第29話:スピリア=ベリーローゼン
10:34
一方その頃、宿に残っていた大輝は、窓際の机に向かい、魔法の勉強を続けていた。
開け放たれた窓から、陽光が差し込み、教科書を照らしていた。
勉強を始めてから、かれこれ三時間。
少々疲れを感じ、凝り固まった肩を回し、ストレッチをし始めた丁度その時――――扉が、遠慮のない調子で叩かれた。
教科書を閉じ、椅子を軋ませて立ち上がる。
扉を開けると、そこにはベリーローゼンが立っていた。
腕を組み、片足に重心を預けて立つその姿は、いかにも彼女らしい。
窓からの隙間風が、彼女の長髪をなびかせている。
「集合時間にはまだ早いけど……どした?」
「どうせ暇でしょ? 少し、付き合ってくれない?」
先ほどまで机に向かっていた者に対して、開口一番『どうせ暇』とは失礼な奴だ。
だがまあ、勉強も一段落着き、長時間座っていたせいで脳も身体も悲鳴を上げてきたところだ。
ここは一つ、彼女の誘いに乗ることにした。
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11:03
大輝が連れていかれた先は、宿から歩いて二十分ほど、魔法商店の一角だった。
だがそれは、魔導書を並べる店とも、魔法の術式を売買する店とも随分と毛色が違っていた。
白く塗られた木枠の店先から、溢れんばかりの緑がこぼれている。
軒下に吊るされた鉢からは蔦が垂れ下がり、店の周りに置かれた木箱からは色とりどりの花が顔を見せていた。
「花屋……?」
「なに?」
思わず漏れた大輝の声に、ベリーローゼンは眉間に皺を寄せた。
『文句でもあるの?』と言いたげな視線だ。
「いや……お前、花とか育てられんのか? すぐ枯らしそうなイメージなんだが」
「失礼極まりないわね。アタシだってエルフなのよ、植物を愛でる心くらいあるの」
ふん、と鼻を鳴らし、彼女は店の中へ入っていった。
大輝は肩をすくめ、その背中に続く。
扉を開けた瞬間、湿った土と、青々とした葉の香りが鼻腔を刺激する。
店内はこじんまりとしていたが、壁から壁、棚から棚へ多彩な花が生けてあった。
マナに反応しているのか、花弁が淡い光を帯びているもの、星型の葉を持つもの、指を触れると花弁の色を変えるものなど、そのほとんどが名前も知らないものばかりで、植物など欠片の興味もなかった大輝でさえ、思わず見入ってしまうくらいには物珍しかった。
ベリーローゼンが鼻についてどれほどの知識を持っているのかは不明だが、ふと視界に入った彼女の横顔は、いつになく真剣だった。
一株ずつ、腰を屈めてじっくりと観察している。指先でそっと葉の裏を返し、土の湿り気を確かめる。
普段は揺らめいている長い毛先も、花弁を傷つけまいと引っ込められていた。
騒がしさも、高飛車な物言いも、そこにはなかった。
だからこそ、だろう。そんな風に意識を集中させていたものだから、彼女は背後を通ろうとする人の気配に気づかず、肩をぶつけてしまった。
「あ、ごめんなさい。気が付かなかったわ―――――」
謝罪の言葉を口にしながら振り返った瞬間、ベリーローゼンの動きが止まった。
ぶつかった相手が、見惚れるほどに美しかったからではない。
相手の黒い装いが、あの日、森を焼いた者たちの姿と重なったからでもない。
彼女の視界が捉えていたのは、木々の若葉を思わせる鮮やかな緑の髪でも、月のように輝く瞳でも、しなやかなボディラインをくっきりと浮かび上がらせる黒いワンピースでもなかった。
瞳に映っていたのは、ただ一点。緑の髪の隙間から覗く――――先の尖った、耳。
「エ、ルフ……?」
掠れた声が、零れ落ちた。
それはベリーローゼンにとって、もうこの世界には自分以外に残っていないと思っていた種族との、あまりにも唐突な邂逅だった。
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スピリア=ベリーローゼンがこの世に生を授かったのは、今からおよそ三百年前のことである。
エルフの母が、当時の魔王都であったエンヴィールを訪れた折、人間の父と出会い、二人は結ばれ、やがて彼女が生まれた。
ナイトネアの古街道沿いに広がる森林―――――ユグドラシル森林は、彼女が生まれるずっと前からエルフたちの住処だった。
幾百年を生きた大樹が天を覆い、枝葉の隙間から零れ落ちる陽光が、苔むした地面に斑模様を描く。
朝には霧が木々の根元を這い、夜には差し込む月明かりが照らした。
家々は大樹の洞や幹に寄り添うように建てられ、どこにいても、仲間たちの声と鳥のさえずりが聞こえていた。
ベリーローゼンも、そこで他のエルフたちと共に長い年月を過ごした。
彼女は生まれつき、『引導』の言雫魔に適性があった。
その才を彼女は周囲のために惜しみなく発揮し、母親が留守中に子供たちの子守をしたり、枯れかけた植物があれば、日中傍に座り込んで世話をしたりした。
そんな彼女を見て、母は事あるごとに『ベリーは、強い娘ね』と言って頭を撫でてくれた。
幼い彼女にとって、それは何よりの褒め言葉だった。
いつしか、それは彼女の生きる指針になっていた。
強い子でいよう。泣かない子でいようそうすれば――――母はまた褒めてくれるから。
困っている仲間がいれば、迷わず手を貸した。頼まれるより先に、身体が動いていた。
森に住む誰もが、彼女に信頼を寄せていた。
十八の歳を境に、彼女の身体は成長することをやめた。
エルフたちも魔族同様、生まれながらに標準以上の魔力を有している。
体内の魔力が細胞の衰えを絶えず癒し、その姿を長く若いまま留め置くのだ。
そのため、彼女の周りで目に見えて弱っていくのは、父のような、エルフと契りを結んで森に移り住んだ人間たちだけだった。
つい先日まで難なく担いでいた薪を持つのも苦労するようになる。
気づけば、張りのあった頬に皺が刻まれている。
人間の一生がエルフのように長くはないと知ってからの彼女は、年老いた人々の介護まで自ら買って出るようになった。
エルフたちのことが、森に住まう人々のことが、好きだったから。
ベリーローゼンが地に足をつけてから四十年ほど経った頃、父は他界した。
妻と娘に看取られながら、その命を森で終えた。
握っていた手の力が、少しずつ弱まるのを感じた。
長年生きた証が刻まれた掌から、温もりが抜けていくのが分かった。
その日、彼女は生まれて初めて涙を流した。
いつか来ると分かっていた。
父が床に臥すようになってからは、覚悟を決めたつもりだった。
にもかかわらず、喉の奥からせり上がってくるものを、溢れ出る感情を、どうしても抑え切れなかった。
それでも、翌朝には顔を上げた。
腫れた目を湧き水で洗い、母と二人、父の亡骸を抱えて森を離れた。
父の墓標は、彼の故郷であるエンヴィールに立てられた。
それからというもの、ベリーローゼンと母は毎年交互に、墓に花を手向けに行くようにしていた。
――――父が旅立ってから、四年目のことだった。
その年は、ベリーローゼンが墓参りに出向く番だった。
ナイトネアの郊外まで見送りに来た母は、朱い髪を撫で、道中に気を付けるように言い、微笑んだ。
それが、最期に見た母の顔だった。
その日、ユグドラシル森林は火の海と化した。
墓参りを終え、古街道を戻る道すがら、ベリーローゼンは異変を感じ取った。
風に乗り運ばれてきた焦げた木の匂い。
極め付きは、それに混じって届いた、脂の焼けたような、吐き気を催す異臭だった。
空を見上げると、森の方角は、鈍い鉛色に濁っていた。
嫌な予感に、彼女は駆け出した。息が切れても、足が縺れても、止まることなく。
自分に出せる全速力で、帰路を駆け抜けた。
そうして辿り着いた先には――――何もなかった。
天を覆う大樹も、色とりどりに咲いていた草花も、世話をしていた植物も、エルフたちの過ごしていた家々も、何一つとしてそこにはなかった。
強張る足を踏み出すたびに、鉄板に触れた時のような音が立った。
地面も、大気も、肌を焼くような熱を孕んでいた。
そのため、肩や髪に音もなく積もる、季節外れの雪のように見えたそれが、灰だと分かるのにそう時間はかからなかった。
それは木の燃え滓なのか、それとも別の何かなのか―――考えようとした瞬間、胃液が逆流する感覚に襲われた。
彼女は崩れ落ちた岩の陰に身を潜め、焼け野原を後にする黒ずくめの男たちの背中を見ていた。
飛び出していきたかった。叫びたかった。
だが、膝が、脚が、腕が、口が、髪が、全身が震えて、動かすことは出来なかった。
遂には視界までもが震え、歪んでいった。
それが二度目の涙だと気付いたのは、男たちの姿が完全に捉えきれなくなった頃だった。
それからどれほどの時間、そうしていたのか。
誰も居なくなった森の跡地で、ベリーローゼンは灰の中に立ち尽くしていた。
あの日から、ベリーローゼンが古街道を離れたことはなかった。
もしかしたら、どこかに生き延びた者が居て、いつか現れるかもしれない。
そう信じて、新たに芽を咲かせた植物の世話をしながら、魔獣の肉を喰らい、生き延びた。
十年、二十年と時は過ぎていった。
地中深くの根までは、炎も焼き尽くせなかったのだろう。
土の隙間から芽生えた幾つかの種は、若木になり、やがて枝を広げていった。
百年もすれば、かつてのユグドラシルを思わせるに立派な木々、街道沿いに生い茂っていた。
森は、還ってきた。
だが、何年経っても、同胞が姿を見せることはなかった。
深い愛情を注いでくれた母も、森の奥地でキノコを栽培していた女も、五百年以上を生きる物知りな男も、元気に森を走り回っていた子供たちも、病に伏し、それでも彼女が顔を出すたびに喜々としていた老婆も、密かに思いを寄せていた青年も、誰一人。
毎晩、ベリーローゼンは森を歩き回り、記憶の中に眠る彼らの名前を一つずつ口にしていた。
その行動に意味はないと、自覚していた。
それでも、いつかあの日々を忘れてしまいそうで、やめられなかった。
木々は彼女の声を吸い込むだけで、何も返してはくれなかった。
気が付けば、二百五十年近い歳月が流れていた。
街道を通る者は大抵、王国の騎士か旅人だった。
誰も、森の奥で現れない同胞の帰りを待ち続けるエルフのことなど知りはしない。
―――エルフは、自分を残して絶滅したのだ。
そう思い始めてから、彼女は何度もその髪で首を絞め上げた。
母親が丁寧にとかしてくれていた朱色の髪。
それで自らの命を絶つことは、極めて容易だ。
容易な、はずだった。
もう少しで、皆のもとへ逝ける―――そう淡い期待を胸にしても、毎度意識が途切れる寸前で、髪が緩んでしまうのだ。
地面に転がり、咳込み、草花の上に胃液を吐き散らしながら、泣くこともできずに空を見上げる。
葉の隙間から覗く星が、無様な姿を嘲笑っているような気がして、首に残った痣が消える頃には、また同じことを繰り返した。
―――あの日、私だけが生き残ったことには、何か意味があるのではないか?
そんな疑問だけが、彼女の意識をこの世界に繋ぎとめていた。
だからあの日、黒いコートを羽織った男を連れた集団が街道を通った時、ベリーローゼンは確信したのだ。
答えは、復讐だと。
結局その男――――桧垣誠は、森に火を放った者たちとは何の関係もなかった。
それどころか彼女は返り討ちにされ、ファイナルレベルという怪しげな組織に入る羽目になった。
勿論、断ることもできた。
いくらこちらが先に手を出したとはいえ、唐突に拉致してきた相手の言い分に律儀に乗る義理もない。
鬨悕烏の提案は一見、脅しともとれる内容だったが、たとえ首を横に振っていたとしても、きっと何もせずにナイトネアへ帰してくれていただろう。
そういうのは、肌で分かるのだ。
それでもベリーローゼンは、あの森を離れることを選んだ。それは、一種の諦めに近い判断だった。
――――きっと、このまま待ち続けても、もう誰も現れない。
そういうのもまた、肌で分かるのだった。
永遠に孤独でいるよりかは、誰かと一緒にいたい。
あの日、自分だけが生き残った理由が復讐だというのなら、その相手をこの手で見つけなければならない。
そんな思いを胸の奥に押し込め、ベリーローゼンは提案を受け入れた。
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そして今、あの時の自分の選択は間違っていなかったのだと、ベリーローゼンは思った。
もしファイナルレベルに入団していなければ、あの森で、今も孤独に生きていたなら、彼女と出会うことは永遠になかっただろう。
目の前にいる彼女は、紛れもなく、エルフだ。
緑髪のエルフは、ベリーローゼンの顔を見つめると、僅かに目を見開いた。
「へぇ。貴方もエルフなの――――」
その言葉を聞くより先に、ベリーローゼンの身体は動いていた。
床を蹴り、体当たりでもするかのような勢いで、彼女の胸に飛び込む。
不意を突かれたエルフは小さく声を上げてのけぞり、背後の棚に肩をぶつけた。
その衝撃に驚いたかのように、鉢が揺れている。
「ちょ、ちょっと!? いきなり何!?」
戸惑う声にも、ベリーローゼンは顔を上げなかった。
彼女の胸元に顔を押し付け、黒いワンピースの布地を、両手で握りしめる。
頬を伝う熱い者ものが、布地に染み込んでいく。
「アタシ……森が燃えてから、ずっと独りで待ってた……っ。誰か、もしかしたら、他にも生きてるかもしれないって思って……!」
しゃっくり上げながら絞り出された言葉に、エルフの表情が変わった。
戸惑いが消え、代わりに、深い痛みのようなものが月色の瞳に滲む。
「森――――やっぱり貴方、あの火災の生き残りなのね。まさか私たち以外にも居たなんて……」
宙に浮いていた手が、肩を震わせるベリーローゼンの頭に添えられた。
朱い髪を、割れ物にでも触れるかのように、丁重な手つきで、ゆっくりと撫でる。
「私たちだけじゃないわ。偶然火災を免れた仲間は、今は北方の渓谷で暮らしてる。……てっきりもう、他に生存者は居ないものだと思ってた。……申し訳ないわ」
気の利いた返答など、できなかった。
胸の奥で、何かが崩れ落ちるような、そんな感覚だった。
声にならない嗚咽が喉の奥で何度もつかえた。
それでもベリーローゼンは、ぐしゃぐしゃになった声を、必死に振り絞った。
「よかった……! アタシ以外にも、居たんだ……! 独りじゃ、なかった……!」
窓際に飾られた花々が、差し込む光を受けて、瞬いている。
灰の降る森で立ち尽くしていたあの日から、ずっと凍り付いていた何かが、ようやく溶けていくような気がした。
――――あの日、私だけが生き残ったのは……今日、私は独りじゃなかったって、知る為だったんだ。
大輝は黙ってその光景を見ていた。
彼女が何を抱え、今、何を思っているのかは分からない。
ただ、いつも自信気で、高飛車で、口を開けば大抵は憎まれ口の彼女が、子供のように声を上げて泣いていた。
大輝がそれを見続けているのは野暮だと思い、近くの店員に軽く会釈をして、静かに店の外へ出た。
閉まった扉の向こうから、くぐもった泣き声が、まだ聞こえていた。




