第五話 あなたのいない時間
奥様に呼ばれたのは、工房へ出かけた翌朝だった。
食堂にはまだ茶の香りが残っていたが、伯爵の席は空いていた。
奥様は新聞を脇へ置き、立ったままの私を足元から見上げた。
「あなた、家の武具を調べているそうね」
私は胸の前で手を揃えた。
「似た細工のお品を捜しておりました」
「家令が不思議がっていたわ。侍女が飾り棚を開けて、何をしているのかしらと」
「許しを頂いたうえで、お手入れをいたしました」
奥様の指が、茶碗の取っ手を撫でた。
「コレットを連れて、店にも行ったのでしょう」
昨日の外出は、買い物の届けに書いてある。
知られて困る行動はしていない。
それでも私は、返事の前に息を整えなければならなかった。
「はい。ロジェ工房へ伺いました」
店名を出しても、奥様の表情は変わらなかった。
「暇があるようだから、別の仕事もしてもらいます。今日から四日、衣装部屋と客用の布類を整理なさい。冬支度の帳面も一緒に」
「お嬢様のお世話がございますので、午後の手が空いた時間でしたら」
「朝の支度が終わったら来るのよ。夕方までには終えられるでしょう。コレットには別の者をつけます」
返事をしない私へ、奥様はようやく目を上げた。
「あの子も二十一よ。いつまでも、あなたがいないと何もできないのでは困るわ」
私がいなければ冷たいものしか食べられず、暖かい部屋から追い出されるのは、お嬢様のせいではない。
言葉を選ぶために唇を結んだ私を、奥様は了承したものとして扱った。
新聞を開き直し、もうこちらを見なかった。
工房へ行った翌日に、お嬢様のそばを離れろと言われた。
家令から話を聞いたことも、冬支度が必要なことも、本当なのだろう。
けれど、胸の奥に生まれた疑いは、それだけでは消えなかった。
奥様が、私の捜しているものを気にしていらっしゃる。
少なくとも、好きに歩き回らせておきたくはないのだ。
お嬢様の部屋へ戻ると、机の上に本が開いていた。
私は茶器を片づけながら、別の仕事を言いつかったことを伝えた。
「夕方まで?」
お嬢様の指が、頁の端を押さえた。
「はい。お休みのお支度には、必ず戻ってまいります。お昼には代わりの者が」
「そうなの」
問い返さずに頷かれるので、かえって胸が詰まった。
いてほしいと仰ってくだされば、私はその言葉を抱えて、もう一度食堂へ戻ったかもしれない。
けれどお嬢様は、私の袖のボタンを見つめているだけだった。
「あなたが困ることを言ってしまいそうだから、早く行って」
小さな声に、私は盆を置いた。
お嬢様の前へ膝をつき、袖に触れそうで触れずにいる手を取る。
「困らせてくださっても、よろしいのですよ」
そう申し上げたのに、お嬢様は口を結んで首を振られた。
私を行かせようと、ご自分で指をほどいてくださる。
その物分かりのよさが、いまは少し憎かった。
「……日が暮れる前に、お顔を見にまいります」
私から離した指が、すぐに膝の上で握られた。
扉を閉めるまで見送ってくださる目を、私は何度も振り返った。
代わりを任された侍女には、昼食の時刻と、お茶を熱くしすぎないことを伝えた。
肩掛けの場所も、窓際に長く座らせないでほしいことも。
言いつけることが増えていく私を、侍女は困ったように見ていた。
「そんなにお体が悪いのですか」
「いいえ。寒いとお指が冷えてしまわれるだけです」
自分でも、少し言いすぎたと分かっていた。
私は口を閉じ、お嬢様のお昼を頼みます、とだけ付け足した。
◇◇◇
衣装部屋の窓は高く、背を伸ばしても庭の一部しか見えなかった。
お嬢様のお部屋のある側は反対の棟だった。
朝、目を覚まして最初にお会いし、仕事の合間にも顔を見に行く。
その当たり前がなくなると、時刻を知るために時計を見る回数ばかりが増えた。
どうにも日中の時間が伸びてしまったらしかった。
お嬢様といる時は、時間を伸ばしてはくれないのに、こんな時ばかり伸ばしてくる意地悪な神様に、文句の一つでも言いたくなる。
棚の布を一つずつ下ろし、枚数と傷みを確かめ、帳面に印をつける。
手を止めれば、戻る時間が遅くなる。
昼前、返却する布を口実に、お嬢様のお部屋へ向かった。
お嬢様のお部屋の扉は開いていて、中から声が聞こえた。
「これを、下に敷いてもいいかしら」
「ええ。こちらなら、机も傷みません」
代わりの侍女が、刺繍枠の下へ厚い布を敷いていた。
お嬢様は礼を言い、針を置く小皿を自分で寄せていらっしゃる。
お困りではないのですね。
でも、お嬢様が置かれた小皿の位置が少し気になった。
そこでは糸が引っかかるから、いつも、もう少し右へ置いている。
教えて差し上げようとして、扉を叩く手が止まった。
一度くらい、引っかかってしまわれればいい。
糸が絡んで手を止めて、いつものように私の名前を呼んでくだされば。
けれど、お嬢様は小皿を少しずらし、そのまま針を取られた。
……そんなことまで、覚えてしまわれたのですか。
「リュジィ」
お嬢様が私を見つけると、顔が明るくなった。
その変わりようを見て、ようやく息がしやすくなる。
「布を届ける途中なのです。お茶は召し上がりましたか」
「ええ。少し薄めてもらったの。おいしかったわ」
侍女は私の顔を見て、小さく頷いた。
私は礼を言った。お嬢様のお茶を、ちゃんと頼んだとおりにしてくれた人へ、心から。
それでも、お嬢様がほかの誰かへ遠慮せずに頼めたことに、ほんのわずか寂しさを感じた。
なんて勝手なのだろう。
「夕方は、この続きをお見せするわね」
刺繍枠が少し持ち上がった。
まだ輪郭だけの小鳥が、枝へとまっていた。
「楽しみにしております」
その言葉を残して、私は衣装部屋へ戻った。
午後は帳面の数字がなかなか合わなかった。
古い毛布と新しい毛布を一緒に数えた記録があり、昨年の購入分だけが別の頁に移されている。
やり直していくうちに、北側の部屋へ配るはずの厚い敷物が、客用の棚に入ったままだと分かった。
お嬢様のお部屋の敷物は薄く、足元から冷える。
私は品物の番号と枚数を、紙の端に控えた。
いま勝手に持っていけば、また持ち出しを責められる。
帳面を整えるついでに、正しく配り直すよう求めることならできるはずだった。
奥様のお言いつけでここにいるのだ。
その間に、お嬢様のためになるものを一つも持ち帰れないのは、悔しい。
日が傾き始めたところで、ようやく一日目の分を終えた。
家令に帳面を渡し、階段を上がる。
走らずに歩こうとすると、足の先ばかりが急いだ。
お嬢様は椅子に座って、本を読んでいらした。
私たちが一緒に読んだときより、ずいぶん先が開かれていた。
青い花の栞は机の上に置かれ、傷まないよう平らに伸ばしてある。
「おかえりなさい」
その声を聞いた途端、私は扉を閉める手に力を入れすぎた。
「ただいま戻りました。お待たせしてしまいましたね」
「少し、寂しかったわ。でも、これを読んでいたらもうお茶の時間だったの」
お嬢様は本へ視線を戻し、それから困ったように私を見た。
「あなたより、ずいぶん先に進んでしまったわ」
「もちろん構いませんよ」
「森から出たあとのこと、あとでお話ししてもいい?」
あの主人公は、私の知らないところで森を出たらしい。
私は椅子を寄せ、お嬢様が話し始めるのを待った。
登場人物の言葉を思い出そうとして目を上げたり、うまく説明できず笑ったりする顔を見ていると、一日の疲れがゆっくり薄れていく。
私のことを待ち続けて、寂しく一日を過ごされたわけではなかった。
それはよいことだった。
楽しそうに話してくださるお嬢様を見ていると、私もうれしい。
その気持ちに、嘘はない。
けれど、私がいない間にも、こんなふうに笑っていらしたのだろうか。
続きを聞きたくて、椅子をもう少し寄せた。
明日は私が戻るまで、その本を開かないでいてくださればいいのに。
話が終わると、お嬢様は私の肩へ額を寄せられた。
遠慮がちに置かれた重みを逃がさないよう、私は少し肩を下げ、お嬢様のほうへ身を寄せた。
「今日は、少しだけこうしていてもいい?」
「少しで足りますか」
小さな笑い声が、肩のすぐそばで聞こえた。
私は髪に触れた。
指を通すと、朝から離れていただけなのに、ひどく懐かしい柔らかさが指の間を抜けていく。
この方を誰かの悪意の前に置いたまま、離れることなどできない。
短剣を捜し始めた私を遠ざけたかったのなら、奥様にはお諦めいただく。
仕事を増やされただけで引き下がるほど、行儀よくお仕えするつもりはなかった。
お嬢様がお休みになったあと、私は自室の箱を開けた。
お側に上がったときに交わした書付と、今日控えた布類の記録を、机へ並べる。
私が任された役目を、もう一度、読み直すために。




