↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/17

第五話 あなたのいない時間

 奥様に呼ばれたのは、工房へ出かけた翌朝だった。


 食堂にはまだ茶の香りが残っていたが、伯爵の席は空いていた。

 奥様は新聞を脇へ置き、立ったままの私を足元から見上げた。


「あなた、家の武具を調べているそうね」


 私は胸の前で手を揃えた。


「似た細工のお品を捜しておりました」

「家令が不思議がっていたわ。侍女が飾り棚を開けて、何をしているのかしらと」

「許しを頂いたうえで、お手入れをいたしました」


 奥様の指が、茶碗の取っ手を撫でた。


「コレットを連れて、店にも行ったのでしょう」


 昨日の外出は、買い物の届けに書いてある。

 知られて困る行動はしていない。

 それでも私は、返事の前に息を整えなければならなかった。


「はい。ロジェ工房へ伺いました」


 店名を出しても、奥様の表情は変わらなかった。


「暇があるようだから、別の仕事もしてもらいます。今日から四日、衣装部屋と客用の布類を整理なさい。冬支度の帳面も一緒に」

「お嬢様のお世話がございますので、午後の手が空いた時間でしたら」

「朝の支度が終わったら来るのよ。夕方までには終えられるでしょう。コレットには別の者をつけます」


 返事をしない私へ、奥様はようやく目を上げた。


「あの子も二十一よ。いつまでも、あなたがいないと何もできないのでは困るわ」


 私がいなければ冷たいものしか食べられず、暖かい部屋から追い出されるのは、お嬢様のせいではない。


 言葉を選ぶために唇を結んだ私を、奥様は了承したものとして扱った。

 新聞を開き直し、もうこちらを見なかった。


 工房へ行った翌日に、お嬢様のそばを離れろと言われた。


 家令から話を聞いたことも、冬支度が必要なことも、本当なのだろう。

 けれど、胸の奥に生まれた疑いは、それだけでは消えなかった。


 奥様が、私の捜しているものを気にしていらっしゃる。

 少なくとも、好きに歩き回らせておきたくはないのだ。


 お嬢様の部屋へ戻ると、机の上に本が開いていた。

 私は茶器を片づけながら、別の仕事を言いつかったことを伝えた。


「夕方まで?」


 お嬢様の指が、頁の端を押さえた。


「はい。お休みのお支度には、必ず戻ってまいります。お昼には代わりの者が」

「そうなの」


 問い返さずに頷かれるので、かえって胸が詰まった。

 いてほしいと仰ってくだされば、私はその言葉を抱えて、もう一度食堂へ戻ったかもしれない。


 けれどお嬢様は、私の袖のボタンを見つめているだけだった。


「あなたが困ることを言ってしまいそうだから、早く行って」


 小さな声に、私は盆を置いた。

 お嬢様の前へ膝をつき、袖に触れそうで触れずにいる手を取る。


「困らせてくださっても、よろしいのですよ」


 そう申し上げたのに、お嬢様は口を結んで首を振られた。

 私を行かせようと、ご自分で指をほどいてくださる。


 その物分かりのよさが、いまは少し憎かった。


「……日が暮れる前に、お顔を見にまいります」


 私から離した指が、すぐに膝の上で握られた。

 扉を閉めるまで見送ってくださる目を、私は何度も振り返った。


 代わりを任された侍女には、昼食の時刻と、お茶を熱くしすぎないことを伝えた。

 肩掛けの場所も、窓際に長く座らせないでほしいことも。


 言いつけることが増えていく私を、侍女は困ったように見ていた。


「そんなにお体が悪いのですか」

「いいえ。寒いとお指が冷えてしまわれるだけです」


 自分でも、少し言いすぎたと分かっていた。

 私は口を閉じ、お嬢様のお昼を頼みます、とだけ付け足した。



◇◇◇



 衣装部屋の窓は高く、背を伸ばしても庭の一部しか見えなかった。


 お嬢様のお部屋のある側は反対の棟だった。


 朝、目を覚まして最初にお会いし、仕事の合間にも顔を見に行く。

 その当たり前がなくなると、時刻を知るために時計を見る回数ばかりが増えた。


 どうにも日中の時間が伸びてしまったらしかった。

 お嬢様といる時は、時間を伸ばしてはくれないのに、こんな時ばかり伸ばしてくる意地悪な神様に、文句の一つでも言いたくなる。


 棚の布を一つずつ下ろし、枚数と傷みを確かめ、帳面に印をつける。

 手を止めれば、戻る時間が遅くなる。


 昼前、返却する布を口実に、お嬢様のお部屋へ向かった。

 お嬢様のお部屋の扉は開いていて、中から声が聞こえた。


「これを、下に敷いてもいいかしら」

「ええ。こちらなら、机も傷みません」


 代わりの侍女が、刺繍枠の下へ厚い布を敷いていた。

 お嬢様は礼を言い、針を置く小皿を自分で寄せていらっしゃる。


 お困りではないのですね。


 でも、お嬢様が置かれた小皿の位置が少し気になった。

 そこでは糸が引っかかるから、いつも、もう少し右へ置いている。


 教えて差し上げようとして、扉を叩く手が止まった。


 一度くらい、引っかかってしまわれればいい。


 糸が絡んで手を止めて、いつものように私の名前を呼んでくだされば。

 けれど、お嬢様は小皿を少しずらし、そのまま針を取られた。


 ……そんなことまで、覚えてしまわれたのですか。


「リュジィ」


 お嬢様が私を見つけると、顔が明るくなった。

 その変わりようを見て、ようやく息がしやすくなる。


「布を届ける途中なのです。お茶は召し上がりましたか」

「ええ。少し薄めてもらったの。おいしかったわ」


 侍女は私の顔を見て、小さく頷いた。

 私は礼を言った。お嬢様のお茶を、ちゃんと頼んだとおりにしてくれた人へ、心から。


 それでも、お嬢様がほかの誰かへ遠慮せずに頼めたことに、ほんのわずか寂しさを感じた。


 なんて勝手なのだろう。


「夕方は、この続きをお見せするわね」


 刺繍枠が少し持ち上がった。

 まだ輪郭だけの小鳥が、枝へとまっていた。


「楽しみにしております」


 その言葉を残して、私は衣装部屋へ戻った。


 午後は帳面の数字がなかなか合わなかった。

 古い毛布と新しい毛布を一緒に数えた記録があり、昨年の購入分だけが別の頁に移されている。


 やり直していくうちに、北側の部屋へ配るはずの厚い敷物が、客用の棚に入ったままだと分かった。


 お嬢様のお部屋の敷物は薄く、足元から冷える。


 私は品物の番号と枚数を、紙の端に控えた。

 いま勝手に持っていけば、また持ち出しを責められる。

 帳面を整えるついでに、正しく配り直すよう求めることならできるはずだった。


 奥様のお言いつけでここにいるのだ。

 その間に、お嬢様のためになるものを一つも持ち帰れないのは、悔しい。


 日が傾き始めたところで、ようやく一日目の分を終えた。

 家令に帳面を渡し、階段を上がる。


 走らずに歩こうとすると、足の先ばかりが急いだ。


 お嬢様は椅子に座って、本を読んでいらした。


 私たちが一緒に読んだときより、ずいぶん先が開かれていた。

 青い花の栞は机の上に置かれ、傷まないよう平らに伸ばしてある。


「おかえりなさい」


 その声を聞いた途端、私は扉を閉める手に力を入れすぎた。


「ただいま戻りました。お待たせしてしまいましたね」

「少し、寂しかったわ。でも、これを読んでいたらもうお茶の時間だったの」


 お嬢様は本へ視線を戻し、それから困ったように私を見た。


「あなたより、ずいぶん先に進んでしまったわ」

「もちろん構いませんよ」

「森から出たあとのこと、あとでお話ししてもいい?」


 あの主人公は、私の知らないところで森を出たらしい。


 私は椅子を寄せ、お嬢様が話し始めるのを待った。

 登場人物の言葉を思い出そうとして目を上げたり、うまく説明できず笑ったりする顔を見ていると、一日の疲れがゆっくり薄れていく。


 私のことを待ち続けて、寂しく一日を過ごされたわけではなかった。

 それはよいことだった。


 楽しそうに話してくださるお嬢様を見ていると、私もうれしい。

 その気持ちに、嘘はない。


 けれど、私がいない間にも、こんなふうに笑っていらしたのだろうか。


 続きを聞きたくて、椅子をもう少し寄せた。

 明日は私が戻るまで、その本を開かないでいてくださればいいのに。


 話が終わると、お嬢様は私の肩へ額を寄せられた。

 遠慮がちに置かれた重みを逃がさないよう、私は少し肩を下げ、お嬢様のほうへ身を寄せた。


「今日は、少しだけこうしていてもいい?」

「少しで足りますか」


 小さな笑い声が、肩のすぐそばで聞こえた。


 私は髪に触れた。

 指を通すと、朝から離れていただけなのに、ひどく懐かしい柔らかさが指の間を抜けていく。


 この方を誰かの悪意の前に置いたまま、離れることなどできない。


 短剣を捜し始めた私を遠ざけたかったのなら、奥様にはお諦めいただく。

 仕事を増やされただけで引き下がるほど、行儀よくお仕えするつもりはなかった。


 お嬢様がお休みになったあと、私は自室の箱を開けた。


 お側に上がったときに交わした書付と、今日控えた布類の記録を、机へ並べる。

 私が任された役目を、もう一度、読み直すために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。