第三話 あなたの知らないところで
細い蔓を描こうとして、紙に太い染みを作ってしまった。
机の隅には、うまく描けなかった紙が二枚重なっている。
白い百合と、その花びらを抱く銀の蔓。
中央の石は黒いインクでは塗り潰すしかなく、何度描き直しても、あの暗い赤にはならなかった。
今朝の眠りの終わりにも、私はあの部屋にいた。
窓の縁が白く凍り、向こうの庭には葉を落とした枝が重なっていた。
床に横たわるお嬢様へ手を伸ばしたところで目が覚め、朝のお支度をする間も、肩から寒さが抜けなかった。
お嬢様が夕食を召し上がるまで待って、ようやく紙に向かったのだ。
今、私が探せるものを、覚えているかたちにしておきたかった。
上手でなくても、見覚えがある方なら分かるだろう。
そう思って紙を持ち上げたところで、扉のほうから私の名を呼ぶ声がした。
「リュジィ、入ってもいい?」
私は椅子を引きかけて、机の角に膝をぶつけた。
「もちろんです。どうなさいました」
「あなたが来ないから。……今、痛くなかった?」
「少し」
お嬢様は笑わず、私の膝を見ていらした。
痛かったのは事実なので、平気ですよ、と付け足す。
ようやく安心してくださった顔を見ると、膝の痛みにすら感謝したくなった。
私の部屋は、お嬢様のお部屋から廊下を二度曲がったところにある。
わざわざ来てくださらなくても、お呼びいただければすぐに飛んでいくのに。
お嬢様は時々、ご自分でこちらまでいらっしゃる。
「お髪はもうほどかれたのですね」
「あなたが忙しそうだったから、今日は自分で。後ろだけ、少し」
背を向けられると、緩く残った編み目の途中で、一本のピンが引っかかっていた。
私は指を差し入れ、髪を引っ張らないよう抜いた。
「あと少しでございました」
「難しいのね」
残った髪をほどきながら、椅子を勧めた。
「それ、リュジィが描いたの?」
紙の端へ指を置いてから、触れてもいいか確かめるように振り返られる。
隠すつもりはなかった。
いずれお尋ねしなければならないと思っていた相手が、すぐ目の前にいる。
「お嬢様、こういう意匠のお品を、ご覧になったことはありませんか」
お嬢様は紙を持ち上げ、顔へ近づけられた。
「百合? 綺麗ね。こちらは……蔓なのね」
「はい。花びらの下から回って、ここで重なっています。真ん中には、赤い石が」
説明しながら指で辿ると、お嬢様の指に私の指が触れた。
爪の先が私の皮膚を滑り、その感触を追いかけそうになる。
いまは絵を見ていただかなければいけないのに。
「ここから先は、刃?」
「短剣の柄なのです」
お嬢様はもう一度、絵の全体を眺められた。
それから申し訳なさそうに、首を横へ振った。
「知らないわ。どうして?」
「少し気になりまして」
声が不自然に硬くならないよう、私は紙の端を整えた。
「お屋敷にあるお品かと思いましたので。お嬢様がお見かけになっていれば、と思ったのです」
「お父様の飾り棚なら、何本かあったと思うけれど。こんなに綺麗なものはなかったわ」
お嬢様は目を細め、描き損じた紙のほうまで眺めていらした。
「ずいぶん、一生懸命描いたのね」
「絵を習っておくべきでした」
「ちゃんと分かるわ。ここの花びら、薄くて、透けそう」
そこはインクがかすれただけだった。
けれど、お嬢様が綺麗だと言ってくださった瞬間、それは素晴らしいもののように思えた。
「実物は、もう少し繊細なのです。銀の蔓が花に沿って、離れないように巻いていて」
「リュジィは、それが好きなの?」
お嬢様は、まだ私の描いた蔓を見ていらした。
好きだと言ってしまうのが怖かった。
あの場所に落ちていたものを美しいと認めることは、お嬢様を裏切るような気がして。
けれど私が嫌いなのは、花のかたちではなかった。
「細工は、とても綺麗だと思いました」
そう答えると、お嬢様は小さく頷かれた。
私が紙を受け取るまで、折れ目がつかないように両手で支えていてくださった。
机へ戻した途端、その手が私の指を捕まえた。
「ここ、黒くなっているわ」
親指についたインクを、お嬢様がご自分のハンカチで拭こうとなさる。
慌てて止めると、かえって手を離してもらえなくなった。
「私の指が汚れていたら拭いてくれるのに、リュジィの指を拭くのはだめなの?」
「ハンカチが汚れてしまいます」
「ハンカチは汚れることがお仕事なのよ」
お嬢様は少し得意そうだった。
私は言い返すのを諦め、差し出した手をそのままにした。
白い布が指の間を動く。
世話をするたび、私を必要としてほしいと思うくせに。
こうして役目を取られると、今度はいつまでも甘えていたくなるのだから、私は始末が悪い。
「取れないわね」
「では明日の私の目印にいたしましょう。お嬢様が寝ぼけてしまわれても、他の者とお間違えになりません」
「間違えないわ」
お嬢様は手を離し、私を見上げられた。
「もう、お部屋へ来られる?」
「はい。お休みのお支度をいたしましょう」
絵を引き出しへ収める前に、お嬢様が一度だけ、百合へ目を落とされた。
それから私の袖をつまんで、いつものように歩き出した。
◇◇◇
翌朝、私は伯爵の飾り棚を確かめる許しを得た。
銀磨きのついでに金具も拭きたいと申し出ると、家令は鍵を渡してくれた。
手入れをするものが増えることに異論はないらしい。
朝食後のお嬢様には、しばらく本を読んでお待ちいただいている。
棚の中には、鞘に収められた短剣が四本あった。
革張りのものと、家紋のあるものが二本ずつ。
柄にも鞘にも花の飾りはなく、私は順に磨きながら、あの夢の短剣を思い出していた。
お嬢様はこの部屋へ、滅多にお入りにならない。
そのために御存じないものがあるかもしれないと考えたのだが、少なくとも棚の中にはなかった。
鍵を返すとき、ほかに飾りの武具はないか尋ねた。
「式典用なら奥にある。だが、お前が磨くものではないぞ」
「承知しております。お花の飾りがついたお品もございますか」
「さあな。先代のころのものだ。どうしてそんなことを」
私は昨日の絵を見せた。
見覚えがあればというお願いに、家令は面倒そうに紙へ目を走らせたが、首を傾げるだけだった。
「最近買い入れた品ではないな。こういうものなら、私も覚えている」
「どなたかからの贈り物でしたら」
「個人の贈り物まで、いちいち控えは取らんよ」
それはそうだろう。私は礼を言い、紙を畳んだ。
屋敷にないと決まったわけではない。
人が持って入れば、それまでだ。
家族の机や私物を、片端から開けて回ることもできなかった。
廊下へ出ると、侍女が二人、茶器の載った盆を運んでいた。
裏口では食材を届ける男が荷を下ろし、午前の客を迎えるために玄関の敷物が直されている。
この家へ出入りする人の数を、私は数え切れない。
私物の全てまでを確認し始めたら、お嬢様のそばへ戻る時間がなくなる。
ひとまずは、絵を手掛かりにするしかなかった。
午前の仕事を終えてから、私は針糸を買い足すための注文帳を持って衣装部屋へ向かった。
出入りの商人の品書きを借りるつもりだった。
棚に並んだ薄い冊子を捲っていくと、衣服の留め金を集めた頁で、指が止まる。
葉の先が外へ反り返り、細い蔓が二重に巻いている。
花は薔薇で、中心の石も青かった。
探しているものそのものではない。けれど、銀の細やかな曲がり方に見覚えがあった。
「それなら奥様がお持ちよ」
戻ってきた衣装係に尋ねると、そう答えた。
「去年、お取り寄せになった留め金。箱も残っているはず」
棚の奥から出された平たい箱には、見慣れない店の印があった。
中の留め金へ顔を近づけると、蔓の交わる部分に小さな刻みが見える。
花は違う。
それでも私は、しばらくそこから目を離せなかった。
誰が持っているかまでは分からなくとも、あの飾りを作れる職人は限られているのではないか。
その人ならば、誰が買ったかを少しでも覚えているのではないか。
店の名前と通りを手帳へ写す。
明後日は、お嬢様の糸と私の針を買いに出る日だった。




