第六話 あなたの横顔を
窓が開いていた。
朝から開け放していても、もう肩掛けはいらなかった。
庭の花壇には色とりどりの花が咲きそろい、窓辺まで伸びた枝の葉が、柔らかな風に揺れている。
机に広げた紙の端が持ち上がると、お嬢様が慌てて手を置かれた。
「リュジィ。そちらを押さえていて」
読んでいた本を閉じ、言われた方へ手を伸ばす。
お嬢様は紙の上へ小さな花を置き、重なっていた花びらを指先でそっと広げられた。
「さっき、お庭で見つけたの。もう折れていたから、持ってきてしまったわ」
薄い袖から覗く手首に日が当たっている。
朝の散歩で頬も少し赤くなっていて、花を覗き込む横顔から、しばらく目を離せなかった。
「押し花にしたら、この色も残るかしら」
「少し変わるかもしれませんが。もう一枚、紙を重ねましょう」
花びらが折れないように紙をかぶせ、重しにする本を探す。
私が手元の一冊へ目を向けると、お嬢様は先にそれを取り、机の端へよけられた。
覗いていた青い花の栞には、紅茶の小さな染みがあった。
「これはだめ。まだ途中でしょう」
「では、棚の辞書を借りてまいります」
「ええ。でも、その前に。これ、ずれていない?」
お嬢様が紙の隅を押さえる。
私は確かめるふりをして、そのすぐ隣へ指を置いた。
日差しの中で触れ合った指先は温かく、お嬢様も手を引かれなかった。
少しだけ、こちらから指を寄せてみる。
お嬢様は私の手を見て、それから顔を上げられた。
何も仰らずに笑ってくださるので、辞書を取りに立つことが、急に惜しくなった。
ああ、好き。
そんな顔をしてくださるなら、花を押さえるだけの用事でも、一日中していたい。
紙はもう動いていないのに、二人とも、しばらくそうしていた。
それだけの朝だった。
◇◇◇
目が覚めると、窓は閉じていた。
外には秋の冷たい空があり、私の手は毛布の端に載っていた。
指を折り曲げてから、もう一度、ゆっくり開く。
お嬢様が、生きていらした。
私を見て、私を呼んで、手に触れていた。
あの染みのついた栞は、数日前まで綺麗だった。
今より前の思い出を、眠りながら見ていたのではない。
凍った窓と、葉のない枝。
その冷たい景色の先に、今朝の景色があるのなら。
夢の順番がそのまま先の順番になるかは分からない。
暖かな日のあとで、また冬が来ることだってある。
それでも、腕の中の冷たさしか思い描けずにいた私には、花を拾って笑うお嬢様の姿が、息をつける場所になった。
あんなふうに、何でもない日が来るのかもしれない。
私は顔を両手で覆った。
笑おうとしたら、息が少し震えた。
今日で、別の仕事を任されて四日目だった。
短剣について尋ねて回ったことを、奥様は知っていらした。
私が気づかずにいる侍女ではないと分かったから、遠ざけようとなさったのではないか。
それなら、私のしたことには意味があった。
私は起き上がり、昨晩揃えた書付を確かめた。
今日するべきことは、眠る前から決まっていた。
朝のお支度を終えたあと、私は家令とともに伯爵の書斎へ向かった。
冬支度の帳面は昨日のうちに整えてある。
余っている品も、不足している品も一度に分かるようにし、追加で買わずに済む布類には、別の印をつけた。
伯爵が頁をめくる間、私は机の前で待った。
「これが、まだ棚にあるのか」
「はい。客用として記されていますが、北側のお部屋へ配る分も混じっておりました。コレット様のお部屋には、厚い敷物がございません」
伯爵は購入額の欄を見直した。
「あるものを使えばいい」
「ありがとうございます。それから、お嬢様のお食事についても、お願いがございます」
伯爵の指が止まった。
「お部屋で召し上がる日にも、食堂と同じお料理をご用意いただけますか」
今朝も、お嬢様の盆に載っていたのはパンが一つと茶器だけだった。
食堂には卵料理まで運ばれていたのに。
「お嬢様は、食事を減らしてほしいとは仰っておりません。お加減が悪いときには私から厨房へ伝えますので、それ以外は、皆様と同じようにお願いいたします」
「コレットが、そう言っているのか」
「いいえ。お嬢様は出されたものを召し上がります。ですので、お世話をする者からお願いに上がりました」
伯爵は少し面倒そうに背もたれへ身を預けた。
「人前に出る機会もある。やつれた顔をされては困るな」
お嬢様の空腹より、そのほうが気にかかるのだろう。
それでも、出される食事が同じなら、いまはその理由で構わなかった。
家令へ指示をなさるのを待ってから、私は最後の書付を出した。
「それと、こちらは私がお側に上がった際の取り決めでございます。コレット様のお世話を第一の務めとしております」
私の家名と、伯爵の署名がある紙だった。
「ほかのお仕事も、お嬢様のお世話に差し支えない範囲であれば、お受けいたします。ただ、このところは、お食事にも外出にも付き添えずにおります。こちらの取り決めどおり、お嬢様のお世話を優先させていただきたく存じます」
人が替わるたび、前の者がしたはずだと言われる。
お嬢様のための品が届かず、食事が抜けても、誰も自分の仕事だと思わない。
伯爵は私と家令を見比べたあと、短く息を吐いた。
「コレットのほうを先にしろ。ほかの用は、その合間だ。家令からも伝えておけ」
私は深く頭を下げた。
嬉しさが顔へ出る前に、お辞儀をする理由ができてよかった。
廊下へ出ると、家令は書付を返しながら私を見た。
「ずいぶん準備をしたものだな」
「帳面の整理を仰せつかりましたので」
間違ったことは申し上げていない。
家令は何か言いかけ、結局、敷物を運ぶ者を手配しに行った。
奥様に会ったのは、衣装部屋の鍵を返すときだった。
私の後ろでは下男が、厚い敷物と毛布を運んでいた。
奥様はその荷を見て、唇を細くなさった。
「主人にまで、余計な手を煩わせたのね」
「お嬢様のお世話に関わることですので。今後も、必要なお品とお食事は、こちらで確認いたします」
私は目を伏せる前に、奥様の顔をまっすぐ見た。
気づかないままにはしておきません。
誰が何をお嬢様に与え、何を奪うのか、見ております。
口にした言葉より長いものが伝わったのか、奥様は返事をせず、私の脇を通っていかれた。
今朝の夢を思い出した。
こうして周りへ知らせ、そばへ戻れば、奥様も思うままにはなさらないはずだ。
少なくとも、私をどこかへ追いやれば済むとは、思っていただかずに済む。
それがあの春へつながるのなら、私は何度でも頭を下げる。
◇◇◇
敷物を敷く間、お嬢様には廊下の椅子で待っていただいた。
毛布まで運び込まれるのを眺めていたお嬢様は、私が隣へ立つと、声を落とされた。
「リュジィ、叱られなかった?」
「帳面が読みやすいと、お褒めいただきました」
褒められたとまでは言えないかもしれない。
けれど、あの家令が読み直しを一度も命じなかったのだから、上出来だろう。
お嬢様は私の顔をじっと見たあと、指先で袖を撫でられた。
「お嬢様のお側へ戻れます。明日からは、お茶の時間にも」
それを聞くと、お嬢様の肩から力が抜けた。
「よかった。刺繍の鳥、あと少しでできるの。あなたに見ていてほしかったわ」
「針のお邪魔をしないよう、努めます」
お嬢様はようやく笑ってくださった。
袖に触れていた指も、まだ離れない。
はい。見ておりますとも。
針を運ぶたびに伏せられる睫毛も、うまく縫えたときに緩む口元も、見逃したくありません。
部屋へ戻り、窓の隙間に入れた布を確かめる。
留め具の修繕は頼み直したが、まだ人の来る日は決まっていない。
それまでは椅子を少し内側へ寄せ、足元に敷物を広げておく。
それだけでも、お嬢様が座られたときの肩の縮み方が違った。
私はその後ろへ回り、ほどけかけた髪を直した。
外に出ない日は、きつく結わないほうがお嬢様はお好きだ。
耳の下で髪をまとめると、細い首筋が覗いた。
目を離せずにいると、お嬢様が鏡越しにこちらをご覧になった。
「リュジィ?」
「いいえ、美しいお嬢様に見とれておりました」
もう、と恥ずかしそうに鏡の中で目を逸らすお嬢様が、たまらなく可愛らしい。
あとで届いた昼食の盆には、パンのほかに、湯気の立つ煮込みが載っていた。
お嬢様は少し目を丸くしてから、私をご覧になった。
「今日は、温かいうちに召し上がれますね」
椅子を引くと、お嬢様は腰を下ろし、匙を取られた。
一口召し上がって、ほっとしたように口元を緩められる。
それを見て、朝から伯爵に申し上げたことの何もかもが、報われた気がした。
「今度、お庭を歩きませんか」
「落ち葉が綺麗なうちに?」
「はい。お気に召すものがあれば、本に挟んで残しましょう」
お嬢様は窓の外へ目を向けられた。
「では、あなたも選んでね。私の分だけではなくて」
「かしこまりました」
春の夢のことは、申し上げなかった。
どの葉になさるか迷われる横顔も、拾ったものを私へ見せてくださる指先も、まだ見ていないのに、もう楽しみだった。
そのときも、きっと葉よりお嬢様を見てしまう。
今度も見とれていることを隠さずにいたら、また、あの顔をしてくださるだろうか。




