第七話 あなたの幸せ
伯爵から呼ばれたと聞いたとき、お嬢様は読みかけの本に指を挟んだまま、しばらく立ち上がれずにいた。
お叱りを受ける心当たりを探していらっしゃる。
その癖が分かるようになってしまったのが、私は嫌だった。
襟元の細いリボンを結び直し、なるべく何でもない用事のように扉を開ける。
「私も参ります。お茶が出ましたら、冷めないうちに召し上がってくださいませ」
「お茶を飲みに呼ばれるだけなら、どんなにいいでしょうね」
伯爵はお嬢様が椅子に掛ける前から、モンフォール家の領地の話を始めた。
川沿いの道、穀物を運ぶ商人、以前からまとまりかけていた取り決め。
お嬢様は膝の上で指を揃え、その話のどこにご自分が入るのか、じっと待っていらした。
「先方のご子息が、おまえとの縁組を望んでいる。二十六で、家の仕事もよく手伝っておられるそうだ。申し分のない話だよ」
縁組。
私はお嬢様の襟元を見た。
先ほど結び直したリボンが、息をなさるたびに、わずかに上下している。
あれを、私ではない手がほどく?
まだ顔も知らない男の指が、結び目へ掛かった。
お嬢様が顎を上げて、その手を待っていらっしゃる。
頭の中だけのことなのに、今すぐ払いのけたくて、椅子の背へ手が伸びた。
触れる寸前に、指を折り込む。
ここで何かを掴んだら、力を加減できる気がしなかった。
お嬢様がこちらを振り向きそうになり、それを途中でやめられた。
見てください。
私に、何か仰ってください。
「……お会いしたことは、ないと思うのですが」
「会う機会なら設ける。来週、ご挨拶にいらっしゃる」
来週。
その日までに、私がお嬢様の髪を結える朝は、あと何度あるのだろう。
お会いになるだけだと分かっているのに、そんな数え方しかできなかった。
伯爵はそこで書類に目を戻した。
娘に新しい暮らしを選ばせるための話なら、もう少し続くはずだった。
けれど、私たちはもう立ち去ってよかった。
廊下へ出て、階段の角まで歩いたところで、お嬢様の指が私の袖に触れた。
その指を、すぐに手の中へ包んだ。
「急なのね」
「まだ、ご挨拶でございます」
いつもの声が出たことに、自分で驚いた。
伯爵の机に重なっていた、先方の手紙が目から離れない。
お嬢様の知らないところで、あれだけの言葉が交わされていた。
私が髪を結い、本をお持ちし、お休みの前に毛布を掛けていた間にも。
「よい方だと、いいわね」
嫌です。
そう答えそうになって、お嬢様の手を握り直した。
よい方だったら、お嬢様まで、その人を好きになってしまうかもしれない。
私へ向けられた笑顔はぎこちなく、指先も冷たかった。
こんなお顔をなさっているのに、私は、まだお嬢様が喜んでいらっしゃらないことに安堵していた。
冷えた指を両手で包み、そっと擦る。
「お会いしてから、ご一緒に考えましょう」
その方のことを話すときも、私を呼んでください。
私の知らないところで、好きにならないでください。
◇◇◇
ジュリアン・ド・モンフォール様は、約束の時刻よりほんの少し早く到着された。
私は玄関脇から、雨を払った外套が従僕へ渡されるのを見ていた。
濡れた面を内側にたたみ、受け取る若い従僕の手を汚さないよう持ち替えてから、礼を言う。
誰かに見られていると確かめる仕草はなかった。
何か一つでも、嫌なところがあればよかった。
従僕への横柄な声でも、汚れた靴のまま上がろうとする足でも。
お嬢様にお伝えできるものを探していたのに、差し出された履物にまで、あの方は礼を仰った。
お嬢様にも、そんなふうにお話しになるのだろうか。
まだ一言も交わしていないその人を、私はもう、好きになれそうになかった。
応接間では、奥様がいつもより高い声で迎えた。
お嬢様のためには出されなかった焼き菓子が三段の皿を埋め、私は一番下にある木の実の菓子を見て、妙なところで怒りが込み上げた。
「姉は人前が苦手で、楽しみにしていても、うまく申し上げられないんです」
エリーズ様が隣から言葉を添えた。
お嬢様は何も言わず、膝の上でハンカチを細く折る。
「私も今日が楽しみで、何をお話しすればよいか迷っておりました」
ジュリアン様はそう仰って、お嬢様へ向き直られた。
「普段は、どのようにお過ごしですか」
「……本を読んだり、刺繍をしたりしています」
「最近は何を縫っていらっしゃるのですか」
「鳥を。まだ、羽のところが終わっていなくて」
お嬢様の指が止まった。
ジュリアン様は頷き、お嬢様が続きを話されるのを待っていらした。
「糸の色を変えたら、そこだけ浮いて見えてしまって。ほどこうか迷っているんです」
私は茶を注ぎながら、その声の調子を覚えた。
笑わせるためにお嬢様の返事を大きく拾ったり、奥様に同意を求めたりしない。お嬢様の小さなお声を、その大きさのまま聞いてくださる方だった。
悔しいことに。
伯爵が領地の話へ戻したあとも、ジュリアン様は頃合いを見て、お嬢様に読書の好みを尋ねた。
お嬢様が詩集の名を挙げると、どんなところがお好きなのかを聞いていらした。
「舟に乗る詩が、あるのです。大きな旅ではなくて、対岸へ行って帰るだけなのですけれど」
「それでも、その人にとっては大きな一歩?」
「ええ。……そうなの」
その返事は、私へ本の話をしてくださるときの声に近かった。
お茶の量を確かめる必要などなかったのに、私はお嬢様の横へ立った。
ジュリアン様は自然に手を引き、私が皿を置く場所を空けてくださった。
気を遣われるたび、悪い方であればよかったのに、という卑しい願いの居場所がなくなる。
「お姉様は、昔から本がお好きでしたものね。私は外へ出るほうが好きで」
エリーズ様が雨上がりの庭へ目を向ける。
「モンフォール家には、素晴らしい馬がいると伺いました。父と狩猟会でご一緒だった叔父が、栗毛の馬を褒めておりましたわ」
「あれは妹の馬です。私のは見た目より食欲のほうが立派で」
初めて、ジュリアン様が声を立てて笑われた。
エリーズ様は馬の名を聞き違えず、一度口にして覚えた。
奥様が満足そうにその横顔を見る。
私はお嬢様の茶器へ目を戻した。まだ、半分ほど残っていた。
雨が上がると、伯爵の勧めで庭を歩くことになった。
お嬢様に肩掛けを着せながら、私は足元の敷石が濡れていることを伝えた。
ジュリアン様は差し出しかけた腕を止め、ご自分が先に石段を下りて、歩きやすい側へ立つ。
「こちらなら泥が少ないようです」
お嬢様がその腕へ手を添えた。
私が手袋をはめて差し上げた指だった。
小指の先まで布を伸ばし、手首の皺を整えたばかりなのに、今はジュリアン様の上着を掴んでいる。
どうして、そんなところに。
私はお嬢様の斜め後ろへついた。
呼ばれれば、すぐに手を差し出せる距離だった。
けれど、お嬢様は石段を下り切っても、その腕から手を離されなかった。
もう、平らな道です。
お一人でも歩けるでしょう。
そう申し上げたかった。
いつもなら、平らな廊下でもお嬢様の手に触れる口実を探しているくせに。
ジュリアン様が歩幅を緩められる。
お嬢様もそれに合わせ、濡れた敷石を一つずつ踏んでいかれた。
一度でも、あの方がお手を離せば。
お嬢様が足を取られたとき、支え損ねてくだされば、次からは私をお呼びになるのではないか。
お嬢様の靴が石の縁へ掛かり、私は息を呑んで手を伸ばした。
けれど、その身体が傾くより先に、濃い上着の腕が支えていた。
「大丈夫ですか」
「ええ。ありがとうございます」
差し出しかけた手を、下ろした。
お怪我がなくてよかった。本当に、よかった。
それなのに、あの腕が邪魔で仕方がない。
私なら、どの石でつまずきそうになるかも知っている。
裾が濡れる高さも、冷たい風で耳が痛くなる時間も。
けれど、そんなことを一つずつ並べてみても、お嬢様の指は戻ってこなかった。
「お父上から、こちらの暮らしを伺いました。急なことで驚かれたでしょう」
ジュリアン様の声が、低い生垣の向こうへ広がった。
「……はい。でも、ご迷惑にはならないように」
「私の前では、気を張りすぎないでください。私も、得意なことばかりではありませんから」
お嬢様の歩みが少しゆっくりになった。
庭の突き当たりでジュリアン様が先の住まいの話をなさると、お嬢様は今度こそ私を振り向いた。
言い出すまで待っていたかったのに、奥様が回廊から近づいてくるのが見えて、私は一歩だけ前へ出た。
「恐れ入ります。お嬢様には、身の回りのお支度に慣れた者がおります。もしお住まいが変わられます場合、侍女の同行はお許しいただけますでしょうか」
最後まで、つかえずに申し上げられた。
自分の口がずいぶん他人行儀に動くものだと、話しながら思っていた。
「あなたが?」
「リュジィ・ウェルネと申します」
私の名前など、ご存じなくてもよかったのに。
お嬢様さえ呼んでくださればよかった名前を、この方に覚えていただこうとしている。
連れていっていただくために。お側へ置いていただくために。
ジュリアン様はお嬢様の顔を見た。
「もちろん。コレット様がお望みなら」
「……よろしいのですか」
「大事な方でしょう」
お嬢様の肩から力が抜けた。
私を見る目が明るくなり、その変化を見たジュリアン様も笑われる。
その笑顔まで、あなたのものになさるのですね。
私が一緒にいられると知って、喜んでくださったのに。
それを叶えてくださった優しい方として、お嬢様はあなたにも、同じ顔を向けられる。
奥様は回廊の柱のそばで足を止めていた。
私は深く頭を下げた。顔を隠したまま、このお返事を伯爵にも聞いていただく段取りを考える。
早く約束にしてしまわなければ。
あとになって私だけ要らないと言われても、覆せないように。
「お心遣い、感謝いたします」
何に。
何を感謝しているの、私は。
お嬢様を連れていく方に、私も連れていってくださいと頼んだ。
それを許されて、今、礼まで申し上げている。
お側に残れることはうれしかった。うれしいから、なおさら、頭を上げたくなかった。
この方が許さなくても、私はお嬢様に触れられたのに。
お帰りのあと、伯爵は先方が好感を持たれたことに満足し、奥様は菓子皿を下げるよう侍女に命じた。
縁談を進めるという言葉を、お嬢様は静かに聞いていらした。
私は下げられる皿から、木の実の菓子を一つ取った。
お嬢様が何度か目を向けながら、一度も手を伸ばせなかったものだった。
部屋へ戻って肩掛けを外すと、お嬢様が長く息を吐いた。
「優しい方だったわ」
「はい」
「リュジィが一緒でもよいと、すぐに言ってくださった」
「そのお約束は、私がしっかり覚えておきます」
そんなことを許すだけで、優しい方になれるのですね。
私は毎朝ここへ来て、お髪を結い、お食事を運び、お嬢様がお眠りになるまで離れずにいた。
その私を連れていってよいと、たった一度仰っただけで。
お嬢様が笑われた。
私の返事に笑ってくださったのだと分かっているのに、まだ、あの方の話をしていることが嫌だった。
包んでおいた菓子を差し出すと、お嬢様の目がそちらへ移った。
「いつの間に」
「大切なご挨拶の日に、お腹を空かせたままでは困りますから」
そうです。こちらをご覧になって。
お好きなものも、召し上がれなかったことも、私は知っております。
お嬢様は菓子を半分に割り、大きいほうを私へ差し出された。
受け取る指に、手袋を外したばかりの指が触れる。
そのまま触れていたくて、私は菓子を受け取るのを少しだけ遅らせた。
「あなたがいるなら、行ける気がするわ」
菓子の欠片を落とさないよう手を添えながら、お嬢様はそう仰った。
私はその手の下へ自分の手を重ねた。お嬢様の望まれる場所へお連れする。
そのために今日できた道を、喜ばなければならない。
掌に落ちた小さな欠片を見ていると、あの方の腕に触れた指先だけを、もう一度洗って差し上げたくなった。




