第71話 崩れる順番
71話です。
棚の前に立ったとき、部屋の温度が一度だけ下がったような気がした。
実際に空気が変わったのか、それとも自分の呼吸が浅くなったせいなのかは分からない。
ただ、背中のどこかに冷たいものが触れているような感覚があり、その理由を考えようとすると、思考が途中で止まってしまう。考えるより先に身体が動くような、不思議な感覚だった。
母の声が後ろから届く。
「お願い……やめて」
かすれた声だった。
普段の母の声とは違う。
整理しているときの、あの冷静な声ではない。
俺は振り返らない。
振り返ったら、たぶん手が止まる。
棚の一番下の段。
透明な袋が、いつもと同じように整然と並んでいる。
紙の角が揃っている。
高さも揃っている。
この並びは、ずっと正しかった。
正しいから、ここまで続いてきた。
兄が言った。
「それ、ずっと守ってきたんだろ」
声は落ち着いていた。
責めているわけでもない。
ただ事実を確認するような口調だった。
「お前が最後なんだよ」
最後。
その言葉の意味が、ゆっくりと胸の奥に落ちる。
兄。
母。
そして俺。
三人で守ってきた順番。
最初に壊れたのは兄だった。
今日、外に出た。
残っているのは、俺と母。
つまり、今ここで順番を守れるのは、俺しかいない。
母がまた言う。
「触らないで」
声が震えている。
その震え方は、俺が今まで見たことのないものだった。
母はいつも冷静だった。
整理する人だった。
だが今、母は整理していない。
守ろうとしている。
俺は初めて気づく。
この棚は、母が作ったものじゃない。
母は、守っていただけだ。
最初に作ったのは――
兄だ。
兄の事故の書類を持ち上げる。
紙は軽い。
だが、その重さが指に伝わる。
兄が言った。
「それ、俺が書いた」
母が息を呑む。
「やめて!」
兄は続ける。
「先生に聞かれたとき、俺が順番を決めた」
俺は紙を見る。
転落事故。
発見者。
状況。
完璧に揃っている。
揃いすぎている。
兄は静かに言う。
「俺が書いた最初の嘘だ」
沈黙。
母が小さく首を振る。
「違う……」
だが、兄は止まらない。
「俺が先に見たとき、まだ生きてた」
その言葉で、部屋の空気が崩れる。
母が椅子に手をつく。
「……違う」
だが声は弱い。
兄の声は、逆に落ち着いていく。
「怖かったんだ」
その言葉は、怒りでも告白でもない。
ただの記憶だった。
「俺が押したと思われると思った」
俺の視界の奥で、川の光景がゆっくり浮かぶ。
水。
石。
濡れた背中。
兄は続ける。
「だから順番を作った」
その一文で、すべてがつながる。
事故。
説明。
沈黙。
全部、順番だった。
母が泣きそうな声で言う。
「あなたは悪くない」
兄は笑った。
「違うよ」
その笑いは乾いていた。
「俺は悪くないかもしれない」
一瞬の間。
「でも嘘はついた」
そして、俺を見る。
「お前はそれを守った」
心臓が強く鳴る。
俺は袋を持ったまま立っている。
兄の言葉は続く。
「母さんは守った」
「俺は作った」
「お前は続けた」
部屋が静かになる。
三人の位置が、はっきり見える。
母。
兄。
俺。
順番。
兄が言う。
「これ、終わらせろ」
その言葉は命令ではない。
依頼でもない。
託しだった。
母が叫ぶ。
「やめて!」
涙が落ちる。
その姿を見たのは、初めてだった。
だが、その瞬間に理解する。
母は嘘を守っていたわけじゃない。
家を守っていた。
棚を見る。
透明な袋。
揃った角。
完璧な並び。
これを守れば、全部続く。
兄も守られる。
母も守られる。
俺も。
だが、兄は言った。
終わらせろ。
俺の手が、少し動く。
袋を棚に戻すこともできる。
触らないこともできる。
だが。
そのとき、俺は初めて気づく。
棚の奥。
一番後ろに、
もう一つ紙がある。
見たことのない紙。
兄がそれを見る。
小さく言う。
「……あれ?」
母の顔が凍る。
俺はその紙を引き出す。
古い。
封が開いている。
震える字。
そこに書かれていたのは、一行だった。
「押したのは弟」
時間が止まる。
兄が動かない。
母が崩れる。
そして、初めて理解する。
順番は、
ずっと前から
間違っていた。
俺の手の中の紙が震える。
川の光景が、はっきり浮かぶ。
低い視線。
押された背中。
水の音。
兄は呟く。
「……そうか」
その声は、驚きではなかった。
ただ、納得だった。
俺は立っている。
棚の前で。
全部の順番が崩れた。
そして、
初めて本当の問いが残る。
この紙を――
どうする。
誤字脱字はお許しください。




