第72話 最後の嘘
72話です。
紙が、震えていた。
違う。
震えているのは紙じゃない。
俺の手だった。
部屋の空気が、誰かの首を絞めるように静まり返る中で、誰もその紙を奪おうとはしなかった。ただ一枚の古びた書類が、今まで家族全員で守り続けてきた時間そのものを裂き始めていることを、本能で理解してしまったからだ。
兄は紙を見つめたまま動かない。
母は椅子に手をつき、肩を震わせている。
父だけが、ゆっくり立ち上がった。
その顔を見て、俺は初めて知った。
父も知っていた。
知らなかった人間の顔ではない。
何年も何十年も、胸の奥に石を抱えた人間の顔だった。
「……誰が、書いた」
兄の声は低かった。
怒鳴っていない。
だからこそ、部屋の隅々まで届いた。
父は答えない。
母が涙を拭こうとする。
その手を兄が止めた。
「母さんじゃない。」
母の肩が跳ねる。
「この字じゃない。」
兄は紙を裏返した。
裏面には何もない。
だが兄は迷わず言った。
「先生だ。」
その瞬間だった。
俺の頭の奥で、長い間閉ざされていた扉が、軋む音を立てて開き始めた。
⸻
水の音。
夏だった。
暑かった。
兄は笑っていた。
「早く来いよ。」
俺は走っていた。
石につまずく。
転ぶ。
兄が振り返る。
笑う。
その笑顔だけは、今でも鮮明だった。
次の瞬間。
誰かが叫ぶ。
その声は兄じゃない。
大人だった。
振り向いた兄が、足を滑らせる。
川岸の土が崩れる。
身体が傾く。
水しぶき。
そこから先だけが、ずっと白かった。
⸻
俺はその場に膝をついた。
呼吸ができない。
違う。
今まで覚えていた順番が、全部逆だった。
俺は兄を押していない。
兄も俺を押していない。
最初にいたのは兄。
そのあと俺。
そして――。
「先生……。」
思わず口から漏れた。
兄が顔を上げる。
「思い出したか。」
俺は答えられない。
母が泣き崩れる。
「違うの……。」
父が目を閉じた。
長い沈黙のあと、初めて口を開く。
「学校が決めた。」
部屋の空気が止まる。
「え……。」
父はゆっくり続けた。
「あの日、お前たちは子どもだった。」
「教師が言った。」
『子どもの証言は揺れる。』
『順番を一つにしましょう。』
『そのほうが誰も傷つかない。』
誰も傷つかない。
その言葉が、家の壁に何度も反響する。
兄は乾いた笑いを漏らした。
「そうか……。」
「俺が作ったと思ってた。」
父は首を横に振る。
「違う。」
「先生が作った。」
「母さんは守った。」
「俺は黙った。」
父の視線が俺へ向く。
「そして、お前は受け継いだ。」
その瞬間、棚が目に入る。
一番下の段。
透明な袋。
整えられた角。
あれは証拠じゃなかった。
教育だった。
正しい順番。
正しい説明。
正しい沈黙。
その三つを繰り返し教え込まれ、俺はそれを「普通」だと思うようになった。
兄が立ち上がる。
棚の前まで歩く。
そして、袋を一つ手に取った。
母はもう止めなかった。
兄は静かに言う。
「これを壊したら。」
俺が続ける。
「家族は壊れる。」
兄は笑う。
「違う。」
その笑顔は、子どもの頃に見た笑顔と同じだった。
「家族は、やっと始まる。」
その一言で、胸の奥に積もっていた何かが音を立てて崩れた。
母が泣きながら兄の名前を呼ぶ。
父は顔を覆う。
俺は棚の前へ歩いた。
透明な袋を両手で持つ。
軽い。
あまりにも軽い。
なのに、この家の人生より重かった。
兄が俺を見る。
もう確認の目じゃない。
託す目でもない。
ただ、弟を見る兄の目だった。
「終わらせよう。」
俺は静かに息を吸う。
そして、透明な袋の口を開いた。
紙が一枚、床へ落ちる。
その音は、小さかった。
けれど俺には、世界中の何より大きな音に聞こえた。
色々とありすぎて、更新できませんでした。




