母が、小さく言った。
「世間から。」
その一言で、何かがはっきりした。
事故を隠したかったわけではない。
誰かを悪者にしたかったわけでもない。
ただ、あの日から始まる終わりの見えない視線や噂や憶測から、まだ幼かった俺たちを守ろうとした。
そのために、大人たちは一つの順番を選んだ。
その順番は、最初は包帯だった。
けれど年月が経つにつれて、包帯は皮膚になり、皮膚は骨になり、俺たちはそれが自分自身だと思い込むようになっていた。
兄が棚へ近づく。
透明な袋を一つ、また一つと取り出していく。
今まで誰も崩さなかった並びが、静かに崩れていく。
俺は止めなかった。
止められなかった。
兄は床へ紙を広げる。
事故報告書。
学校とのやり取り。
市への提出書類。
病院の記録。
家族のメモ。
全部が一枚一枚、別々の紙だった。
それなのに俺たちは、それを一つの真実だと思い込んでいた。
兄が笑う。
「パズルだったんだな。」
俺は床に散らばった紙を見る。
一枚だけでは何も分からない。
だが、並べ方を変えると、まったく違う景色が現れ始める。
その瞬間、タイトルの意味が胸へ落ちた。
破片だった。
最初から、全部。
俺たちは完成した絵を見せられていたんじゃない。
拾い集めた破片を、一つの形に並べ替えられていただけだった。
そして、その並べ方は一つじゃなかった。
兄が俺を見る。
「ここから先は、お前が決めろ。」
「本当の順番を作るのか。」
「それとも、もう順番なんかいらないのか。」
俺は床へ散らばった紙の真ん中へ座る。
一枚一枚を手に取る。
もう角を揃えようとは思わなかった。
初めてだった。
整えないまま、紙を読むのは。
窓の外で風が吹いた。
少しだけ開いていた窓から入り込んだ風が、一枚の紙をふわりと浮かせる。
その紙は棚ではなく、部屋の真ん中へ落ちた。
誰も拾わなかった。
もう、拾って元へ戻す物語ではない。
ここからは、自分たちの手で並べ直す物語だ。
誤字脱字はお許しください。




