第九話 あなたの一番に
お嬢様の膝には、同じ色の布が三枚載っていた。
窓際へ持っていくと青みが強くなり、暖炉に近づけると銀色が浮かぶ。
夜会のために新しく仕立てる衣装だった。
伯爵は先方の家に恥をかかせないものを、と金額を決めた。
お嬢様のお好みを尋ねたのは、そのあとで私たちが呼んだ仕立屋だけだった。
「この二つは、違う布なの?」
「こちらのほうが少し柔らかいのです。踊られたとき、裾がきれいに流れます」
私は一枚を持ち上げ、お嬢様の肩へ当てた。
淡い髪の下に月明かりを敷いたようで、鏡の中のお嬢様が、少しよそゆきの方に見えた。
「リュジィが選んでくれると、安心するわ」
「それでは、もう少し迷ってもよろしいですか」
「リュジィでも決められないの?」
「どれをお召しになっても、可愛らしくて」
お嬢様は手元の布へ目を落とされた。耳が赤くなったので、私はまた、選ぶ手を止めてしまった。
この方をきれいにして差し上げるのは、私の仕事で、喜びでもある。
その姿をあの方の腕に渡すところまでが仕事なのだと、できれば思い出さずにいたかった。
ジュリアン様の訪問は、その日の午後だった。
奥様は夜会の招待客について熱心に話し、エリーズ様は新しく届いた楽譜をお見せになった。
ジュリアン様が曲名を一つ懐かしそうに口にすると、エリーズ様はすぐに、次の演奏会へいらっしゃるのかと尋ねる。
「家の仕事が済めば。今は父の代理で出る会合が多くて」
「お疲れでしょうに、姉のためにありがとうございます」
エリーズ様は労うように目を細めた。
お嬢様はご自分もお礼を言うべきだと思われたのか、画集を閉じて顔を上げた。
「どうぞ、ご無理はなさらないでください」
「ここでお茶をいただくのは、休憩のうちです」
返事をするジュリアン様の顔に、疲れは確かにあった。
それでも、お嬢様に向ける笑みを惜しむ方ではなかった。
奥様が伯爵に呼ばれて席を外し、エリーズ様も楽譜を取りに戻られると、応接間は少し静かになった。
私はお嬢様の茶器を温かいものへ替え、夜会の日の馬車を確認した。
「リュジィも、同じ馬車でよろしいのでしょうか」
お嬢様が念を押すように尋ねる。
「もちろんです。ウェルネ男爵のお嬢様でもいらっしゃるのですから、必要以上に控えていただくことはありません」
ジュリアン様が私を見る。
生家のことを口にされると、制服の襟が急に目立つ気がした。
「お心遣い、恐れ入ります」
「夜会には、昔から付き合いのある友人も来ます。もしご縁をお探しなら、ご紹介できるかもしれません」
茶器を載せた盆が、指の上で少し傾いた。
私は音を立てる前に持ち直し、微笑んだ。
そういう年齢であるのは分かっていた。
母の手紙にも時々出てくる話で、他人の口から聞くこと自体は珍しくない。
お嬢様の前でなければ、もう少し上手に返せただろう。
「元法官の家の次男です。気さくな男ですし、勤めを持つ奥方にも理解があると思います。もちろん、気が進まなければ紹介だけで」
ジュリアン様は、私とお嬢様が離れずに済むよう考えてくださったのだ。
そこまで分かってしまうと、差し出された親切をどう避ければいいのか分からない。
「リュジィにも、よい方がいらしたら……」
お嬢様の声が聞こえ、私は思わず顔を向けた。
続きは出てこなかった。膝の上でハンカチを折り直したお嬢様へ、ジュリアン様が穏やかに頷く。
「大切な方には、幸せでいてほしいですからね」
お嬢様の指が、折り目のところで止まった。
私は盆を胸元へ寄せ、深く頭を下げた。
誰も悪いことを言っていない。
それなのに、お嬢様のいらっしゃる部屋で、お嬢様以外との暮らしを話されるのは、肌の上に違う人の名前を書かれるようでひどく嫌だった。
お帰りのあと、私は夜会に使う手袋のほつれを直した。
窓の留め具はきちんと掛けても風が入り、指が冷えて針を持ちにくい。
お嬢様は私の椅子を暖炉の近くへ寄せようとして、結局、ご自分の椅子をこちらへ運んでいらした。
「お嬢様がお寒くなってしまいます」
「膝掛けを二枚にすればいいわ」
私にも一枚掛けてから、お嬢様は椅子の端へ腰を下ろした。
火が布に描く淡い影を見ながら縫っていると、膝のすぐそばにお嬢様の靴先がある。
「リュジィも結婚したい?」
糸を引く手が止まった。
お嬢様は炎のほうを見ていた。
その横顔から、私へ向くはずの目だけが逃げていた。
したいかと尋ねられたら、答えは決まっていた。
朝、制服に着替えなくてもあなたの部屋へ行けたらいい。
何時までいてよいかを考えず、眠くなったあなたをそのまま腕に預かれたらいい。
あなたの髪に顔を寄せるのに、石鹸が合っているか確かめるふりなど要らなくなればいい。
帰るところを聞かれて、あなたのいらっしゃる場所だと答えたい。
「……はい」
出来ることなら、あなたと。
喉まで上がった言葉を、私は飲み込んだ。
お嬢様は膝掛けの端を指で伸ばし、それから、小さく頷かれた。
「そうよね」
私は答えたかったことだけを胸に抱いて、その短い返事の寂しさに気づくのが遅れた。
「すぐに、というわけではございません。今は、お嬢様のおそばにおります」
「ええ。ありがとう」
今は、と言ってしまった。
お嬢様を安心させるには頼りない言葉だったのに、言い直せばどこまで望んでしまうか分からなくて、私は針を布へ戻した。
縫い目を指で確かめながら、私は隣にある本物の手を包みたくなった。
ご自分の手を寒さから守るより先に、私へ膝掛けを掛けてくださる手だった。
夜のお支度のとき、お嬢様は鏡台の前で、外した耳飾りをいつまでも手のひらに乗せていらした。
「耳が痛みますか」
「いいえ。少し、考えごとをしていただけ」
受け取った飾りを箱へしまい、髪の留め具を一つずつ外す。
肩にほどけた髪の間へ指を差し入れると、お嬢様は目を閉じ、いつものように顎を少し下げた。
この仕草を、別の誰かが覚えるのだろうか。
私はご結婚のあとも同行できる。
けれど、すべての夜にこの椅子へ座っていただけるわけではない。
呼ばれていない部屋の前で、明かりが消えるのを待つ私を想像してしまい、櫛を握る手が強くなった。
「痛かったでしょうか」
「大丈夫。……今日は、ゆっくりお願いしてもいい?」
お嬢様の指が私の袖に触れた。
あまりに欲しかったお言葉で、私は一度、息を整えなければならなかった。
「もちろんでございます。ほどき忘れがないか、丁寧に調べませんと」
「全部、外してくれたでしょう」
「念のため、でございます」
櫛の歯を止め、耳のそばの細い髪だけを指で整える。
お嬢様の息がゆっくりになる。
首筋から立つ石鹸の匂いに、暖炉で温まった肌の匂いが混じっていた。
私は顔を近づけすぎないよう背を伸ばした。
いつもの仕事の距離を越えたくて、その境目ばかりを意識している自分が、ひどくみっともない。
「リュジィ」
呼ばれて目を上げると、お嬢様は私の袖をまだつまんでいらした。
「……夜会で、離れてしまったら、探してくれる?」
「すぐに見つけます。お嬢様のお姿を、私が見失うはずがありません」
お嬢様は頷かれたけれど、袖をつまむ手は離れなかった。
「あなたが、誰かとお話ししていても?」
「はい。お呼びいただければ、すぐに参ります」
指先が袖の布を少し引いた。
何か仰りたいのかと待っていると、お嬢様は鏡から目を伏せられた。
「……呼ばなくても、来てくれると嬉しいわ」
その頼み方があまりに可愛らしくて、私は櫛を置いた。
「では、何度でもお顔を見に伺います」
お嬢様はようやくこちらをご覧になった。
けれど、私が髪を整え終えても、袖から手を離そうとはなさらない。
「もう、お休みになれますよ」
「ええ。……でも、あと少しだけ」
引かれるまま隣へ膝をつくと、お嬢様は私の肩に頬を寄せられた。
袖をつまんでいた手が腕へ回る。その重みがうれしくて、私は動けなくなった。
慣れない夜会を、これほど心細く思っていらっしゃる。
それなら、私だけを頼ってくださればいい。
心細くなった時、どれほど近くにジュリアン様がいようと、私だけを探してくだされば。
お嬢様の手を撫でると、腕に回された指が、少しだけ強くなった。




