第四話 あなたの温もり
馬車を降りると、お嬢様は私の腕に手を添えたまま、通りを見渡された。
軒先には秋物の布が並び、向かいの果物屋では林檎の箱が高く積まれている。
お屋敷の窓から見るよりずっと忙しい街を、お嬢様の青い目がゆっくり追っていた。
「先に糸を買いましょう。それから、お時間があればほかのお店も」
「あなたの用事はいいの?」
「針は糸の隣にございますよ」
「絵のほうよ」
私は腕に添えられた手を見た。
お嬢様は少し遠慮がちに、私へ顔を向けられる。
「気になっていたのでしょう。途中にあるお店なら、寄ってもいいわ」
口元に出かかったお礼が、うまく言葉にならなかった。
わざわざ、お嬢様に見せるための笑顔を作らなくてもいい。
こういうときに困るのは、むしろ頬が緩みすぎることだった。
私を気遣ってくださるお嬢様が、どうしようもなく愛おしい。
「では、お言葉に甘えます」
衣装部屋で見た箱の店は、糸を買う店から角を曲がった場所にあった。
大きな硝子窓に、留め金や飾りボタンが並んでいる。
店員に箱の印を書き写した紙を見せると、すぐに奥から同じ品の載った見本帳が出てきた。
私は薔薇の留め金を指し、細工をした工房について尋ねた。
「これはロジェ工房です。銀の蔓がお好きでしたら、ほかのお品もございますよ」
差し出された小箱には、葡萄の葉をかたどった髪飾りが入っていた。
近づいて見ると、葉の裏まで細い線が刻まれている。
夢で見た百合とは違っていたが、金属を柔らかなもののように見せる曲線はやはり似ていた。
「絵から、お品を作っていただくこともできるのでしょうか」
「ええ。お祝いのお品なら、皆様そうなさいます。装身具のほかに、銀器や飾り短剣も。少々値は張りますが、贈り物なら間違いはございません」
短剣という言葉に、紙を持つ指が止まった。
お嬢様は髪飾りを丁寧に、そっと箱へ戻していらした。
店員はその様子を気に入ったらしく、工房までの道を細やかに教えてくれた。
「すぐそこですよ。青い看板のある建物です。店にない意匠でしたら、直接ご相談なさるのがよろしいかと」
買い物を終えたお嬢様の手提げに、糸の包みを収める。
お屋敷へ戻るまでにはまだ間があった。
「少し歩きますが、お疲れではございませんか」
「ええ。リュジィがいるもの」
何気なく続けられた言葉が、通りの賑やかさから私だけを引き離した。
私がいるから。
では、私がこのまま遠くまで連れ去ってしまっても、着いて来てくださいますか。
お嬢様が答えに困るようなことを訊きたくなるのを抑え、私は車道側へ回った。
行き交う人の肘が触れそうになるたび、その肩をこちらへ寄せる理由ができた。
もう少し人通りが多ければよかったのに。
ロジェ工房の扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
棚には銀の匙や燭台が並び、奥の作業台では年配の男が、布を当てた何かを磨いていた。
店先に出てきた女性へ絵を見せると、男も手を止めてこちらへやってきた。
「こちらと同じものを、お作りになったことはございますか」
私は紙を広げた。
お嬢様は隣に立ち、両手で手提げを持っていらした。
男は絵の向きを変え、百合の部分へ目を近づけた。
「これは、うちの品を見て描いたものですか」
「それが分からなくて、伺いました」
「この形には覚えがありませんね。蔓の細工はうちでも使いますが、この花とは組み合わせていないはずです」
店の女性も覗き込み、首を横に振った。
ここにないのなら、また別の場所を探さなければならない。
「うちのものかと思うくらい、よく似ています。同じものを作ることはできますよ」
男は自分の指で、紙の蔓を辿った。
「中央は赤い石ですか」
「はい。明るい赤ではなく、もう少し暗い色でした」
小皿に載った見本を出してくれたので、私はその中の一つを示した。
「これに、近いと思います」
お嬢様が少し身をかがめられた。
金の髪が肩から滑りそうになり、私は手を上げかけて、すぐに下ろした。
朝には何度も触れた髪なのに、外でそうするのは、何かいけないことのように思えた。
下ろした指先が落ち着かず、もう一度、その柔らかな束を目で追ってしまう。
「綺麗ね」
お嬢様の声に、男が頷いた。
「ご注文なら、石もお選びいただけます。簡単な絵とご希望を添えてくだされば、まずお値段と日数をお返事しますから」
「こちらへ、何度も伺わなくても?」
お嬢様は小皿から顔を上げないまま、説明を聞いていらした。
「お手紙でも構いませんよ。仕上がりは品によりますが、込み入ったものならひと月ほど頂きます。最初に一部をお預かりして、お渡しのときに残りを。お使いの方へお渡しすることもできます」
女性が、店の名と住所を刷った小さな紙を机へ置いた。
「贈り物でしたら、お包みもいたします。お届け先だけ、お間違いのないように」
私は紙を受け取り、手帳へ挟んだ。
注文をするつもりで伺ったのではないと伝えても、二人とも嫌な顔はしなかった。
男は絵を返し、女性は買ってきた糸の包みが傾いているのを直してくれた。
「ベルヴェーヌ家の方ですよね。奥様にもよろしくお伝えください」
店を出る前にそう言われ、私は扉の取っ手から手を離した。
「奥様もこちらへはよくいらっしゃるのですか」
「よくご用命を頂きますよ。先週も、新しい襟飾りをお渡ししたばかりです。蔓の細工をお気に召していただいて」
「そうでございましたか。ありがとうございます」
外へ出ると、秋の日差しが思ったより眩しかった。
奥様が買ったのは襟飾りだった。
短剣を注文したという話ではない。
それでも、奥様はこの店を御存じなのだ。
あの細工ができて、短剣を作り、使いの者へ品を渡してくれる店を。
「リュジィ」
呼ばれて顔を上げると、お嬢様が少し心配そうにしていらした。
「見つからなくて、がっかりした?」
「いえ。作っているところを、一つ知ることができましたから」
「そう」
お嬢様は手提げを持ち替え、空いたほうの手を私の腕へ戻された。
私が考え込んで歩き出すのを待っていてくださったのだと気づき、手帳を閉じた。
「お待たせいたしました。次は、お嬢様のお好きなところへ」
お嬢様は向かいの店の前で立ち止まられた。
並んでいたのは上等な宝飾ではなく、手袋や靴下を収めた浅い籠だった。
柔らかな灰色の手袋を一組取ると、私の手へそっと重ねてこられる。
「リュジィに新しいものを買いましょう。糸が出ているから」
いまつけている手袋の指の付け根を、お嬢様が撫でた。
昨日、針で引っかけてしまった場所だった。
「戻りましたら繕えますよ」
「でも、濡れたときの替えがあってもいいでしょう」
ご自分の財布を出されたので、私は手を止めた。
お嬢様は硬貨を数えながら、私の顔を見ずに続けられる。
「今日は、私に選ばせて」
お願いの形をした言葉だった。
私が断れば、お嬢様はきっと引っ込めてしまわれる。
「……では、こちらを頂いてもよろしいですか」
お嬢様の指から手袋を受け取ると、唇の端が嬉しそうに持ち上がった。
その顔を、私ひとりで持って帰りたかった。
誰にも渡さない場所に。
馬車に乗る前に手袋を替えると、お嬢様は私の指を一本ずつ眺め、寸法が合っていることを確かめられた。
「暖かい?」
「はい。ただ、惜しくて、仕事に使えなくなりそうです」
「それは困るわ。使ってほしくて買ったのよ」
私は手を差し出した。
段差を上がるお嬢様の手が、新しい布の上に重なる。
いつもより丁寧に、その指を包んだ。
手袋は暖かかった。
でも布を一枚隔てただけで、お嬢様の肌が少し遠くなるのが惜しい。
お嬢様にいただいた手袋なのに。
その手に触れるときだけは、外してしまいたくなる。
馬車の扉を閉めると、お嬢様は私の隣へ座られた。
人混みに疲れると、決まって隣に座ってくださる。
お屋敷の椅子同士では遠かった距離が、肩と肩が触れ合うほどに近づいて。
このままお嬢様の温もりを身体全体で感じていたい。
衣服の厚みさえも邪魔に思えた。
お嬢様は膝の手提げから覗く糸の色を眺めながら、今日は外に出られてよかった、と小さく仰った。
私も小さく頷き、手袋の下で温まり始めた指を、しばらく握り締めていた。




