閑話:水上訓練
14:19
「よし、ここら辺でいいかな」
氷に連れられ、鷺はビーチの一角に来た。
少し風が強いからか、二人以外の人影はなかった。
白い波頭が沖合で崩れては消え、崩れては消えを繰り返し、その音だけが規則正しく耳を打つ。
砂は日差しを吸って熱を帯び、足の裏がじりじりと焼けるようだった。
鷺が水泳を会得していないのは、単純にこれまで必要としてこなかったからである。
合理性の塊のような彼は、必要でない技能を時間をかけてまで習得する必要はないという思考を持っていた。
別に水への恐怖心があったというわけでも、幼いころにトラウマを植え付けられたというわけでもなく、ただ、必要となった時に習得すればいい――――そんなことを思っていたら、今日という日までその機会が訪れなかったというわけだ。
「じゃあまずは、バタ足の練習をしようか。掴まって」
彼女はそう言って、笑みを浮かべながら両手を差し出してくる。
鷺はラッシュガードを砂浜に脱ぎ捨てると、自分の手を重ね、しっかりと握りしめた。
指先に伝わる彼女の体温は、雪女のような白さとは裏腹に、随分と温かい。
「わ……! すごいゴツゴツしてる……」
「長いこと剣を振ってきたからな。不快だったらすまない」
「全然そんなことない。だってこれは……鷺くんの努力の証だもん。こんなになるまで……すごい」
「そうか……? 団長や副団長に比べれば、まだまだだが」
華奢な体型ながら、大剣を手足のように扱うノエル。
鷺の師であり、目にもとまらぬ速度で剣を振り抜くバイス。
二人が剣を振るう姿を見るたびに、鷺の中で己の未熟さを痛感する。
鷺が目指す先には、彼らにも劣らぬ、立派な騎士としての姿、そして――――
「鷺くんはどうして、騎士になろうって思ったの?」
氷は両手を繋いだまま、水に体を浮かべる鷺を見下ろして言う。
「――――憧れたんだ。国民を守るために命を捧げて剣を振るった、父親に」
「へぇ! お父さんは、今も騎士として仕えているの?」
「いや。俺が生まれる直前に死んだ」
白銀鷺がこの世に生を授かったのは、父がその命を枯らして僅か数日後のことだった。
生まれてくる息子の顔も知らぬまま、騎士としての役目を果たした父。
彼が率いた白銀聖騎士団は大きな犠牲を負ったが、その戦で犠牲となった国民は一人たりとも居なかった。
鷺は母から彼の生涯を聞き、そして、剣の道を志した。
その道の先で、いつか――――父のように、大切な者たちを守れる存在になるために。
それは鷺にとって、今までも、これから先も会うことの叶わない存在に近づける、唯一の方法といってもよかった。
鷺の返答を聞いた氷から、先ほどまでの明るい表情は消えていた。
潮風に揺れる前髪の下で、瞳から光が引いていくのが分かる。
まさか、死んでいるとは思ってもいなかったのだろう。
両手を繋いだまま、彼女の指先が僅かに強張るのが、鷺の掌にも伝わってきた。
波の音が、急にやけに大きく聞こえた。
「ご、ごめん……」
冰谷氷は鷺とは正反対に居るような、明るい子だ。
よく笑い、よく喋る。
そんな彼女の、このような表情を見るのは初めての事だった。
差し込む陽光の下でも、この瞬間だけは影が差したように見えた。
予想外の状況に気まずさを覚えた鷺は、居心地の悪さを誤魔化す様に視線を海面へと逃がしながら、
「いや……それより、そろそろ泳ぎを教えてくれないか?」
「え、あ、うん! そうだよね! ごめんね、嫌なこと思い出させちゃって」
「別に謝ることでもないが……」
「それじゃあ、バタ足からね! いくよー」
氷は無理に笑みを作り直すと、鷺の手を引いて後ろ向きで歩き出した。
彼女に従い、鷺の身体は水上を平行移動する。
鷺は自分の知る「バタ足」を思い描きながら、懸命に足を動かしてみた。
足が水面を打ち付け、盛大に水しぶきが上がる。
水の粒が陽光を弾き、きらきらと宙に散った。
「うーん……ちょっと膝を曲げすぎかも。足全体をこう……鞭みたいにしならせる感じ。ちょっと見てて」
彼女はそう言うと手を離し、砂浜に腰掛ける。
そして、真っ白な脚を水につけ、ゆっくりと動かしてみせる。
ぱしゃん、ぱしゃん、と静かな音だけが立ち、水面には小さな波紋が連なった。
無駄な力みの抜けた、滑らかな動きだった。
「……なるほど」
鷺は氷の脚をまじまじと見つめる。
その動きを頭の中で分解し、自分の筋肉の使い方と照らし合わせていく。
「あ、あんまりじろじろ見られると恥ずかしいんだけど……」
「冰谷が見ろと言ったんだろ?」
「そうだけどさー……」
氷はそう言って鷺から視線を逸らす。
白い頬が、ほんのり赤くなった気がした。
潮風にほつれた髪の毛先が、彼女の頬をくすぐるように揺れている。
「他に何か気をつけるべき点はあるか?」
「うーん……あ。足首の力も抜くことかな。力が入ってると、上手く水を蹴れないから」
鷺はそれを聞くと、しなやかに動いている氷の足首にそっと手を添えた。
太腿と連動する腱の動きと、水で冷えた体温が、指先に伝わる。
――――が、すぐに触れていた肌は指から離れてしまった。
彼女は両足を引き上げ、砂浜にぺたりとつけていた。
頬の赤みが、先ほどよりも一段濃くなっている。
「ちょっ、き、急に触んないでよ!」
「す、すまない……触って確認しようと思ったんだ。気を悪くしたなら申し訳ない」
「別に嫌ってわけじゃないけど……びっくりするじゃん。次は鷺君の番ね!」
彼女はそう言って腰を上げると海に飛び込み、鷺の両手を再度掴んだ。
水飛沫が立ち、氷の笑顔に水滴が光る。
鷺は今見せてもらったように力を抜き、ゆっくりと交互に脚を動かす。
まだ水飛沫が上がっているものの、水の抵抗が心なしか和らいだ間隔があった。
先ほどと比べれば、いささか様になっている気がした。
「そうそう、そんな感じ! それじゃあ今度は呼吸も合わせてやってみよう。水の中で鼻から吐いて、顔上げたら口で吸うイメージで」
彼女は言うと、手をつないだまま顔を水面に押し付ける。
間もなくして、ぶくぶくと小さな泡が立ち上り、彼女は顔を上げた。
海水を滴らせる睫毛の先で、光がちらりと弾ける。
「ね、簡単でしょ?」
「聞くだけならな」
鷺はそう言い放ち、顔を沈める。
澄んだ海の景色と、鷺を先導する二本の脚が視界に飛び込んでくる。
水中に差し込む陽光は、揺らめきながら細い筋となって沈んでいく。
そのまま肺の中の空気を少しずつ鼻から体外に放出していき……吐き切ったところで、顔を上げる。
塩辛い水が唇に触れ、鼻の奥が僅かにツンとする。
「ぷはっ」
「ね? 簡単だって言ったでしょ」
顔を上げた先には、氷が屈託のない笑顔を浮かべていた。
「……ああ」
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15:48
風が強さを増してきた。
空を覆っていた雲も、いつの間にか少し厚みを増している。
一通り泳ぎの練習を終え、二人は並んでビーチに腰かけていた。
濡れた肌に当たる風は思いのほか冷たいのだと、また一つ学んだ。
「鷺くん、凄いね。すぐに上達しちゃうんだもん」
「それは氷谷の指導が上手かったからだろ」
鷺が言うと、彼女は「え~そうかな~?」と、またも頬を赤くしていた。
事実、彼女の指導は適切でわかりやすかった。
今まで何度か人から物を教わる機会があったが、テクニシア専校での授業や、剣術学校での母からの指導、聖騎士団に入ってからのバイスとの稽古のどれと比べても――――
「冰谷は間違いなく最も分かり易く、最も優しい指導者だ。ありがとう」
「ど、どういたしまして……」
彼女は鷺から視線を逸らし、髪を掻き撫でた。
海水で濡れた水色の髪に、砂がつく。
「どうして冰谷はそんなに教えるのが上手いんだ?」
「うーん……私も泳ぐのが得意だからかな。フリージアに居た頃は、寒中水泳とかやったりしてたし」
「それは凄いな」
「そうだ! 特別に私が泳いでるところ、見せてあげる!」
氷は思い立ったように言うと、海へと駆け出した。
勢いよく白波の中に飛び込み、ゆっくりと脚で水を蹴り始める。
飛沫一つ立てずに水面を切っていくその姿は、先ほどまでの彼女とはどこか違う生き物のようにも感じられた。
彼女は海岸からみるみる遠ざかっていき、なんとかその姿を目視出来るか出来ないかくらいまでの位置で、顔を上げた。
こちらに向けて手を振っている。
何かを言っているようにも見えたが、波の音にかき消され、何も聞こえなかった。
「おーい! ちゃんと見てたー?」
冰谷氷は、砂浜からこちらを眺めているのであろう、鷺に向かって懸命に手を振る。
いったいどんな反応をしているのだろうと、遠くに見える彼の方に視線を向けて。
風に流された髪が視界を掠め、彼女は片手でそれを抑えながら、なおも手を振り続けた。
――――だから、後方から迫る高波に気づいたのは、その荒れ狂う波音がはっきりと聞こえる距離になってからだった。




