第69話 事故ではない、という音
69話です。
日曜日だった。
珍しく、家に三人が揃っていた。
父は朝から新聞を広げ、母は台所で湯を沸かし、兄は窓際に立って外を見ている。
その配置は偶然ではなく、まるで誰かが意図して並べたように整っていて、俺はその中央に立ちながら、今まで自分が守ってきた「順番」というものが、この空間そのものを支えている柱なのだと初めて実感していた。
インターホンが鳴る。
短い音。
母が一瞬だけ手を止める。
父は新聞を下げない。
兄は振り向かない。
俺が出た。
ドアの向こうに立っていたのは、あの女性だった。
学校に来た人。
柔らかい目の人。
「少しだけ、お時間いいですか」
断る余地はない。
リビングに通す。
母の視線が一瞬だけ鋭くなる。
父は無言で新聞を畳む。
兄は、椅子に座る。
女性は、名乗らなかった。
ただ、テーブルに封筒を一つ置いた。
白い封筒。
厚みはない。
「過去の件について、確認が必要になりました」
過去。
その言葉が、空気を変える。
母が微笑む。
「事故ですよね」
即答だった。
確認ではなく、宣言。
女性は、首を横に振らない。
だが、うなずきもしない。
「公式には、そう処理されています」
処理。
「ですが」
その一語で、兄の指先がわずかに動く。
「当時の初動対応に、いくつか食い違いが見つかりました」
食い違い。
その単語が、俺の胸の奥で昨日の紙と結びつく。
母は笑顔を崩さない。
「子どもでしたから。混乱もあったでしょう」
整理する声だ。
いつもの。
女性は封筒を開けない。
置いたまま、言う。
「最初に現場にいたのは、兄さんでしたね」
兄が、初めて顔を上げる。
目が合う。
逃げない。
「……そうです」
声は低い。
震えていない。
「その後、弟さんが来た」
俺の名は出ない。
だが、位置は明確だ。
母が口を挟む。
「子どもが近くにいた、それだけです」
それだけ。
だが、女性は続ける。
「第三者がいない時間が、数分あります」
数分。
その時間が、ずっと棚に入らなかった部分だ。
父が初めて口を開く。
「それが何か問題でも?」
冷静な声。
女性はゆっくりと答える。
「問題というより、順番の確認です」
順番。
その言葉で、全員が一瞬だけ止まる。
俺は気づく。
この人は、事故を疑っているのではない。
並びを見ている。
「当時の報告書は、非常に整っていました」
女性の声は静かだ。
「子どもの証言も、大人の説明も、完璧に一致していた」
一致。
母の手が、テーブルの下で強く握られる。
「ですが、完璧すぎる」
その一文が、部屋の中心に落ちる。
兄が息を吐く。
長い、静かな息。
「……何を聞きたいんですか」
女性は、初めて兄をまっすぐ見る。
「その日の順番を、もう一度」
順番。
事故かどうかではない。
責任でもない。
誰が最初に何を見て、
誰が次に何を言い、
誰が最後に整えたか。
それだけ。
俺の喉が乾く。
兄は、ゆっくりと口を開く。
「俺が、先に行きました」
それは事実だ。
「水の音がして」
一瞬、視線が揺れる。
「弟が来る前に、見ました」
ここで止まる。
母が強く言う。
「転落事故です」
事故。
女性は静かに返す。
「そうですね。転落は事実でしょう」
だが、そこで終わらない。
「問題は、その前後です」
前後。
俺の頭の中で、あの日の断片が並ぶ。
濡れた背中。
低い視線。
母の声。
「覚えてなくていい」
その一言。
女性が、俺を見る。
「あなたは、何を覚えていますか」
逃げ道はない。
だが、ここで初めて思う。
もし、今、違う順番を言ったら。
棚は崩れる。
家も崩れる。
兄は、俺を見る。
あの日と同じ視線。
確認。
俺は口を開く。
心臓の音が、はっきり聞こえる。
「……事故でした」
言った瞬間、
自分の声が少しだけ変だった。
兄の目が、ほんのわずかに閉じる。
母は安堵する。
女性は、何も言わない。
ただ、封筒を持ち上げる。
「今日はここまでにします」
立ち上がる。
帰り際に、一言だけ残す。
「順番は、時々、正しすぎると崩れます」
ドアが閉まる。
沈黙。
誰も動かない。
やがて母が言う。
「大丈夫」
その言葉は、自分に向けている。
兄は立ち上がり、棚の前に行く。
一番下の段を見る。
そして、触れない。
触れないまま、部屋を出る。
夜、布団に入る。
今日は、はっきりと分かった。
事故かどうかは、もう関係ない。
問題は、
俺がその順番を守ったことだ。
守ったことで、
順番は完成した。
完成したものは、
いつか必ず壊れる。
そして、そのとき一番最後に立っているのは、
俺だ。
天井を見ながら、初めて確信する。
グランドフィナーレは、
事故の真実ではない。
順番を壊すかどうかの選択だ。
目を閉じる。
もうすぐだ。
いよいよ、終わりが見えてきました。




