第八話 あなたの指先
お嬢様の膝に、花びらが一枚落ちた。
窓のそばに生けられた薔薇が、暖かい風に揺れている。
私は茶を注ぎ終えた銀のポットを卓上へ戻し、花瓶を窓から少し離した。
「リュジィ、あなたの分もあるわ」
お嬢様は皿に乗った苺の菓子を指していらした。
薄い袖の下から出た腕には、寒さに鳥肌の立ったところがない。
金の髪は肩の上で柔らかくまとめられ、首元の小さな金具が光を返している。
その金具を留めたのは私だと、なぜか分かっていた。
「お茶が済みましたら、いただきます」
「それまで残っているかな」
向かいに座ったジュリアン様が、菓子へ伸ばしかけた手を引っ込めた。
お嬢様は笑いながら、ご自分の皿に一つ取り分ける。
「これは、取っておきます」
「それなら安心ですね」
お嬢様がまた笑った。
笑い終わる前に何かを思い出したようにジュリアン様へ話しかけ、そのまま昨日読んだ本の頁の話になった。
私は一歩下がり、開いた窓から庭を見た。
見慣れない庭だった。
葉は濃く、薔薇の蕾に混じって咲き切った花がいくつもある。
冬を越えて、春さえ過ぎた頃の光。
お嬢様の左手には、細い金の輪が見えた。
初めは、光が当たっているだけだと思った。
お嬢様が手を動かしても、金色は薬指から離れなかった。
あの方がお話しになるのを聞きながら、お嬢様はその輪へ親指を触れさせた。
……それは、いつ、はめていただいたのですか。
喉の奥が、急に乾いた。
早く、あれを外さなければ。
私がずっと触れていたかった指に、他人が自分の印をつけている。
外さなければ。
指ごと切り落としてでも。
そうしたら、お嬢様はご自分で髪を結うのに困るだろうか。
刺繍も、手紙を書くのも、今までどおりにはいかなくなるかもしれない。
私がお手伝いいたします。
今までよりずっと、丁寧に。
そこまで考えて、ようやく自分の手を握り込んだ。
お嬢様は椅子の肘へ頬杖をつき、話を聞いている。聞き返すときも、声を潜めない。言葉を途中で取り上げられないと知っている方のお顔だった。
私は今、何を。
こんなに幸せそうなお嬢様から、いったい何を取り上げようとしたの。
目を開くと、窓の向こうはまだ夜明け前だった。
頬が濡れていたので、枕へ顔を伏せた。
泣くような夢ではなかった。
お嬢様はよく笑って、私の菓子まで取っておいてくださった。
私が望んだことが、あの部屋にはほとんど全部あった。
ほとんど。
全部ではなかっただけだ。
窓の留め具が風に押され、かすかに鳴った。
私は寝台を出て、隙間へ丸めた布を詰め直した。
現実の風はまだ冷たく、指に触れる木枠にも湿り気があった。
あの夢が来年のことか、その先なのかは分からない。
楽しい午後のあとに何が続くかまで見えたわけでもない。
それでも、あの夢に見た冬を越えて、薔薇の季節を迎えられるのではないかと思えた。
奥様が以前ほど露骨にお嬢様の物を取り上げなくなったことも、そばにいる時間を守れたことも、無駄ではなかった。
私は冷たい窓枠から指を離し、顔を洗う水を注いだ。
安全へ近づいたのなら、喜べばいい。
あの方がお嬢様を大切にしてくださるなら、なおさら。
そう思う反面、水面に映る顔は、ひどく不機嫌そうだった。
縁談が正式に進み始めてから、ジュリアン様は折に触れて訪ねてくださった。
届く花には短い手紙が添えられ、返事を急かす文言はなかった。
お嬢様は便箋の前で迷いながらも、二度目からは私に文面を尋ねずに書けるようになった。
その朝も、鏡台には封をしていない手紙が置かれていた。
「最後の一行だけ、もう少し考えたいの」
「では、お髪を整えているあいだに。難しいご挨拶でなくても、きっとお喜びになりますよ」
櫛を通すと、お嬢様は鏡の下へ便箋を立て掛けた。
返事に困る手紙ではないのが、その目の動きで分かる。
何を言えば叱られないかではなく、何を伝えたら楽しんでいただけるかを考えていらした。
「昨日の鳥のこと、書こうかしら。窓を叩いていたでしょう」
「ご自分のお姿にご挨拶なさっていた鳥ですか」
「そう。私も挨拶できればよかったのだけれど」
「お嬢様まで窓を叩かれましたら、私が驚きます」
鏡の中で目が合い、お嬢様が笑った。
この笑顔は私のものだと思う癖が、まだ直らない。
リボンを取りに引き出しへ手を伸ばすと、お嬢様は先に一つ取り、ご自分で髪の束へ当てた。
「ここなら、自分でも結べそうね」
反射的にその手へ触れてから、私は指を緩めた。
お嬢様は何も気づかず、少し不揃いな輪を二つ作る。
結び直して差し上げるのは簡単だった。
けれど私は鏡台に手を置いて、お嬢様が最後まで結ぶのを見ていた。
「できたわ」
「はい。よくお似合いです」
左の輪だけが少し小さい。
その小ささを、私は一日中覚えていた。
午後、ジュリアン様が持っていらしたのは、夢に出てきた菓子ではなく、小さな画集だった。
「旅先の風景です。お好きな詩の河に似た絵があったので」
高価だとひと目で分かる宝石より、お嬢様が受け取りやすい品を選ばれたのだろう。
頁を開いたお嬢様の顔が明るくなり、私は茶器を整えながら、その喜び方まで見られていらっしゃるのが嫌だと思った。
お嬢様の喜び方を知るのは、私だけでよかった。
お嬢様が絵の橋を指して話すと、私は聞き取りやすいようポットをそっと置いた。
嬉しそうなお声の邪魔など、どうしてできるだろう。
エリーズ様がいらしたのは、お茶を注いで少しした頃だった。
抱えた楽譜を脇卓へ置き、先日の栗毛の馬が来月の会にも出るのかと尋ねる。
「姉にも見せてあげたいのですけれど、見物の席は冷えますものね」
「風を避けられる席を探してみましょう」
「お詳しいのね。私、前の会では帽子を飛ばしてしまって」
エリーズ様は失敗の話を上手になさる。
ご自分が少し困ったところで、聞いている方が笑えるように切り上げるのだ。
ジュリアン様も楽しそうに聞き、どの馬が出るかを指で数えられた。
お嬢様はそのあいだ、画集を閉じずに膝へ置いていらした。
私はジュリアン様の目がエリーズ様へ向いていることに、ほんの一瞬だけ安らいだ。
すぐにその安らぎを恥じた。
お嬢様がこの場で置き去りにされるのを、私は望んだのか。
「コレット様、この橋を渡ると、丘の上まで道が続いているそうです」
ジュリアン様がお話を戻され、お嬢様が顔を上げた。
ほっとした自分にも、胸のどこかがまた狭くなる自分にも、私はうんざりした。
茶器を下げるとき、お嬢様は画集をめくったまま、私へ仰った。
「リュジィ、お昼をまだ食べていないでしょう。今のうちに行ってきて」
ジュリアン様も頷き、廊下には従僕がいると教えてくださった。
用事があれば誰かを呼べる。
私はいつも、そうなるようお嬢様の周りを整えてきた。
それなのに、整った部屋から一人で出る足は、ひどく重かった。
使用人の食卓には温め直したスープが残っていた。
匙を入れると湯気が顔に触れ、空腹だったことを思い出す。
冷めたパンを急いで飲み込む必要のない昼食など、いつ以来だろう。
お嬢様が困っていらっしゃらない。
それだけで、こんなふうに食事ができる。
私は匙を置き、まだ温かい両手を膝に押しつけた。
お嬢様に私以外の支えがあるのは、確かによいことだった。
私が熱を出す夜にも、どうしても届かない場所にも、手を伸ばせる人がいる。
その手へお嬢様がご自分から触れるのだけが、どうしても耐え難い。
戻ると、ジュリアン様はもうお帰りの支度をなさっていた。
お嬢様は玄関で見送り、部屋へ戻ってから、画集の一頁を私に開いてくださった。
小さな家と、川沿いに続く白い道の絵だった。
「ここ、あなたと歩いたら楽しそうだと思ったの」
「お靴を二足、用意して参ります。きっと途中で水辺まで行きたくなりますから」
「よく分かるのね」
頬を緩めるお嬢様のそばへ、私は膝をついた。
画集を持つ腕に髪が掛かっていたので、耳の後ろへよける。
必要とされるのと、好かれるのは同じことではない。
今朝はひとりでリボンを結べたお嬢様が、私に髪をよけられるあいだ、こうして顔を寄せてくださる。
私はその重さを指先で受け、口に出せない願いを一つ、また増やした。
どうか、私がいなくても困らない日にも、私を欲しがってください。




