閑話:ビーチサイド・スパイラル
15:53
こちらに向かって手を振る氷の背後に、高波が見えた。
彼女は全く気付いていない様子だ。
「冰谷! 潜れ! 波が来てる!」
鷺の声に、彼女は反応を示さない。
向こうからの声も聞こえないほどの距離だ、当然である。
鷺の叫びも空しく、壁のような高さにまでのぼる白い波が、氷の華奢な肉体を丸ごと飲み込んでしまった。
水柱が上がり、水飛沫が散る。
そして波が引いたころには、海面に彼女の姿はなかった。
「まずい……!」
不意を突かれたせいで溺れたか。
彼女ほど泳ぎに優れている者ですら、一歩間違えれば命を落とす危険性があるのが、海という巨大な存在だと、身をもって感じる。
考えるより先に、鷺は砂を蹴って海へと駆け出していた。
普段冷静な彼にしては、非常にイレギュラーな判断だった。
勢いよく息を吸い、鷺は潜水する。
波が荒れているせいか、水は先ほどより重さを増し、脚に絡みついてくる。
膝は伸ばし、足首は力を抜く――――氷に教わったばかりの感覚を必死に手繰り寄せ、水を掻き分けて進んでいく。
息が続く限り深く、前に進み、海面に浮上するのを繰り返し、必死に彼女が居たはずの方角へと進み続ける。
音のない水の中、耳の奥で、己の鼓動だけが大きく響いていた。
(どこだ……どこにいる?)
唯一の救いは、海中がゴミ一つなく、澄んでいたことだった。
肺の中の空気が急速に減っていくのを感じながら、鷺は手探りに近い状態で腕を伸ばし、塩水で痛む目を懸命に動かす。
そして、その視界の端に、微かに揺れる水色が映った。
力なく、海藻のように漂うそれは、一目で氷のものだと分かった。
(いた……!)
息を堪えながら、鷺は力の限り腕を掻き、氷の方へと突き進む。
伸ばした手が、力なく沈んでいく彼女の体に触れる。
彼女は人形のように、一切の抵抗なく、鷺の腕に身を預ける。
ただその体を離すまいと、氷の脇に腕を回したところで――――限界が来た。
鷺の口から、一気に灰の中の空気が放出され、水泡となって昇っていく。
視界の端が白く滲み始めた。
(くそ、これじゃ俺も沈む……! 何か……何か浮力になるものはないか……!?)
だが、この海はゴミ一つないほどに整備が行き届いている。
当然、沈みゆく彼らの役に立ちそうな代物は見当たらなかった。
そうして死の淵に立たされた鷺の脳内に、いつしか掛けられた言葉が蘇えった。
『私たち騎士が、決して犯してはならない罪が三つある。一つは、主君の命を取りこぼすこと。一つは、弱き者を見捨てること。そして一つは――――冷静さを欠くことだ』
白銀聖騎士団に入団した鷺の面倒を見てくれていた、副団長――バイス=リードの声だった。
(落ち着け……副団長ならどうする……! 考えろ……!)
冷静を保つことは、極限状態においてこそ十分な力を発揮する――――鷺はふと気が付いたように、氷を抱えていない方の手を開いた。
(これだ……! 頼む……届いてくれ――――『エアリアル』!!)
バイス=リードから教わった、風の基礎魔法だった。
掌を海底に向け、鷺が小さく詠唱すると、緑色の魔法陣が構築されるとともに風が放たれ、勢いよく彼の身体を押し上げる。
みるみる海面が近づいていき――――
「――っ、ぷはっ!」
顔を出した瞬間、肺いっぱいに空気を吸い込む。
雲が立ち込めているにもかかわらず、その空は、痛いほど眩しかった。
鷺の腕の中の氷は、ぐったりとして動かない。
「おい、しっかりしろ……!」
呼びかけても返事はなかった。
焦りが胸を焼くが、それでも今は岸まで運ぶしかない。
鷺は氷の体を片腕でしっかりと抱え、もう片方の腕で必死に水を掻き進む。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
16:07
鷺たちが海面に顔を出した頃には波が収まっていたこともあり、岸までは難なく辿りついた。
ようやく足の裏が砂を捉えた瞬間、全身から力が抜けそうになる。
それでも氷の体を離さぬよう、最後の力で引きずるように砂浜へと上がった。
「っ、は……っ」
膝から崩れ落ちるように、鷺は氷の体をそっと砂の上に横たえた。
荒い呼吸が喉の奥から漏れる。
腕も脚も、感覚が遠い。
ここまで疲弊したのは、いつぶりだろうか。
「冰谷……おい、冰谷っ」
手で白い頬を叩いても、反応はなかった。
閉じたままの瞼、開いたままの唇は、びくともしない。
胸に耳を寄せても、上下に動く気配はまるで感じられなかった。
「おい勘弁してくれ……!」
口でこそそう言ったものの、既に冷静ではいられなくなっていた。
急いで彼女の前髪を上げ、額に片手を当てる。
濡れた手で触っても分かるくらいには、冷たい。
ずっと海水に晒されて、体温は低下していた。
もう片方の指を顎の先に引っ掛けて、頭をそっと後ろに反らせる。
知識として知っているだけの動作だ、手つきはぎこちなく、角度も定まらない。
鷺は鼻をつまみ、大きく息を吸い込んだ。
そして、色素の薄くなった氷の唇に、迷いなく己の口を重ねる。
塩と、微かな血の味が舌先に広がった。
冷え切った肌の感触が、やけに生々しく伝わってくる。
ゆっくりと息を吹き込み、彼女の胸部がわずかに上がるのを目の端で捉えながら、口を離す。
反応はなかった。
鷺は再度、角度を確かめ直し、息を吸い、先ほどよりもさらに強く吹き込む。
だが、反応はなかった。
心臓が脈打つ音が聞こえる。
これが彼女のものだったならどんなに安堵したことか。
鷺は手のひらを氷の胸の中央に重ね、己の知識を頼りに、体重を乗せて押し込む。
一回、二回、三回と、ひたすらに力を加えていく。
ただ、止めてはいけないという一心だけが、鷺の、既に疲弊しきったはずの両腕を動かし続けていた。
三十回を過ぎたところで、もう一度、息を吹き込もうと顔を近づけたその時――――
「っ……!」
氷は激しく咳き込み、口から塩水を吐き出した。
ごほ、ごほ、と喉の奥から絞り出すような音が続く。
彼女の閉じていた瞼が、震えながら、ゆっくりと開いた。
「鷺……くん……?」
露わになった、海よりも青く澄んだ瞳が、ゆっくりと鷺の姿を捉える。
そして、間近に迫っていた鷺とばっちり目が合うと、冰は頬を赤らめて視線を逸らした。
鷺はその様子を確認し、一気に息を吐き出した。
張り詰めていた緊張の糸が解け、その場に倒れ込む。
「よかった……無事で」
「ごめん……心配かけちゃって」
「気にするな。それより――――」
鷺は思い立ったように体を起こすと、置きっぱなしにしていたラッシュガードを氷に向かって放り投げた。
「まだ体が冷えているだろ、着ておけ」
「うん……ありがとう」
冰は上体を起こし、鷺から乱暴に渡されたそれに袖を通すと、てくてくと歩き出し、鷺の隣に腰かけた。
「それで……私のこと助けてくれた人たちは? お礼がしたいんだけど……」
「……ん?」
「見張りの人とか、ライフセーバーさんが助けてくれたんじゃないの?」
「……いや、俺が連れて戻ってきた」
鷺の告白に、少しの間、沈黙が続いた。
「えぇ!? どうやって!?」
「試行錯誤を経てだ」
氷は口を開けたまま固まっている。
確かに、つい先ほどまで泳いだこともなかった男に助けられたというのは、いまいち実感が湧かないことだろう。
「助けてもらった側が言うことじゃないと思うけど……鷺くんも溺れちゃったらどうするつもりだったの?」
もっともな質問である。
もし鷺が途中で波に飲まれてしまっていたら、もし鷺がバイスの言葉を思い出していなかったら、今頃二人がこうして話していることはなかっただろう。
だが、あの時の鷺はそこまで頭が回っていなかった。
いや、たとえ回っていたとしても、同じ行動をとっていたことだろう。
「冰谷――――俺たち騎士には、決して犯してはならない罪が三つある。一つは、主君の命を取りこぼすこと。一つは、冷静さを欠くこと。そしてもう一つは――――弱き者を見捨てることだ」
鷺の言葉を聞き、氷は顔をほころばせると、
「私は、弱くないけどね!」
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
15:07
一方その頃、大輝とベリーローゼンは、紫苑と海夏とのビーチバレーによる激闘を終えていた。
スコアは、42対20で大輝たちの勝利。
途中までは両チームとも一歩も譲らない、まさに激闘と言える展開だったのだが、ベリーローゼンが禁じ手を解放してからは、ワンサイドゲームもいいところだった。
「今のは……シオンたちの負けじゃないから! そっちの反則負けだから……!」
「フン、ちゃんとルールを確認しなかったアンタたちの負けよ。負け惜しみはやめてよね」
「大輝からも何か言ってよ! あんな勝ち方して恥ずかしくないの!?」
まあ確かに紫苑の言う通り、ベリーローゼンが自身の権能でトスやらスマッシュやらを髪で打ち出したことはライン越え感はあったが、それは全て彼女の行いであり、大輝はしっかりと一般的なルールにのっとってゲームをプレイしていた。
故に、恥など一切ない。
「まあベリーが恥ずかしくないなら……」
「アタシは何とも思っていないわ。戦いに勝つために全力を尽くしたまでよ」
「だそうです」
大輝とベリーローゼンの悪びれない態度に腹を立てたのか、紫苑はうなり声を上げながら砂浜を殴りつけると、
「お前ら覚えとけよ!」
「それ悪役側の台詞だろ……。 俺はこれから屋台を見て回ろうと思うんだけど、お前らはどうする?」
「シオンはいい。泳いでくる。あ! かき氷あったら買っといて! ブル―ハワイ!」
「わ、わたしも……紫苑ちゃんと泳いでくるね」
紫苑はともかくとして、海夏は泳げるのだろうか。
日頃のおっちょこちょいなイメージからして、とてもじゃないがそんな風には思えない。
いや、意外と得意だったりするのかもしれないな。
いわゆる、ギャップというやつだ。
そんなことを考えながら、大輝はベリーローゼンに視線を向け、
「お前は?」
「アンタと一緒に行くわ。屋台、気になるし」
そんなこんなで、大輝たちは紫苑と海夏と別れ、屋台が立ち並ぶ海の家へと足を向けた。
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15:25
「流石に空いてたな」
「時間も時間だしね」
海の家を一通り物色し終えた大輝は、人がまばらに座るテラス席の一角に腰かけていた。
紫苑から頼まれていた青いシロップが無造作に掛けられたかき氷を片手に、たこ焼きを頬張る。
「……てかお前買いすぎだろ!」
つい先ほどやって来たベリーローゼンは、かき氷の全フレーバーを見事コンプリートしていた。
自身の髪を器用にカップに巻き付け、バランスを保っている。
「せっかくなんだし、食べ比べたいじゃない?」
「……腹壊すぞ」
「大丈夫よ。アタシ、風邪ひいたことないもの」
ベリーローゼンはそう言って、朱色の髪を白いアウトドアチェアに伸ばすと、器用に椅子を引き、腰かける。
机の上には、色とりどりのかき氷たちが並べられた。
彼女はその中から赤いシロップのかかったものを手に取り、氷の山をストロー製のスプーンで崩す。
「……成り行きで加わることになっちまったけど、良かったのか?」
大輝は、身体に悪そうな赤を咀嚼する彼女に問いかける。
ベリーローゼンは数秒、スプーンを口に入れたままの姿勢で大輝を見つめ、その質問の意味を考えている様子だ。
そして、やっと理解したのか、彼女は唇からスプーンを引き抜くと、
「ファイナルレベルのこと?」
己の解釈が間違っていないかを確認するように、首を傾げた。
「ああ。お前の場合、ぶっちゃけ脅しに近かっただろ。これから先も命の危機が伴う場面が多くあると思う。無理して付き合うようなことじゃねぇ。もしあれだったら、俺から――――」
そこまで言いかけたところで、ベリーローゼンはスプーンの先を、大輝の唇に押し当てた。
大輝はそれを静止のサインだと受け取り、口をつぐんだ。
ほんのり冷たい感触が口先を覆う。
「ちょっとお節介が過ぎるんじゃない? 別にアンタが気にするようなことじゃないわ。アタシだって、嫌々付き合ったりするような質じゃないし。本気で嫌だったら途中で逃げ出してるわよ」
ベリーはスプーンを大輝の唇から離し、再び氷の山へと突っ込んだ。
「今もアンタの前にアタシが居るのが答え。それに、もしかしたら森林を焼き尽くした奴らの手がかりが得られるかもしれないしね」
「森林って、ナイトネアで言ってた……」
ナイトネアで初めて出会った時、彼女は『誠が森林を焼き払った者と似ていた』という理由で、大輝たちに襲い掛かってきた。
もし彼女がその犯人を捜し続けるのだとすれば、それが行き着く先は――――
「――――復讐のためか?」
大輝の言葉に、ベリーは一瞬、氷をすくう手を止めた。
だがすぐに再び動かし始め、氷を口に運んだ。
彼女は小さくそれを咀嚼すると、
「さあね。アタシにも分からないわ。ただ、あの森はアタシたちエルフが過ごしていた場所でもあったから……もし火をつけた奴らの正体が分かったら――――」
「あ、あの!」
その言葉の先が紡がれることはなかった。
突如割り込んできた聞き覚えのある声色。
二人が向き合うテーブルの脇には、海夏の姿があった。
「あ、えっと……遮っちゃってごめんなさい。さっきからずっと声かけてたんだけど……なかなか気づいてくれなかったから」
「あ、いや……アタシ達こそ気づかなくてごめん」
海夏の身体を包んでいたはずの衣服は、そこにはなかった。
ラッシュガードのうちに隠されていた、白い水着姿が目に飛び込んでくる。
こんなものを隠し持っていたとは――――これがギャップというやつか。
下手すればベリーローゼンよりも大きいのではないかと、大輝が視線を横にずらすと、
「アンタ……なんか変なこと考えてない?」
彼女が横目に睨んできた。
変なところで勘の鋭いやつだ。
「いや、決してそんなことはない! ――――それで、どうしたんだ?」
大輝が慌てて海夏に視線を戻すと、彼女の背後から、白いラッシュガードに身を包んだ紫苑が恥ずかしそうに歩いてきた。
先ほどまで海夏が着ていたものだ。
「実は……紫苑ちゃんの水着が流されちゃったの」
「お前、どんだけガード緩いんだよ……」
胸元に大輝の視線を感じ、紫苑の顔は真っ赤に染まった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
16:09
その後、三十分以上にわたる大捜索が行われたが、結局紫苑の水着を見つけることはできなかった。
捜索の最中、紫苑は砂浜に体育座りをしながら、大輝が買っていたかき氷をちびちびと喰らっていた。
「ダメだ、もう遠い海の底かもな」
途中、波が少し荒れていたため、余計に遠くへ行ってしまったのかもしれない。
大輝が海から顔を上げて報告すると、ベリーローゼンは既に捜索意欲を失い、紫苑を説得する方向に動いてた。
「もういいんじゃない? 着る物はあるわけだし」
「いいわけないじゃん!? 普通に死ぬほど恥ずかしいからね!? それに、これは海夏ちゃんのだし……」
紫苑はそう言いながら、オーバーサイズの袖を軽く引っ張る。
海夏も紫苑と同じくらい小柄だが、明確に一部だけ発育が違う。
故に、着用していたラッシュガードも紫苑の体系の一回りか二回りほど大きいのだった。
「わたしは別に大丈夫だよ。紫苑ちゃんにそれあげても」
「いやいや、大丈夫じゃないから!」
「どうしてそんなにアレにこだわるのよ?」
「だって……あの水着は――――」
半ば諦めモードに突入していた一行の下に現れたのは、
「あ、いたいた! みんなー!」
声がした方を振り返ると、こちらに向かって大きく手を振る氷の姿があった。
そして、その脇を歩く鷺の手には――――紫色の、何かが握られていた。
大輝はすぐにそれが何かを悟り、
「おい、あれ……」
大輝に肩を叩かれた紫苑が顔を上げると、
「――――私の水着! 何でノンデリが持ってんの!?」
「ああ、やはり宵待のか。向こうの岸に漂着してたんだ。もしかしてと思って持ってきて正解だった」
他人に無頓着な鷺にしては、屈指のファインプレーである。
紫苑は小さな声でお礼を言い、鷺から水着を受け取ると、嬉しそうな顔で更衣室へと懸けていった。
一先ず、一件落着か。
「気温も下がってきたし、可能なら宿に向かった方がいいかもしれないわね」
「そうだな。誠に聞いてみる」
そろそろ、宿が取れている頃合いだろう。
そう期待する大輝たちへの誠の第一声は、謝罪から始まった。
『すみません……。もしかしたら、宿が取れないかもしれません……!』
――――どうやら、まだ一悶着ありそうだ。




